1.2
真っ暗闇でも落ちているとわかる感覚。頬を撫でていく風。ぐらぐらと揺れて安定しない体。そして何より、足場がないためずっと体が横向きになっている。
これは死んだなと都が諦めの境地に達していると、急にぱっと周囲が明るくなった。何か大きな鳥が飛んでいる。そんな認識ができるほどの高さから、どんどん下に落ちていく。
(あぁ、死んだな)
うっかり自分の死に際を想像してしまい、まだ死にたくないと思った。その瞬間、背負っていた中華鍋ががま口リュックから飛び出し、都の落下位置に滑り込む。
(いや、どちらにしても死ぬのよ)
一周回って冷静になってしまった都は、どうして中華鍋が勝手に動くのかなんてどうでもよくなっていた。せめて目を閉じるか。そんな風に思い実行すると、周囲がどよめく。そこで初めて人がいると認識した都が恐る恐る目を開けると、視界の全てが真っ黒になっていた。
「ぐえっ、ぬあっ、だっ」
女性らしからぬ声を出して中華鍋に『炒められる』都。どういう原理か、巨大化していた中華鍋は鍋肌に沿って都をキャッチし、跳ね上げ、またキャッチをと繰り返す。その内にだんだんと跳ね上げられる高さが低くなり、鍋の底に立てるようになった。すると中華鍋は独りでに小さくなり、がま口リュックに戻っていった。
(……まさか、中華鍋に命を助けられるとは。ん? 助かったんだよね?)
都が周囲を見回す。すると中世ヨーロッパのような鎧を着けた兵士や、立派な髭を蓄えた魔導師のような老人、そしてあんぐりと口を開けたみこがいた。
「みこちゃん! 良かった、みこちゃんも無事だったんだね」
都が声をかけると、みこはハッとしたように正気を取り戻した。それは周囲の人間も同じだったようで、ゴホンと咳払いが聞こえた方を向く。玉座に、整えられた髭を触る王がいた。左右にいた兵士が長槍の柄で床を叩き、一同の視線を集める。
「これより主が話される。頭が高い。控えよ」
ピンと張り詰めた空気の中、都は首を傾げる。すると左右の兵士が長槍の柄で二度床を叩く。
「控えよ」
ぴりついた空気を感じた都は、周囲を窺う。ローブを着た老人も、みこも跪いていた。ひとまず都も、それに倣う。
「我がグルレリ王国喚迎の儀に諾と応えたこと、評価致す」
(かんげい……歓迎? グルレリなんて国名聞いたことないし、もしかして、異世界転移ってやつ!?)
都は、ラノベ女子だ。異世界転生、異世界転移も好んで読む。だからすぐに現状を受け入れたのだが、そんな心躍る都の心情とは裏腹に、王は言葉を留めて渋い顔をしている。顔を上げた都は兵士に注意され、すぐに頭を下げた。
「……此度は我が国に聖女を招喚したのだが……」
王が何か言いたそうに言葉を詰まらせる。すると、周囲からひそひそと声が聞こえてきた。
「聖女がどちらかなんぞ、火を見るよりも明らかであろう」
「聖女は若い女子の方じゃろう」
「しかし、こうしてグルレリに喚迎されたのだ。少し年嵩に見えるが、あれもそれほど変わらないのではないか」
(ん? それはわたしが年増ということか。確かにみこちゃんと比べたら、年齢は上だけども)
ざわつくこの場を静めようとしない王も、都の年齢が気になっているのだろう。
年齢を自己申告するべきかと思っていると、みこが都の服の袖を引く。ゆるふわ茶髪を軽く揺らして、青いカラーコンタクトの瞳を向けてくる。まるでひそひそ話をするかのように、都に聞いてきた。
「ね、さき姉って今いくつだっけ?」
「二十八だけど……」
「二十八! ……そっかぁ。でも、二十八なんだね」
都が住んでいたアパートの隣に住むみこは、十二歳の年の差もあって妹のように接してきた。だから年齢も知っているはずなのに、まるで年齢を強調するかのように二十八と連呼する。みこの声は良く通るから、周囲の人間たちも聞こえたのだろう。またざわつく。
「なんと! 二十八とな」
「しかしのぉ……こうして、喚迎されたのじゃろう?」
「指摘してやるでない。ばらばらの黒い髪は亡霊のようじゃし、何よりあのように細い瞳では……」
老人たちが指摘した通り、都はフライパンに跳ね上げられているときに髪留めが壊れてしまった。長い髪をそれで纏めていたから、見窄らしい状態になっているかもしれない。しかし馬鹿にされる謂われはない。
都は前髪を後ろに流すようにかき上げる。
「お言葉ですが。わたしにも婚約者がいました。勝手にもらい手がないなどと、判断しないでもらえますか」
「おお、怖い怖い。年増の癇癪持ちはうるさいのお」
「年増って……あなた方老人に言われる筋合いはありませんけど!?」
怒りの余りダンッと地団駄をを踏んでしまう。すると都の感情を逆なでするようにして、ローブを着た老人たちが逃げ惑う。追いかけ回してやろうかと憤っていると、みこがまた袖を引く。
「さき姉。巻きこんでごめんね?」
「巻きこんでって、みこちゃんが望んでこちらの世界に来たってこと?」
「たぶん、こっちの世界で一ヶ月くらい経たないと帰れないと思うけど、婚約者さんは大丈夫?」
「一ヶ月って、そんなに? 契約のこととかあるから困るなぁ」
「さき姉ったら変なの。結婚のことを契約だなんて。まるで物語みたい」
「あ、いや、婚約は破棄されたから問題ないんだけど、アパートの更新がね」
みこと話していると、先程都から逃げた老人たちが聞き耳を立てていた。そして「ひょひょっ」と笑う。睨みつけてやると、またぴゅーっと軽い足取りで離れていった。
「そっかぁ。さき姉は結婚してから体を許す派なんだね。みこと同じだね」
みこがにっこりと笑う。まるでそれが二十八まで一度も経験がないことを笑われているように感じてしまった。都を馬鹿にしていた老人たちだけでなく、みこの良く通る声を聞いた周囲の人間が、都に哀れむような視線を向けているから。
(みこちゃん、わざとではないと思うんだけど……ちょっと、声が大きいんだよね)
建物の構造上、王の言葉を聞き逃すことのないように声がよく響くのだろう。だからみこを責めることはできない。
みこと話し終わるまで待ってくれたのか、王が咳払いをして壁際の兵士に目を向けた。そしてすぐに、都は両脇から腕を拘束される。思わず王に目を向けるが、もう都に関心はないらしい。みこをエスコートするように部屋の外へ連れて行く。
「え、ちょっと待って! わたしはどうすればいいの!?」
都は兵士に両脇を抱えられ、少し宙に浮いてしまっている。連行されるように移動させられ、城外に出されてしまった。そしてそのまま、兵士は何も言わず都に背を向ける。
「ちょっと!」
追いすがるように声をかけたが、兵士たちは止まってくれなかった。
「いや、本当にどうすればいいのよ」
前に流れてくる髪を、右横にまとめて流す。リュックに何か棒状の物はないか、紐状の物はないかと探す。そうやって時間をかけてみたが、入口を守る兵士にすら気にかけてもらえない。途端に惨めになって、都はがま口リュックを背負い直した。
「はぁ……とりあえず、街に行く……?」
招喚されるのならば戻る方法もあるかもしれない。前向きに考えようと思い、都が城下町へ行こうとした。すると、城内から聞き覚えのある声が聞こえてくる。振り返ると、都を散々馬鹿にした老人の一人がこちらへ走ってきていた。手には、小さな布の袋を持っている。癇癪持ちと呼び止められていることには目をつぶり、都はそのまま老人を待った。
「癇癪持ち。お主が余りにも哀れでのお。孫がお主と同じ年じゃったことを思い出しての、小遣いじゃ。これでどうにか強くいきるんじゃぞい」
「おじいちゃん……色々と言いたいことはあるけど、とりあえずありがとう」
眉を下げて心配するような顔の老人から、布の袋を受け取った。その瞬間、中で何かが動く。
「ん……?」
縛られていた紐を解くと、ぴょんっと小さな蛙が跳び出していった。
「ぎゃーっ」
「ひょっひょ。やはりお主はうるさいのお」
驚いて尻餅をついてしまった都を盛大に笑い飛ばしてから、老人は城内へ戻っていった。
「あんの、くそじじい……ん? まだ何か入ってる?」
蛙が飛び出して行った袋の中に、金貨が一枚入っていた。まだこの世界での相場がわからないが、低くはないだろう。
「はぁ……まぁ、金貨なんて大金くれたんだから、許してあげるか」
都はがま口リュックを背負い直し、城を後にした。