24話 ダイレクトメッセージ
『太もも配信、それはシュレーディンガーの猫だと推定される』
シュレーディンガーの猫とは、量子力学の基礎方程式である波動関数を発表するなどした、オーストリアの理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが1935年に提唱した、量子力学の欠陥を指摘する思考実験だ。
結論を簡単に述べるなら『実際に観測しない限り、確定していない』だ。
つまり太もも配信を行うVtuberがスカートを履いているか、履いていないかは、視聴者が観測しない限り確定していない。
そして視聴者には観測手段が無いため、より可能性の高い方が推定される。
推定とは、反証が成り立つまでは、それを正当と仮定する事だ。
従って、『太もも配信を行うVtuberは、スカートを履いていないのが正当と仮定される』となる。
……などと、いくら物理学者の思考実験と、法律用語を織り交ぜたところで、話の内容が下らなければ格好は付かない。
太もも配信の翌日、祐真は高尚かつ阿呆な事を考えながら、朝顔が大好きな担任のいる高校に登校した。
「妄想の原因を作った倶利伽羅先生が悪い」
祐真は、太もも配信を強く推した異世界転生系の作家・倶利伽羅に、けしからん妄想が発生した問題の責任転嫁を行った。
全く知らなければ、想像自体が発生しない……と言い切れないのが作家だが、知れば想像するに決まっているのだと、容疑者は供述する次第である。
但し、熱く勧められた太もも配信を行った結果として、紺野カスミのチャンネル登録者数は、ついに100人の大台を突破した。
勢いを保ったまま大台に乗った件に関しては、祐真も倶利伽羅のアドバイスに感謝している。現在は114人であり、数日で120人にまでは上がると期待できる。
「大台に乗ると、嬉しいよなぁ」
祐真が不意に呟くと、前の席で聞き咎めたクラス成績20位の男である高橋が振り返った。
「何が大台に乗ったんだ」
佳澄がVtuberである事は、クラスメイトには秘密だ。
祐真は適当に考えた言葉を並べ立てた。
「Twitterのフォロワー数が100人を超えるとか、小説投稿サイトでお気に入りのブックマーク登録者数が1000人を超えるとか、何かしらキリの良い数字になると大台って思わないか」
祐真が作家である事を高橋は知らないが、Twitterをやっている事や、小説投稿サイトに登録して小説を読んでいる事は知っている。
なにしろ高橋自身も、小説投稿サイトにはアカウントを持っており、小説を読んでいるのだ。
誰でもスマホを持ち、ネットを使う現代社会において、サブカルチャーに全く触れたことが無い高校生など少数派だろう。
多少の知識がある高橋は、小説投稿サイトで1000人にブックマーク登録して貰う難しさも知っている。
小説投稿サイトの話では無いだろうと常識的に考えた高橋は、Twitterでも普通の高校生で100人は有り得ないのでは無いか、と、不思議そうに首を傾げた。
「佐伯って、そんなにTwitterのフォロワーが居るのか?」
「いや、居ない。俺が読んでいる小説の話。ブックマーク登録者数が1000人を超えて、作者さんが喜んでいたからさ」
「へぇ、嬉しいものなのかね」
それは嬉しいだろう、と、祐真は確信する。
誰にも小説を読んで欲しくない人は、ネット上には公開しない。
公開した作者は、自分の小説を読んで欲しい気持ちを持つはずだ。そして、ちゃんと読んで貰えているのかを確認する指標がブックマーク登録者数だ。
ブックマークが0人では、ネット上に公開している意味が無い。同ジャンルで、他の人が登録者100人なのに自分が10人の場合でも、悲観的になるだろう。それで執筆のモチベーションが上がるはずも無い。
逆説的に100人に読んで貰える、1000人に読んで貰えるとなれば、まさに本懐である。創作意欲も無限に沸くだろう。
「嬉しいに決まっているだろう。気に入った作品は、登録してあげて下さい。マジで」
「お、おう?」
祐真の力強い訴えに、気圧された高橋は引き気味で頷いた。
そんな小説投稿サイトに投稿する作者と比べても、動画投稿サイトのチャンネル登録者数1000人は、配信者に多大な影響を及ぼす。
なにしろ1000人は、収益化の申請条件にもなっている。
Vtuberは、髪型や表情の差分、新衣装、イラスト、配信器材、グッズ、オリジナル曲、3D化など、何をするにもお金が掛かる。
ファンアートを使わせて貰えば、イラストは無料だと思われるかも知れないが、その素敵な絵を描いてくれるファンを集めるためには、最初に呼び込むためのイラストが必要なのだ。
目標地点から10分の1であろうと、100人を超えれば嬉しいはずだ。
そのように確信していた祐真は、放課後の部室で、困った表情で祐真を見る佳澄に困惑した。
「どうした。何かあったのか」
明らかに何かがあった様子を表出して、表情で祐真に訴えている。
だから言いたいのだろうと察した祐真は、話すようにと促した。
すると佳澄は無言で、カスミンのTwitterアカウントのダイレクトメッセージを見せてきた。
(見せて良いんかい!)
Vtuberとしての活動用アカウントで、個人情報などは無いのだろう。そう判断した祐真は中身を見て、佳澄が困っている理由を理解した。
ダイレクトメッセージは、太もも配信が良かったという感想と、どの辺に住んでいるのかと問う内容だった。
「……ようするに、Vさんに対するナンパか」
祐真は軽く溜息を吐いた後、何が起こるのかを説明した。
「最初に『これくらいなら良いかな』と軽い気持ちで返信したら、心理的なハードルが下がる。それで言葉巧みに続けられて、会おうと言ってくる。登録者が減っても、アンチになられても、即ブロックが良い。動画投稿サイトでもブロックして、一切返信しない方が良い」
祐真は、ナンパされた経験は無いが、小説投稿サイトで荒らされた経験はある。感想欄の最新投稿20個中18個が、そのユーザーからの連続投稿で、内容も祐真自身にケチを付けるものだったのだ。
もちろん即ブロックをした。
すると1巻を刊行した直後、通販サイトの販売ページに最低の1評価を付けられて、長文で批判を書き込まれるという営業妨害も受けた。
それでも無視を続けていると、やがて反応しない祐真に飽きたのか、次の獲物を見つけたのか、祐真の元から去って行った。
「それで大丈夫なの?」
「大丈夫だ。そうしたら、こう言う輩はガードの堅い相手は諦めて、次のターゲットを探すだけだから」
「……分かった」
佳澄は言葉少なく答えた後、スマホを操作して相手をブロックした。チャンネル登録者数が114人から、1人減って113人になる。
これで100人の大台から下がったのであれば、精神的なショックは、より大きかっただろう。それよりはマシであって欲しいと思った祐真は、昨夜に思い付いた事を口にした。
「もしかすると、校則の話をしたから、高校生だと思われたのかもな」
昨夜の配信で佳澄は、校則で薄手のストッキング類は禁止だから持っていないと話している。
高校生の設定で話す大人のVtuberは数多居るので、校則を話したからといって真実とは限らない。
だが佳澄は、初の太もも配信で緊張しており、挨拶を噛んでいた。それで咄嗟に話したにしては、設定を練りすぎている。
日本では18歳が成人とされて以降、高校生でデビューするVtuberは増えている。もっとも日本には、小学生から配信者になる人や、配信者から中学生で歌手デビューする人もいるが。
「今度から気を付ける」
おかしなダイレクトメッセージを送られた佳澄は、精神的なセキュリティのレベルを1段階上昇させたらしくあった。
「そういえば子狐Vtuberの紺野カスミって、何歳の設定なんだ。高校生の設定なら、高校生らしい振る舞いをしても仕方が無い部分はあると思うけど」
最古参で殆どの配信を見ている祐真が知らないのであれば、おそらく視聴者は、誰も知らないだろう。
問われた佳澄は、もちろん即答した。
「同い年だと思っているけど、狐の寿命は10年くらいだから、言ってないの」
「それって、もう死んでないか」
「そうかも。天界の狐とかにした方が良いかな?」
問われた祐真は、心の中で「設定、練ってないんかい!」とツッコミを入れた。
デビューしたての新人Vtuberが、自分の設定を練り切れていない事は充分に有り得る。祐真は、陰陽師が主人公の小説を書く作家として、妖狐の種類を口にした。
「15年以上を生きる狐は、妖怪には沢山居る。野狐、地狐、気狐、仙狐、空狐、天狐。他にも神社に祭られる白狐、知名度の高い九尾の狐、それに安倍晴明の母親も狐だ」
他にも居るが、無名な妖怪を出しても視聴者には伝わらない。
それどころか狐のVtuberをやっている配信者にすら伝わらなかったらしく、佳澄は困惑の表情を浮かべながら、祐真に尋ねた。
「どれが良いのかな」
あまりに位の高い狐では、自分は神仙だというようなもので、烏滸がましいと思われかねない。
かといって下っ端の狐だと、視聴者へのインパクトが薄くて、配信者としてマイナスになりかねない。
「とりあえず修行中の妖狐という形で、曖昧にしておいたらどうだ。それなら後で、何かに昇格したと言えるし」
問われた作家も決めかねた結果、カスミンは謎の妖狐となった。
























