20話 観察するVtuber
目が覚めると無人島では無く、自宅のベッドの上だった。
ところで寝台のベッドは、英語のBedでも、ドイツ語のBettでも良いとされる。
これは明治以降、日本が西洋医学を取り入れる際、ドイツ医学を参考にしたためだと言われる。
布団で寝ていた日本には、かつてベッドの文化が無かった。
明治後期にベッドが入ってきた時、その寝台は「ベット」と呼ばれて、以降そのまま用いられたのである。
従って寝台は、英語でベッドと呼んでも、明治以降に日本が呼び続けてきたベットと読んでも、いずれも間違いでは無い。
医療現場では、ドイツ語を起源とする、ガーゼ、カプセル、ギプス、ワクチン、アレルギー、チアノーゼ、オブラートなどの言葉が溢れており、一般でも広く呼ばれている。
Vakzinはドイツ語であり、英語ではVaccineだ。
つまり「ベットは間違っている、ベッドと言え」と主張するならば、「ワクチンは間違っている、ヴァクシーンと言え」と主張しなければならない。
さもなくば二重規範で、主張者が間違っている。
それでは、ワクチンと呼んでいる日本人全員に対して、ヴァクシーンと呼ぶように改めさせるべきだろうか。
それは常識的に考えて不可能であり、あまりに非現実的だ。
そんな事はしなくて良いし、しようとする人間に取り合う必要もない。
小説で「ベッド」あるいは「ベット」という単語を用いるのであれば、併用を避けて、どちらか一方に統一すれば良いだけである。
用語の統一自体は、小説を書籍化する際には必須だ。
漢数字の「一、二、三」とアラビア数字の「1、2、3」は混ぜないようにしなければならないし、同じアラビア数字でも大文字と小文字は混在してはいけない。
他にも「わたしたち」と「わたし達」も、どちらか一方に統一しなければならないし、キャラクターのセリフは、地の文で発言者を明確化すべきだとか、重言をさせてはいけないだとか、守るべき常識がある。
従って初稿が拙い新人作家には、相応の校正作業が発生する。
擬音で『ニヤリと笑った』『キンキンキン』のような文を書いていたならば、『口角を吊り上げて深い笑みを溢した』『鋭く突き出した剣先が力強く弾かれて跳ね上がった』のように変える必要もある。
擬音自体が悪い訳では無いが、『ニヤリとわらった ふたりのおとこが キンキンキンと けんをぶつけあった』だと、幼稚園児向けの絵本レベルだ。生憎と祐真には、自身が幼稚園児向けの絵本作家であるとの認識は無い。
そのように思考を回転させていくうちに、祐真は完全に目を覚ました。
そして朝食を摂り、思考力の半分を小説の世界に注ぎながら登校した。
「クラスの目標を発表する、あ・さ・が・お・だ!」
夢の世界の無人島から帰国した翌朝、朝のショートホームルームで担任が配ったプリントには、恐るべき事が書いてあった。
クラス目標「あさがお」
あ=あきらめない
さ=さめない
が=がんばる
お=おもいやり
祐真の全身に鳥肌が立ち、悪寒が頭の天辺から足の爪先までを駆け抜けた。
まるで『ニヤリと笑った剣豪同士が、キンキンキンと剣を打ち付け合った』という文章を見たかのような激しい羞恥心に苛まれ、「誰かの黒歴史を読むとこのような感覚になるのだろうか」との虚しさに苛まれる。
小学校低学年であれば問題ないだろうと祐真も思うが、高校生を相手に掲げるには、相応しいレベルの目標であるのだろうか。
何かを伝える時は、相手に合わせたレベルを考えるべきだ。伝達内容は、簡単であれば良いとされるが、度を過ぎると侮辱になる。
企業の年間目標には、「あさがお」とは書かれないだろう。
小学校低学年の年間目標には、書かれても問題ないと思われる。
それでは高校生とは、社会人と小学校低学年と、どちら寄りであるのか。担任が小学校低学年寄りだと思っているのだとすれば、甚だしい侮辱である。
掲げられた「あきらめない、さめない、がんばる、おもいやり」に関して、一体何人の生徒が冷めて、教師を思いやる心の容量に大量の朝顔を突っ込まれた気分に陥っただろうか。
(生徒を馬鹿にして、「お前ら勉強しろよ」と言外に告げているのかな)
このように相手の意図を読み取ろうとしてしまうのが、作家の性である。
祐真の担任は、国語の教師だ。
教育学部を出たのか、文学部を出たのかを祐真は知らなかったが、文学部であれば作為的と思われる。なにしろ文学部は頭が良い。
やがて自分のペースを取り戻した祐真は、担任の掲げた「がんばる」に関して、作家として頑張ろうと思った次第であった。
「他の子の配信を見に行くのは、浮気って言うんだって」
あさがお事件から1日分の授業を経た放課後、少しだけ知識を付けた佳澄が祐真を断罪した。
新人作家が1冊目の校正を経て、少し知識を付けるようなものだろうか。
1ヵ月間の配信を行った佳澄も相応の知識を経て、視聴者である祐真に配信者らしい言葉を告げたのである。
「そういう文化はあるが、自己申告しなければ、浮気じゃないんじゃないか」
「そんな事無いと思う。フクロウの人だって、どこかの猫に言っていたし」
そんな事もあったかもしれないと振り返った祐真は、佳澄が誰の配信を見に行ったことを問題にしているのかに見当が付いた。
佳澄は2度の配信で、現在のチャンネル登録者数が85人にまで上昇した。
そしてカスミンが2度のASMR配信を行って、祐真の感想で機嫌を良くした後、祐真は「フクロウの人」の配信しか見に行っていない。
これで祐真に向かって、視聴者の浮気について語るのであれば、常識的に考えれば「フクロウの人」に関してでしか有り得ない。
「遭難ASMR、見に来ていたのか?」
「この前、Vtuberのアカウントで偵察したら駄目って言っていたから、書き込みしないで見ていたの」
「…………なるほど」
返答に間が空いた祐真は、自分が一体どれだけ観察されているのだろうかと戦慄した。
自分のコメントに『いいね』を押し、唯一の常駐視聴者であれば、Twitterで誰をフォローしているのかを確認するだろう。
そして祐真は、カスミンの配信を見ずに、フクロウの人ことカナエの配信を見ていたこともある。であれば、自分の客である祐真を奪うライバル店のチェックもするはずだ。
カナエが、最大の投げ銭を行う祐真に対して浮気と言ったのと同様に、佳澄も、最大の支援をする祐真に対して浮気と言ったわけである。
利害による争奪である点が、普通の色恋とは全く異なるが。
「浮気者―」
上目遣いで訴える佳澄に対して、祐真は何と答えたものかと迷った。
「どちらかと言えば、先に知ったのがカナエさんなんだけど」
「つまり私が浮気相手なんだ?」
無垢な瞳を向ける童顔少女に対して、祐真は相手がどれだけ作為的なのだろうかと疑念を抱いた。
そして疑念を抱きつつ、同時に動揺した。
(騙されてはいけない。これは営業トークだ)
祐真の隣に座る佳澄は、キャスター付きの椅子をゆっくりと近づけて、祐真に圧力を掛けてきた。
視聴者に浮気と言って圧力を掛けるのは、新人Vtuberが獲得する技能の1つだ。顔が見えない天猫であれば、そんな圧力は適当な語尾や、冗談で受け流す。
だが祐真には、生身で責められた経験は無かった。圧を掛けられた祐真は固唾を呑み、身体を仰け反らせて、僅かな執行猶予期間を得た。
それでも先延ばしした刑は、物理的に迫ってくる。
どこまで冗談なのだろうか、佳澄が迫り続けて、救いを求めた祐真が部室の入り口に目を向けると、そこに佇む野久田と目が合った。
「……あっ、野久田部長」
祐真が佳澄に伝えるように声を掛けると、佳澄も祐真から離れて、入り口に振り返った。
野久田は目を細めて苦笑いをしており、祐真の呼び掛けに笑いながら、わざとらしく返答した。
「おっと、お邪魔してしまったようだね。でも君達、付き合うのが早くないかな。いや、良いんだ。どうぞごゆっくり。でも声は小さくね。今日はもう来ないから、鍵は管理室に返して置いてくれよ」
違うと否定する間もなく、部長は回れ右して去って行った。
やがて呆気にとられた祐真が佳澄を見返すと、祐真に向き直った佳澄は先程と相変わらず、上目遣いで、責めるような瞳を向けてきた。
























