13話 タオル配信と雪女
長野県の北安曇郡にある白馬大雪渓。
大雪山には不規則に強風が吹き荒れており、歩めば粉雪が舞い上がって、登山者の全身を覆い隠してゆく。そして最深部には、全長3キロ、幅600メートルに渡って、一年中融けない万年雪が積もっている。
万年雪の周囲では、いつの頃からか登山者に、行方不明者が頻発していた。捜索が行われ、やがて原因が雪女にあった事が突き止められる。
そして陸上自衛隊が、雪を融かして退治した……かに思われたが、雪女は翌年以降も出現して、今も人を攫い続けていた。
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「……っと、あー、休憩しよう」
身体を伸ばした祐真は、ゲーミングチェアにもたれ掛かった。
途端に世界が、没入していた粉雪の煌めく雪山から、パソコンが置かれた自室に引き戻されて、平和で穏やかな時が流れ始めた。
大きな溜息を吐いて、凍える吐息を吐いた祐真は、パソコンから開いたサブアカウントの『天猫』でTwitterを覗き込んだ。
天猫がフォローしている相手は、自身の小説のイラストレーターである鳴門金時と、Vtuberが8人で、合計9人である。
逆にフォローされている相手は、カナエ、正体を知るカナエの視聴者3人、謎の宣伝アカウント1人で、合計5人だ。
天猫は1度も呟かず、『いいね』と『誰かへのコメント』しか行わないために、フォロワーが増える余地は無い。
そして自身もフォロー相手が10人を超えないように外すので、フォロー数が大きく増える事も無い。
「でもカスミンは、天猫をフォローしておいた方が良いと思うけどな」
Vtuberが視聴者を無制限にフォローし始めると、際限が無くなる。
一切フォローしないか、活動初期だけに留めるか、メンバーに限定するか、全員フォローするか。Vtuberは新規の視聴者から不満を持たれないために、明確で公平な基準を設けるべきである。
だがカスミンにとって天猫は、唯一常駐する視聴者だ。もしも天猫を逃せば、カスミンは誰も見ていない配信者に転落するだろう。
一時期にネット小説で流行った「今更戻ってこいと言われても、もう遅い」が発生する手前の状況である。
カスミンと天猫との間には、同じ部活である佐伯祐真と和泉佳澄との関係もあるが、それは外部からは分からない。
視聴者への対応は、新規の視聴者や、周りの配信者も観察している。
現在の活動状況に鑑みれば、崖っぷちの配信者カスミンは、ちゃんと付き合ってくれている天猫をフォローしておくべき状況だろうと考えられた。
「まあ、良いけど。いや、ツンデレって、どんな風に言うんだっけ。『別に、あんたにフォローされなくったって、全然気にしてないんだからね!』かな」
男性がツンデレを装っても、鬱陶しいだけだと反省した祐真は、ヤンデレの方が良いだろうかと考え直した。
「視聴者が配信者を監禁して、『お前の事を、もっと見ていたいんだ』とか…………それは誰かを監禁する理由として、小説のネタに出来るかな」
祐真は思い付いたネタを書き留めると、自身がフォローしている相手の発信を確認し始めた。
登録相手は8人しか居ないとはいえ、Vtuberは既存の視聴者を繋ぎ留める為や、新規の視聴者を獲得するために、一日に何度も呟きを発信する。
20件近い呟きが発信されており、それらをスクロールして、自分をフォローしているカナエの呟きだけに『いいね』を押した祐真は、カスミンの発信を確認した。
『21時から、初めてのASMR配信をしま~す!』
カスミンの呟きには、画像も添えられていた。
画像の左側3分の1には、Vtuberカスミンのスクショ画像がある
右側3分の2には、大きな文字で『タオルでごしごし』が記されている。
そして背景色はピンクで、それに赤色のフレームが二重に入っていた。
ちなみに発信時間は、19時37分である。
「成長したなぁ」
驚異の1時間23分前告知であり、今回は祐真も配信前に確認できている。
近所の幼稚園児が、小学校に入学していた姿を見た。そんな温かい気持ちになった祐真こと天猫は、カスミンの呟きにも『いいね』を押した。
そして動画投稿サイトの配信待機画面に入り、待機と打ち込んでおく。
中途半端に時間が空いており、集中して作業をするには向かない。
そんな時に祐真は、ネットで無料の将棋やリバーシを行う。
将棋は、相手の強さを自分より少し低くして、その場所に置いたら相手がどう動くのか、逆に相手を封じるにはどうすれば良いのかを考えながら、ポチポチと駒を動かしていく。
戦いのシーンでは、単純に殴り合うのではなく、頭を使って決定打を放つ方が、読者に印象付けられる。そんな風にも考えながら、祐真は将棋で2回勝って、1回負けた。
次に祐真は、将棋よりは単純なリバーシを行った。
単純な白と黒の取り合いだが、盤面の1ヵ所だけに集中して打ち、端に寄せながら、1ヵ所の角を取るまで詰めていく。
角を1つ取った後は、その角側から浸食して、盤面を埋めていく。
相手が初級の設定であれば勝率は高くて、完全に塗り潰せる事もあるが、3割ほどは敗北して負けてしまう。
祐真が概ね時間を消化したところで、カスミンの配信が始まった。
『えーとっ、それじゃあ配信始めようかな。今日は3人見てくれていますね。どうも、ありがとう。紺野カスミでーす』
元気は良いが、開始の挨拶は安定していない。
そんな風に考えるのは、新人Vtuberには酷だろうかと、祐真はカスミへの評価に迷った。
なお同時視聴中の表示は3人と出ているが、待機コメントを打ったのは祐真ともう1人である。
3人目の正体が、Vtuber紺野カスミを描いたイラストレーターや、佳澄の実姉などでは無い事を祈りつつ、祐真は適当にコメントを打ち込んだ。
『こんカスミ~ですにゃ』
作家であれば、猫の皮くらいは被れる。
性別の異なる深窓の御令嬢であろうと、陽気な殺人鬼であろうと、戦時中の国家元首であろうと、作中に登場するのであれば多少は書けなければならないし、むしろ書けなければ本を出せない。
猫に化けた祐真は、にゃあと喜んで見せ、もう1人の待機者も『こんカスミ』と打ち込んで、カスミは機嫌良く返事した。
『はい、こんカスミですよ。今日は、なんと初挑戦、タオルでASMR配信です。緊張しますね。あ、音量とか大きかったり、小さかったりしたら、教えて下さいね』
『リスナー側でも、音量は調整できますにゃ』
『おっけー、じゃあ、ゴシゴシやるよー』
途端にスピーカーから、タオルを両手で持って、それを擦り合わせたような音が流れてきた。
祐真は2台のノートパソコンを所持しているが、使用状況は少々特殊だ。
2台のノートパソコンは、いずれもHDMIケーブルで2台のテレビと繋げており、パソコンの画面をテレビに映し出している。
ノートパソコンからは、有線のキーボードとマウスが伸びており、マウスを左右に移動させると、隣のパソコンも操作できる。
すなわちカスミンのタオル配信について、祐真は配信画面をテレビで見ていた。音量は、テレビのリモコンで操作できる。
2台目のテレビとパソコンで、カスミンの初挑戦であるタオル配信を映した祐真は、1台目のパソコンで執筆を始めた。
カスミンにASMR配信を勧めた以上、祐真には視聴する義理があるだろう。タオル配信を勧めたのでは無く、ASMR配信を勧めたのだが、種類を指定していなかった以上、何を選択しても文句は言えない。
カスミンがタオルを擦り合わせる音は、それほど激しくは無かった。
内気そうな垂れ目の童顔少女がタオルを擦り合わせているのだから、力強く擦れるはずも無い。
不規則に聞こえる音に耳を傾けながら、祐真の心は大雪原に舞い戻った。
凍える世界に響く音は、あまり気持ちが良いとは言えない。
音だけでも、カスミンが何をやっているのかは、大凡想像できる。だが、単にそれだけだ。
浜辺の波、川のせせらぎ、鳥のさえずり、焚き火の音など、音から連想できる豊かな風景の広がりが、タオルを擦り合わせるだけの配信には存在しない。
新人では無い配信者であれば、どのように配信するだろうか。
シチュエーションを作って、「もう少しゆっくりと擦りますね」だとか、「耳を触りますよ」だとか、視聴者の想像力を掻き立てるような言葉を発するのでは無いか。
カスミンは、それらを一切行えず、単に目の前のタオルを擦っている。むしろ、行わなければならない事を知らないのではないかと、祐真は考えた。
和泉佳澄の姿を知る作家の祐真は、状況を想像できる。
だが他の視聴者は、関心を維持し続けられなかったらしく、3人居た視聴者が2人に減っていた。
世界を凍えさせる寒波が、大雪原を覆っていった。
この雪山の下には、心を凍て付かせるあどけない雪女に凍らされた、かつての視聴者達の亡骸が埋もれている。
「……耐えるんだ、寝たら死ぬぞ」
祐真は残った視聴者に声を掛けてみたが、2人居たはずの視聴者は、いつの間にか1人になっていた。
雪女は、なぜ人間を凍えさせるのか。それは雪女だからである。
祐真は寒さに耐えながら、寒波が去るまで配信を聞き続けた。
























