エントロピー
【エントロピー増大の法則】物事は放っておくと乱雑な方向へすすみ自然に元に戻ることはない。コーヒーにミルクを注ぐとやがて両者は均一に混ざってしまい逆の分離する方向に進むことはない。
慌ただしく朝食を済ますと美桜は足早に玄関に向かった。
「ごめん、後片付けお願い。ごみは私が出しておくから」
「忙しないな、もう少しはやく起きればいいのに。車に気をつけろよ」
「わかってる。行ってきまーす」
宏がテーブル上の皿に手を伸ばしかけたとき美桜が顏だけダイニングに覗かせていった。
「そうそう、昨日じいちゃんから電話があって一周忌の法要のことで話があるっていってた」
「わかった、あとで電話してみる。行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まりぱたぱたという駆けていく足音が聞こえた。宏は食器を洗いながら考えた。あれからもう一年か。最初はどうしたものかと不安に感じたが慣れるものなんだな。手早く片づけを済ませると出勤の支度にとりかかった。
宏が昼休みに義理の父の勝男に電話してみると、話というのは法要に関しての確認のようなもので大した用事ではなかった。昨日の電話は予想したとおり孫の美桜と話がしたかっただけだったのだろう。
「家のことは、家事なんかは問題なくやれているのかい」ふと思いついたというような口ぶりで勝男がいった。
「まあなんとか。最初は慣れなくて大変でしたが。それに美桜もよく手伝ってくれていますし」
「そうか、ならよかった。いやね、ばあさんが心配していていつもそのことばかり話しているんだよ。僕が家事を全くやらないタイプだからね、男のひとり親というのが想像できないみたいなんだ」
「どうもご心配をおかけしまして。でもありがとうございます。やってみると案外できるようになって自分でも驚いています」
「窮すれば通ずってやつかな。昨日話した感じでは美桜も元気にしているようでなによりだね。それにしても……」そこで言葉が途切れ奇妙な沈黙が生まれた。宏は電話の向こうの気配を探るように耳を澄ませてつぎの言葉を待った。
「あの子が逝ってしまってもう一年経つのか」ため息のように勝男がいった。
「はい」
「もうというか、僕のなかではまだ一年といった方がいいかもしれないな。こんなことを君に語るのが相応しいことなのかは分からないが、やはり娘を亡くすというのは辛いよ。こんなにも辛いものだとは思わなかった」
「わかります」
「今でもふとした拍子にあの子を思い出してね。それが子どもの頃の姿なんだよ。中学生だったときがいちばん多いかな。親ばかと思うだろうが、ほんとうに可愛い娘だった。もっともその頃は反抗期に入っていて僕とはちょっと距離をとっていたんだけれどね」
宏は美桜の姿を思い浮かべた。最近その表情に母親の面影が重なることがある。きっと妻もあんな少女だったのだろう。
「もちろん、いちばん辛い思いをしているのは美桜と、そして君だということはよく分かっているよ」
「それなんですが」
「うん、なんだい」
「最近わからなくなってしまったんですよ」
「うん」
「早苗が亡くなって、その直後は心にぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感と、比喩ではなくほんとうに胸に突き刺すような痛みを感じていました。深い悲しみと苦しみに襲われ、それは体の中心で実体を持った塊のような、どす黒い滓となって存在しているのがわかりました。精神的にも体力的にもまさにぎりぎりの状態だったのでしょう。でも美桜を守らなければ。ここで挫けてしまったら娘まで失ってしまうかもしれない、その一念で私はなんとか日常を取り戻すことが出来ました」
「その頃のことは僕もよく覚えているよ。頑張ったね」
「はい。自分でもよく立ち直れたと今では思います。ですが、気がついてしまったんです」
「気がついた。何を」
「あれほど私を苦しめた痛みが段々と薄れていってしまったことに」
「ふむ」
「あんなに堅固に私の中に居座っていた悲しみや痛みが段々と薄れていって、今ではほとんどその存在を認識することが出来なくなってしまいました。もちろん、彼女のことを思い出せば悲しい気持ちや寂しい気持ち、そしてやるせない感情が湧いてきます。でもそれとは違う、もっと深くて鋭利な、核心的なものを失ってしまったような気がするんです。あるいはそれは元々そこにはなかったのではないかともさえ思えてしまうんです。そして彼女に対する愛情ですら本物であったのか懐疑的に思えてしまって」
「なるほど、君のいわんとするところはわかるような気がする」ここで勝男は一呼吸置いた。言葉を選んでいるのだろう。「でもね、それは当たり前のこと、普通のことなんじゃないかな」
「そうでしょうか」
「人は時間と共に痛みに慣れるもんだ。そうでなければ人生は辛すぎるよ。それに、さっきあんな話をした僕がいうのも変だけれども、君がいつまでも悲しみ苦しんでいたら早苗も浮かばれないだろう」
「はい」
「心の痛みが薄れていったからといって愛情を失ってしまったというのも違うんじゃないかな」
「そうですか」
「たぶんそうだと僕はそう思うけどね。いや、そうであって欲しいかな」
照れくささのようなものを感じたのだろう、勝男は少し笑いを含めた口調でいった。
宏が夕食後の片づけを終え、洗濯機を回し、リビングで本を読んでいると美桜が二階から降りてきた。
「ちょっと教えて欲しいんだけど」
「なんだ、宿題か」本を閉じてソファーに置く。
「ううん。本を読んでいて気になったんだけど、いまいちイメージがつかめなくて」
「どれどれ。ああ『エントロピー増大の法則』か。そうだなあ。ちょっと台所に行ってスプーンと牛乳を持っておいで」
美桜はいわれるままにスプーンと牛乳のパックを両手に持ってきた。それを受けとると宏はマグカップに入った飲みかけのブラックコーヒーをスプーンで円を描くようにかき混ぜた。カップの中に渦が出来る。そしてそこに少量の牛乳を注いだ。
「見ててごらん、始めはコーヒーと牛乳は別々のものとして存在しているだろう。でも時間と共にこのふたつは混ざり始め、最終的には一体となってしまう」
「そんなの当たり前でしょ」
「そうだな、当たり前だ。だからこそ法則なんだ」
「ふーん」
「そしてここで大事なのは、コーヒーと牛乳は自然な状態では再び分離することはない。カフェオレが勝手にブラックコーヒーとミルクに別れることはない。これをエントロピー増大の法則というんだ。コーヒーと牛乳が混ざっていくことをエントロピーが増大しているというんだな。ここまではわかったかな」
「うん、なんとなく」
「そして熱いお茶は自然な状態では冷めていき決して勝手に熱くなったりはしないとか、塩と砂糖をおなじ袋に入れてよく振れば混ざっていき塩と砂糖に分かれていくことはないとかも同じ理屈なんだけど、その辺はまだ難しいかな」
「いや、なんとなくわかる。なんとなくだけどね」美桜はマグカップの中で牛乳が渦巻き模様をつくる様子をまじまじと眺めていた。「たとえば……プールに塩素の塊を投げ込むと、塊は溶けて小さくなって最後には消えてしまう。でも溶けた塩素がプールの中で勝手にもとの塊に戻ることはない。そういうことでしょ」
「そうそう。さすが水泳部らしい例えだな」
「でもさ、水の中で消えてしまった塩素の塊は消えてしまったわけではないんでしょう」
「そうだな、消えてしまったわけではなく水と混ざりあい一体となったというべきかな」
「なるほどね。ありがとう」牛乳のパックを冷蔵庫にしまうと、美桜は軽やかな足取りで階段を駆け上がり部屋に戻っていった。
宏はたったいま自分が口にした言葉について考えていた。
『塊は混ざりあい一体となる。薄れていくが消えてしまったわけではない』
一周忌の法要を翌日に控えた夜、宏と美桜は礼服などの支度をしていた。
「じいちゃんとばあちゃん、明日うちに泊っていくの」
美桜は父親の靴下を探してタンスを漁りながら訊ねる。
「いや、誘ってみたんだけど用事があってすぐ帰らなきゃいけないらしい。そうだな、こんどの連休にでも遊びに行ってもいいか明日聞いてみるか」
「やった。ばあちゃんの料理たのしみ。ママの味と似ていて美味しいんだよね」
「いわれてみればそうだな。ママも料理が上手だったが、ばあちゃん仕込みだったんだろうな」
「私も上手くなるかな」
「なるだろう。ばあちゃんに教わればママの味も出せるようになるさ」
そのとき美桜があっと小さな声をあげた。見てと差し出したのは編みかけのマフラーだった。それは宏も見覚えがあった。早苗が熱心に編んでいた淡いブルーのマフラーで、仕上がりは残りはんぶんといったところだろうか。
「こんなところにあったのか」美桜は編みかけのマフラーを撫でながらいった。「これ私が残りを編んでもいいかな」
「もちろんいいだろ。ママもきっと喜ぶよ」
「完成したらパパにあげるね」
「自分で使えばいいのに」
「だって、きっと上手くできないもん。そんなの恥ずかしくって使えないよ」
「ひどいな。でも楽しみにしてるよ」
宏は笑いながらいった。娘が編み物をしている姿を思い浮かべ、そこになにかがあるような気がした。




