33. 神様ごめんなさい
昨日、結局愛海の血は吸えなかった。心の中では吸うチャンスがあるんじゃないかと期待していたんだけど、さすがにあの様子じゃ血をもらうわけにはいかなかった。
(喉渇いた!)
愛海の血は目の前でお預けを食らい、湊斗君の血は少し舐めただけ。渇かないはずがない。
私はいつものように辺りが暗くなるのを待っていると、ふと私の中にいたずら心にも似た好奇心が芽生えた。以前千宵子が言っていた、眠っている時に血を吸うのが楽しいというアレだ。
香苗から吸うか神君から吸うか。しばらく考えた後、今回は神君からもらうことにした。どっちの血も飲みたいんだけど、もし香苗を前みたいに怖がらせてしまうことになったら申し訳ないからだ。
そうして神君が寝静まる時間まで待ち、私は音を立てないように神君の部屋に入る。
(よしよし、寝てるね)
耳をすませば神君の寝息が聞こえてくる。
そういえば昔愛海の寝込みを襲おうとしたこともあったな。いや、あの時の愛海は起きてたんだっけ。
私は静かにベッドのそばまで近寄ると、なんとも無防備な首筋が目に入る。
(ああ、これやばい…。ぞくぞくする)
千宵子の言っていたことがわかる。このドキドキ感、たまらない。まさか神君も寝てる間に私に血を吸われたなんて思わないだろうな。いや、首の傷痕でバレるのか。でもその時の神君の反応が見てみたい。怒るのかなあ、驚くのかなあ。
あまりベッドを揺らさないように、神君の体に手を触れる。
「んんっ…」
っ!
……なんだ、起きたわけじゃないのか。よかった。
もう一度仕切りなおして神君の首元に顔を近づけると、かすかにおいしそうな匂いがしてくる。無防備な首筋を前にして、私は自分の心臓はかなりうるさく鼓動している。
(ふふふ、いただきます)
心の中でそうつぶやき、私はそっと牙を入れる。音もなく皮膚を貫通した傷からは甘美な血液があふれてくる。
…おいしい。
その味に体の奥がぞくぞくしてくる感覚に陥る。千宵子は寝てるときはおいしくないなんて言っていたけど、そんなことはない。むしろいつもよりおいしいくらい。
血を吸い出す音、それを飲み下す音が、やけに耳に響き、自ずと口内の血液に意識が引っ張られていく。暖かくて甘い味、芳醇な香り、たしかにこれは癖になってしまうのもわかる。
少しの間夢中になっていた私は、一度牙を抜いて呼吸を整える。小さく深呼吸をしつつ神君を確認すると、まだ寝ている。
(もうちょっともらおっ)
まだそんなに吸ってないから大丈夫なはず。
そう思ってもう一度神君の体に触れたときだった。私は何が起こったのかもわからないまま浮遊感を感じ、次いで背中を思い切り床にぶつけてしまった。
「きゃっ!」
思わずそんな声を出したのもつかの間、私に覆いかぶさった神君が剣のようなものを私に向かって構える。
(えっ…? これやばくない…?)
頭で自分の身に迫る危機を感じた瞬間、私はあわてて神君に声をかける。
「ちょ!ちょっと!私!私だから!」
私のその言葉に一瞬反応した神君の剣は、私の首元ギリギリのところで止まる。
「っ、美夜…?」
危なかった。あと一歩遅れていたら、私神君に首切られてたんだけど。
そんな恐怖で少しの沈黙が訪れる。
「あっ、危ないじゃない…!ここまでしなくても…」
すると神君は剣を引いてくれた。
「まったく…驚かせないでくれ」
「っ、驚いたのはこっちの方よ…。まさか殺されそうになるとは思わなかったわ」
「すまん。……ん?」
神君は不意に自分の首元に手をやり、自分の手のひらを見て私に懐疑的な視線を向ける。
「美夜、僕の血を吸ったのか?」
「あっ」
ばれた。血はついてないと思うけど、私が舐めたときの唾液はついているはずだから言い逃れはできない。
「でもっ、私も驚いたんだしおあいこよ!」
「何がおあいこだ。人の寝込みを襲う美夜が悪い」
「うぅ…」
「はあ、もういいから早く自分の部屋に戻ってくれ。途中で起こされて眠いんだ」
「は、はーい」
私は追い出されるように神君の部屋を出る。
まあハプニングがあったとはいえ、当初の目的は果たせたし良しとしよう。そう思いながら私も自分のベッドに戻った。
翌日神君と目を合わせると、神君は眠そうな様子で大きなあくびをしていた。
「おはよ。あれから眠れた?」
「見ての通りだ。気が立って何回も途中で起きたよ」
「うっ…」
少し申し訳ない。
「何かあったんですか?」
「なに、美夜に寝込みを襲われただけだ」
「えっ!」
む、人聞きの悪い。少し血をもらっただけだっていうのに。
「あれじゃどっちが襲ったのかわからないよ」
「っ、やっぱり二人はそういう関係だったんですね…!」
「ちょっと、なんでそういうことになるのよ。私が血を吸おうとしたら反撃食らっただけ」
昨晩のことを軽く説明すると、香苗は少し驚いた顔をする。
「なんだ、そうだったんですか。でもそれは美夜が悪いですね」
「うぅ、香苗までそんなことを…」
でももう神君の寝込みを襲うのは止めよう。命がいくらあっても足りない。
「それはそうと、美夜は今日も暇ですよね?」
「失礼ね。いつもいつも私がなんにもせずただ時間を潰してると思ってるの?」
「じゃあ暇じゃないんですか?」
「…今日はたまたま暇だけど」
「だと思いました。美夜に手伝ってほしいことがあるんですよ」
「…仕方ないなあ。なにするの?」
「荷物持ちです!」
こうして今日は香苗のお買い物に協力することになった。どうやら買いたいものが多くて香苗には少し重いらしい。
私は香苗の付き添いで家を出ると、しばらく食料品店をまわって食べ物や飲み物をたくさん購入した。少しでも安く買うためにいろいろな場所を回っていたせいで、周囲はもう暗くなり始めている。
「美夜がいてくれて助かりました。この量を私が運ぶのはできないんですよ」
「それならよかったわ。でもいつもはどうしてるの?」
「いつもは何回かに分けて買いに行ってますよ」
そこまでするくらいなら多少高くでも同じ店で全部買ってしまえばいいのに、と思う。まあでもこういった小さな節約も積み重なれば大きなものになるんだろう。
香苗は真面目だなあ、なんて思いつつ歩いていると、視界の先に教会らしき屋根を捕えた。
「あ、あの教会…、香苗が行ってるところ?」
「そうですよ」
「ふうん」
想像しただけで変な気分になってくる。あんなものに祈りをささげる気が知れない。まあ人間からしたら十字架がなんともないってことは理解しているんだけど。
「美夜は教会は嫌いですか?」
「まあね。吸血種には嫌なところよ」
「やっぱりそうなんですね。十字架ですか?」
「うん。十字架もそうだし、なんとなく雰囲気がもう嫌ね」
そんなことを話しながら教会の前を通りかかると、香苗は急に足を止める。
「どうしたの?」
「少しお祈りしていきますか」
「えっ、まあ少しなら待ってるわ」
「いえ、違います。美夜も行くんですよ」
「えっ?」
香苗はそう言って少し強引に私の腕を引く。
「ちょっと!私はいいって!」
「せっかくですから行きましょう!」
「せっかくって何!? さっきの私の話聞いてた!?」
「美夜は日頃人に迷惑をかけているのです。このくらいのことはしないとです!」
そうして手を引かれるまま、私は教会の門をくぐってしまった。
「ちょっと…本気? 吸血種を教会に連れ込むなんて」
「いいんですっ」
いいのか。仮にも吸血種は神様の敵なんじゃないのか?
そうして香苗は私を祭壇の前まで連れていき、大きな十字架の前で手を合わせる。
「教会はね、自分の罪を告白するところなんです。美夜も何かあれば来てくださいね」
「吸血種の私が好き好んでこんな場所に来るはずないでしょ…」
「ふふ、別に来なくても構いません。こういう場所があることが大事なんです」
よくわからない。でも香苗にとっては大事なことなんだと思う。目をつむり、手を合わせる香苗は何を祈っているのだろう。自分の罪を告白する場所か。
「何を祈ったの?」
「内緒です」
「むっ」
「さ、美夜も何か祈ることはありませんか?」
祈ると言われても困る。だいたい私は神様の敵なわけだし。私にはこの大きな十字架からは不快感しか感じられない。
そんな私の反応を見て香苗は少し首をかしげており、その光景は微かに私の欲求を刺激する。
「…香苗、血吸わせてよ」
「は、はいっ!?」
大きな十字架が私の心をかき回す。そう、これは十字架のせいなのだ。それに、教会は嫌なところではあるけれど、そこで血を吸うなんて少しドキドキする。
「何言ってるんですかっ。冗談はやめてください」
「冗談じゃないよ。香苗の首おいしそうだからさ」
「なっ、だ、だめです…!神様の前なんですよ!」
「うん。だから、かなあ」
少し後ずさりする香苗の肩を捕まえると、香苗はその場に座り込む。私は香苗の服に手を添え、首筋がよく見えるように少しだけ引っ張る。そのまま香苗を抱きしめるように近づくと、香苗はその弱い力で私を押し返そうとする。
「ほんとにダメですって!こんなこと…」
「どうして?」
「だからっ、神様の前なんですっ!」
「でも私をここに連れてきたのは香苗でしょ?」
「それは…。でもこんなことをさせるために連れて来たわけじゃないです…!」
「ふーん。…ね、私おなかすいてるの。香苗は助けてくれないの?」
「っ…」
「それに香苗がくれないとその分他の人からたくさん吸わないといけなくなるわ」
「なっ…、ひ、卑怯です……」
香苗はそう言って少しうつむく。そして香苗はしばらく迷ったのち、意を決したように私に首を差し出す。
「は、早くしてください…!」
「ふふ、やった!」
香苗の気が変わらないうちに、私は早速香苗の首元に口を近づける。でも緊張しているのか、体が硬いし、少し震えているようにも見える。
「大丈夫、安心して。そんなに痛くないから」
「っ…」
「それじゃ、いただきます」
そうして香苗の柔らかい首に噛みつく。するとすぐに口の中いっぱいに甘美な血の味が広がる。初めて味わった香苗の血はあたたかくて甘くて、間違いなく私の好きな血上位にランクインする。香苗の少し早まった心臓が鼓動するたびに、私の口にその極上の血が溢れてきて、体の奥底から幸福感が広がっていく。
香苗の言う神様は、今もこんな私たちを見ているのだろうか。私、神様に喧嘩売っちゃってるかな。まあでもそれも面白そうかも。
幸せな時間をひとしきり堪能し、牙を抜いて傷口を一舐めする。
「ひゃっ」
「ふふ、何その声。大丈夫だったでしょ?」
「っ…」
香苗は顔を真っ赤にしている。そんなに血を吸われたことが恥ずかしかったのだろうか。それか舐められたのが予想外だったのかもしれない。
「ありがと。おいしかったよ」
「も、もう今回だけですからね!」
「ふふ、また楽しみにしてるわ」
「ちょっと!」
ああ、かわいい。今度はどうやって言いくるめて血を吸わせてもらおうか。香苗を見てるとどうにも私の嗜虐心がくすぐられるのよね。
「それにしても香苗って悪い子ね。神様の前で吸血種に血を与えるなんて」
「なっ!」
私の言葉に香苗は我に返ったように、もう一度祭壇に向かって手を合わせる。今回は何を祈っているかが容易に想像できる。
「今度は何をお祈りしたのかしら?」
「っ、本当はこんなことしたらダメなんですからね!ほら、美夜も謝ってください!」
「えー、謝るって言っても私は神様の敵だからなあ」
「もーっ!」
そうして私は香苗の血と反応を楽しみ、引き換えに少し機嫌が悪くなった香苗を連れて家に戻るのだった。




