5.銀貨とクレープ一枚の価値
テントの足元にある紐をぎゅっと引けば、それで野営の片付けは終わってしまう。
中に設置された家具類ごとその質量まで縮めてくれる不思議なテントの二本の紐を蝶々結びにすると、手のひらサイズの巾着袋になってしまって、サチカは見間違えているのかと思って目を瞬いた。
魔法が発達した異世界ならではの便利すぎる道具だが、一般的に普及しているテントはここまでの性能ではないらしい。これもまた、収穫籠と同じく、人の世に出れば騒ぎが起きる女神仕様の道具なのだ。
真珠蜜の収穫を終えたサチカ達は、約束の出発日の早朝にテント回収して、浜辺にキッチンカーを移動させてネネの来訪を待った。
「……来ないねえ」
ざざん、ざざんと穏やかな波音が続くエメラルドグリーンの海を眺め、サチカが呟いたのは、昼が過ぎた頃。
「どっちも遅い。いつ言うのかと思ってたぞ」
定位置になりつつあるキッチンカーのカウンターの上で、ナビィが呆れたようにサチカを見る。
同じくカウンターの端に乗ってぴょこんと跳ねるミウも、その意見に同意しているようだった。
ちなみに食品を取り扱う車内は土足禁止。
サチカは案内妖精が取り寄せたコックシューズを履いているし、ナビィは妖精の翅でふわりと浮いている。ミウの場所には、白い卵の木の葉のコースターが敷物代わりに用意されていた。衛生面には気を遣っているサチカである。
あの日、人魚の魔人が約束して行った時間は、二日後の朝。
(朝って、何時から何時までの範囲だろう?)
人によって幅がありそうなので、約束には向かない単語だった。
けれど、誰もが時計を持ち、正確な時間とともにスケジュールを組んできたサチカにとってはアバウトすぎる時間指定だが、異世界で人魚との待ち合わせならば、そんなものなのかもしれない。
そう思っているうちに、東の空の太陽は中天に至っていた。
早朝から起き出して準備をしていたこともあって、そろそろお腹も空いてきている。
「お腹すいちゃったかねえ。ネネちゃん待たずに、先にお昼を食べておこうか?」
「まだ待つのか。……まぁ、呑気なのも悪いことじゃないけどな」
のんびり具合をそう評して、腰に手を当てた案内妖精は、出発のタイミングを主人に尋ねた。
「昼食後、こっちはいつでも出られるけど、どうする?」
「うーん、ネネちゃんがいないと、苺畑の場所がわからないよねえ」
「いや、概ねの位置の特定はできるから、いつでも出発可能だ」
ぴょこんと跳ねるミウの頭には、青い石の指輪が王冠のように乗っている。
ネネがクレープの対価として置いて行ったこの指輪があれば、サチカ達だけでも農園の中に入ることができてしまうらしい。
「勝手に入っていいものかなあ」
サチカの感覚では、苺農家さんが運営するハウスにお邪魔するようなもので、不法侵入は後ろめたいし、クレープ一枚の代金で高価そうな指輪を貰うのも気が引ける。
「せめてネネちゃんには、飽きるまでクレープ食べて貰わないと」
そのために、今日はネネが来たらすぐにでもクレープを食べさせようとキッチンカーで準備万端整えていたのだった。
「いや、回数制限つけとけ」
「うん?」
「サチカのクレープは飽きないだろ」
すっかりクレープ好きになった案内妖精が真顔でそんなことを言うので、サチカは笑顔になった。
「お昼ご飯がわりに、クレープ作ろうか」
甘い匂いに誘われて、また人魚が寄ってくるかもしれない。
そんなことをちょっとだけ期待して。
しかし、この日釣れたのは、人魚なお客様ではなかった。
「……なんだ、これは」
「ええと、いらっしゃいませ?」
浜辺に現れたのは、三人の男だった。
偶然にも背の高い順に並んでいて、剣を履いた長身の男、長い杖を持ったマント姿の男、そしてやや小柄な少年だ。
訝しげな声を発したのはその中のひとり、真ん中にいたマント姿の男で、彼は被っていたフードを取り払うと、しげしげとサチカ達を観察している。
(あ、違う。観察してるのは、わたし達じゃなくて、キッチンカー?)
それに気付いた時には、マント姿の男はキッチンカーの車体に張り付くようにして「なんだこれ」を繰り返していた。
「わあっと、待て待てサウル。知らないものに突進すんなって」
背の高い剣士が慌ててその後ろ首を捕まえてずりずりと引き剥がす。
その間に少年が穏やかな笑顔で謝罪を入れてきた。
「失礼いたしました。彼は研究熱心なあまり、興味のある対象があると飛び出してしまう悪癖がありまして。ご不快な思いをさせましたね」
歳の割に落ち着いた声音が、穏やかに語りかける。
サチカは、目を見開いたまま顔の前で手を振って、かろうじて大丈夫ですと返した。
「女神に誓って、むやみやたらに危害を加える男ではありませんから、その魔法を納めてくださいませんか?」
彼らの視線の先、案内妖精がキラキラ光る翅を広げて両手の間に稲妻を取り出していた。
その隣で、毛玉にしか見えない垂兎耳の卵がいつでも飛び出せる弾丸のように跳躍の力を溜めている。
「わぁ! 待ってふたりとも! お客様、お客様かもしれないから!」
クレープ屋さんの客になるかもしれない人達に対して、やたらと戦意が高すぎる仲間を宥めるために、サチカは慌ててふたりの身体を抱き止めた。
背の高い剣士は、ヴァルター。二十代後半くらいに見える彼は、黒髪で琥珀色の瞳をしていて、豪快に笑って豪快にクレープを食べる男前な魔法騎士だった。
「うっわ、うまいなこれ! 迷宮でこんな菓子が食えるとはなあ」
「うん、本当に。こんなに美味しいものと出会った幸運は、女神へ感謝しなければなりませんね」
にこにこと微笑んでいる少年だと思っていた彼は、三人の中では一番年上らしい。
名前はヨハン。淡い金色の髪に緑の瞳で穏やかな性格がそのまま現れた顔立ちをしている。
司祭をしていますと丁寧な挨拶があり、食べる前には女神に祈りをしていたので、おそらく聖職者だろう。
そして、ヴァルターが手を離すとすぐにキッチンカーに張り付きたがるマント姿の男は、魔法士のサウル。日焼けを知らないような色白の肌で、銀髪に青い瞳をしている。
甘いものが好きらしく、興味本位でクレープを注文し、一口食べてからふたりに熱烈に進めてくれたのは彼だった。
「この甘味は……糖砂……まさか、茉莉の? バターの質も尋常じゃない。夏葉の物よりランクが高いな……ん、これは!?」
研究者気質らしく、真剣な表情でクレープを吟味している。
三枚のバターシュガークレープを焼いたサチカは、初めて貰った銀貨をしげしげと眺めた。
鈍い銀色のコインは、世界的に流通している通貨で、翼を広げた鳥が浮彫られている。
人魚の魔人から、クレープの対価として指輪を受け取った日の夜、脱ぼったくりクレープ屋さんのために緊急経営会議を開催して決めた価格ながら、慣れないサチカはおろおろしてしまう。
この迷宮で長く暮らす常連客の魔人にも参考意見を貰って決まった価格は、クレープ一枚に対して銀貨一枚、もしくは食材や珍しい品物だ。
第一層で言えば、ミミタマ族達が持ってきた卵の木の葉や花は、珍しい品物枠である。
この銀貨一枚で、体力仕事に従事する男性も満足する量のパンと肉料理を食べることができるというのだから、サチカがアルバイトをしていた時の時給よりも高価なのだろう。
その銀貨が、カウンターの上に三枚乗っている。サチカの食事量では、これで数日暮らせてしまう金額だ。
「ねえ、なー君。クレープ一枚に銀貨一枚は、やっぱり貰いすぎなんじゃ……」
「いや、迷宮ならこんなものだろう」
サチカの不安に応えたのは、魔法使いのサウルだった。
「材料の価値を考えると、まだ安いくらいだ。この薄くしっとりとして、それでいてもちもちした生地は、通常の素材で生み出せるとは思えない。何を使っている?」
「サウル、待て待て。レシピは外に出すもんじゃないだろ」
カウンターにぴたりと張り付いたところを再びヴァルターに首根っこを抑えられて引き剥がされる。
「そうですよ、サウル。あなたもオリジナルの魔法陣を余所には教えないでしょう」
「そうだが……では、あと十枚程売ってくれ」
木製のコイントレーにじゃらりと銀貨を置かれてしまい、サチカは慌ててコイントレーを押し戻す。
「だ、だめです、こんな大金……! それに、お一人のお客様に一日一枚までで、一度に沢山はお売りできないんです」
「なんだ、在庫がないのか?」
「いえ、在庫というか、約束があって」
「確かに、全ての材料が希少品で、しかもこんなに美味しく魔力回復ができるとなると制限も必要か」
魔法士が諦めきれずに顔をしかめる。
サチカは目を瞬いてナビィの顔を見た。
(いま、何か知らない効果を言われたような……)
サチカと目線を合わせた案内妖精も、その金緑の瞳に驚きを浮かべているので、彼にとっても初耳情報なのだろう。
「あんた、クレープ食べて魔力が回復したんだな?」
ナビィの問いに、魔法士はサチカをじっと見据えたまま頷く。
「あぁ。三人分の転移の消耗がまるでなくなったから、高級魔力回復薬と変わらない程度だろうな。ぜひとも欲しい」
「高級魔力回復薬なら、銀貨三枚は下らないじゃねえか?」
「それが、この美味しいクレープ一枚で得られるのですか……」
残りの二人からも驚愕の視線を集めるが、そんなサチカこそが一番驚いていた。
だって、普通にクレープを作っただけなのに。
(女神さま、まだ何かあるんですかー!?)
魔物を進化させるサチカのクレープは、人間に対しては魔力回復の効果があるらしい。




