私は逃げる算段を立てました
太陽が沈んで空が薄暗くなった辺りで獣人達は一旦兵を退きました。さすがに聖女候補者にもなっていないアレッシアでは彼らを完全に退却させられず、昨日築いた陣営に戻った形になります。明日になればまた攻めてくるでしょう。
「昔、慈愛の大聖女は争いごとを鎮めたって記録されてるけど、アレッシアの慈愛の奇蹟ってそこまでの効果があるの?」
「いえ、おそらくはまだその域には達していないかと。一晩経てば愛も薄まるのではと予測しています」
「この手が使えるのは一回きりね。自分達を惑わす魔女だって決めつけて、影響を受ける前に矢の雨あられを受けちゃいそう」
「むしろ最も危険だと判断されて昨日と同じように暗殺しようとしてくるかもしれませんね。今晩は警戒しないと」
「最悪、あたし達含めてアレッシアにはここで寝泊まりしてもらった方が被害が少なくて済むし、対処しやすいかもね」
敵軍が引き上げていくのを見届けつつ私達も城壁内側に帰還しました。昨日は驚くぐらいに大歓迎状態でしたが、今度は全く違いました。耳が痛くなるぐらいに静寂に包まれていて、誰もがアレッシアに視線が釘付けされていました。
一言で言い表すなら、恐怖。
そう、獣人達を跪かせ、懺悔させた少女が理解出来ず、恐れているのです。
その気持ちは分かります。彼らと慈愛の奇蹟を発動したアレッシアの距離は遠かったですから効果が及ばなかったのでしょう。聖女の奇蹟凄いですね、という尊敬の念より、自分達も理念や信念が彼女への愛で塗り潰されるのでは、と思った辺りですね。
「あ……」
そんなむき出しの感情を一身に受けたアレッシアは愕然としました。身体を震わせ、顔を青ざめさせ、足元がおぼつかなくなり、終いには腰が抜けたようにその場に崩れ落ち……る前にリッカドンナが腕を掴んで支えます。
「聖女がいつも感謝されると思ったら大間違いよ」
「リッカドンナ様……?」
「恨まれることだってある。罵られることだってある。大昔では救世者や使徒すら磔にされたぐらいだもの。救済は誰からも歓迎されるんじゃあないんでしょうね」
「……これで、良かったんでしょうか?」
「大丈夫よ、問題無いわ。今日一日血が流れずに済んだんだもの。今日稼いだ一日でどれだけの人が救われたか」
リッカドンナはアレッシアの震えた肩に手を添え、抱き寄せました。そしてもう片方の手でアレッシアの頭を撫でます。顔を強張らせていたアレッシアは少し時間を経てから大粒の涙をこぼし始めます。
「ありがとうね。今日生きていられるのは貴女のおかげよ。あたしがアレッシアを肯定するわ」
「あ、ありがとう、ございます……!」
アレッシアはリッカドンナの胸の中で泣きじゃくりました。聖母を思わせる慈愛の奇蹟を授かった彼女もこうしてみるとただの少女です。逆にリッカドンナの方が母性を感じさせるほど慈愛に満ちているようでした。
アレッシアがようやく落ち着いてからリッカドンナは各方面からの報告を聞きました。
アレッシアの慈愛の影響を受けた側とは反対側では小競り合いが起こり、負傷者が出た模様です。ですが死傷者が出る程激しくはならなかったとか。やはりこちら側の奇策が相当効果を及ぼしたようですね。
「それで、市民の港への避難ってどれだけ進んだの?」
「まだ一部地域で誘導が終わっていませんが、明日までには完了する見込みだそうです」
「そう。ならあたし達もここを放棄して沿岸地区に移動した方がよさそうね。今になってもなお聖地にしがみついてるお馬鹿さんは出てきた?」
「残念ながら絶対に離れないと言って聞かない者達も少なからずいるようです」
「……ソイツ等を引きずってでも助ける余裕は無いわね。聖地に殉ずるって言ってるんだからその希望を叶えてあげましょう」
「御意に」
リッカドンナは複雑な表情を浮かべながら人を見捨てる決断を下しました。愚者をも導く程の奇蹟を起こせればよかったのですが、彼らの選択でより多くの犠牲を招く事態は避けねばなりません。獣人達が寛大な処置をしてくれれば良いのですが、期待薄です。
「それで、船の準備は出来ているの?」
もちろん市民を港に逃がしておしまいではありません。マジーダのように偽られた神の教えを広める輩を許さないと思う者は少なくないでしょう。ラーニヤは聖地から私達が去ればいいと考えているようですが、過激な者達がいつ追い打ちをかけてくることやら。
「ん? 船? どういうことだ? 聖国国民全員を乗せられるだけの船は無いんだろ?」
「あくまで教国を始めとして元いた祖国へ帰還するなら、の話みたいですね。長い航海に耐えられる物資が無いんだとか」
「なら聖女はどうするつもりなんだ?」
「聖国を出航したら北北東に進み、遠東島国に向かうそうですよ。あそこまでなら数日の船旅で済みますから」
何故かそんな今後の聖国を左右する重要な場に私は同席していました。一応形式上はリッカドンナ付きの聖女候補者なので仕方が無いと言えばそうなのですが。チェーザレが小声で訊ねてきたので私はリッカドンナから聞いた考えをそのまま口にします。
遠東島国は聖国奪還の遠征にあたり教会圏国家が拠点として占領した島に建国されました。おそらく聖地を含めて陸続きになっている地域は全て獣人達の支配下に戻るでしょうが、遠東島国まではそうたやすく追ってこれないでしょう。
もちろんそれも一時しのぎに過ぎません。難民同然になった聖国国民を長期間養っていける備蓄があるとは思えません。彼らの帰還事業は早急に行わなくてはならないでしょう。尤も、それを検討する頃には聖女はお役御免になっているでしょうが。
「貴重品以外は置いていってもらわなきゃ駄目だけど、命があってこそだもの。無理すれば全員詰め込める計算だったのよね?」
「……はい」
何故か報告する兵士は視線をさ迷わせて落ち着きません。受け答えも歯切れが悪い様子。リッカドンナも芳しくなさそうだと察したのか表情を曇らせ、指で机を叩き始めました。それが更にその者を委縮させるのも承知の上なのでしょう。
「あたし達が助かるかがかかってるのよ。夜が更けようと死に物狂いで頑張りなさいって伝えなさい」
「そ、それが……」
「何よ、今は少しでも時間が惜しいの。早く言って頂戴」
「誠に申し上げにくいのですが、その……」
兵士は生唾を飲み込み、俯いたままで驚くべき報告を口にしました。
「既に何隻か出航してしまいました!」
「……は?」
船が既に出発した? 何故?
聖国の港に停泊する船は市民の脱出のために使うと今朝決められ、聖女からの命令が下ったはずです。貿易船だろうと例外ではなく、積み荷は一人でも多くの人が乗れるよう降ろされましたし。
「……一応聞くけれど、誰が、何人ぐらい、何のために乗っていったの?」
「詳しくは確認が取れていませんが、主に貴族階級の者達や商人達がこぞって集まり、船を出発させたとの報告が……」
「一体、何を考えてるのよ!」
リッカドンナは大声を上げながら机を思いっきり叩きました。大きな音が室内に響き渡ります。彼女の怒りの矛先は我先にと逃げ出した輩へと向けられているのでしょうが、この場にいた誰もが自分が責められている気分になったことでしょう。
「誰かソイツ等を止めなかったの!?」
「彼らは言っても聞かず、むしろ権力を振りかざして聖女様からの勅命を全うしようとする兵士を押しのけて強引に出発させたそうです……」
「ふざけるんじゃないわよ……! 命の重みに身分も資産も関係ないでしょうよ!」
リッカドンナは悔しさのあまりに歯を食いしばり、涙しました。聖女の嘆きは私達の心を打ち、当事者でないのに罪悪感に駆られます。この場にいた者達、神官すら彼女にかける言葉が見つかりませんでした。
しかしリッカドンナは袖で自分の目元をぬぐうと、その後は普段の様子に戻っていました。若干の疲労は見えますが、聖女としての責任感から強く振る舞うその様子には敬意を表したいです。
「それで、残った船にはどれぐらい乗れそうなの?」
「食料すら捨てて最低限の水だけを乗せたと仮定しても、半分と少々乗れれば良い方だ、と」
「……なら、女子供を優先させて乗せましょう。身分とか役職とか関係無く一切の例外はなし、とみんなには厳命しておきなさい。明日夜が明けたらすぐ出航出来るよう準備は進めさせて」
「はっ!」
命令を受けた兵士が部屋を後にします。リッカドンナは椅子にもたれかかり、天井……いえ、天を仰ぎました。
「アンタ達も――」
「いえ、我々は最後までリッカドンナ様にお供いたします」
「……。キアラは――」
「ここで帰っては来たかいがありません。帰るなら目的を果たしてからにします」
「……馬鹿ばっか」
呟くように言い放つリッカドンナでしたが、その口角は少し上がっていました。
状況は悪くなる一方でした。それでも何故かこの場は結束がより固まったためか、希望がまだあるような雰囲気に包まれたのです。




