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切なさが向かう先

 髪を切った。ばっさりとやってやった。すっきりした。ひどく心許なくなってしまったのは、内緒だ。

 カットチェアの周りに落ちた髪は、なんだかまだ生きてるみたい、と思ったら、しゅるっと集まったそれは黒猫になって、美容院に入ってきた人の足下をすり抜け、南町の方にむかって一息に駆けていった。

「まあ、元気ねえ」

 元は自分の髪だった猫が足をかすめてしまったことを謝ると、いいのよ、と笑うその人に「それにしても、あんなに急いでどこへ行くのかしら」と問いかけられた。

「……どこでしょうね」

 行く先をたぶん私は知ってる、と思う。けど、認めるのはあまりにもシャクだった。


 次の日ベランダで洗濯物を干していると、強い風が吹いた訳でもないのに、お気に入りのハンカチがひらりと手から舞い上がった。

「あ、」

 情けない声を上げることしかできない私を尻目に、ハンカチはひらひらと蝶になって南町の方へと羽ばたいていった。



 困った。切実に、困った。

 どうでもいいものならいざ知らず、よりにもよってお気に入りのものたち、その中でもとりわけ愛用している物たちが、姿を変え、あるいは姿を変えないまま、勝手に南町方面に行ってしまう。まるで、行きたいのに頑なにそれを無視している私を笑うみたいに。

 そんなわけで、毎日のように物が減ってしまって、私はとても不便な日々を強いられている。買い直すのも悔しいし、そもそももう売っていないものだってある。

 それでも意地だけでだましだまし生活していたけれど、今朝はとうとう目覚まし時計が短い足をトコトコと懸命に動かして部屋から出ようとしていたのを発見してしまった。

「そうはいかないんだから!」

 もしかして、と紐をあらかじめ時計の足に結びつけておいたのが功を奏した。もがく時計に向かって、私はある提案を持ちかける。

「ちょっと待って。着替えがすんだら行かせてあげるから。ただし紐はこのままで私も一緒に行く。OK?」

 私の言葉に、目覚まし時計は『OK!』と言わんばかりに飛び跳ね、りんりん、と鳴ってみせた。


 歩く私の前を、時計がスキップをしているようにちょこまかと歩く。紐なんかついてるから、まるで犬の散歩だ。休みの日の早朝でよかった。ご近所さんや大家さんにこんなことで目を付けられたくはない。


 目覚まし時計は、私がよく知っている、何十回通ったか分からないぐらい馴染んだ道を行く。――馴染んだ道ではあるけれど、ここひと月くらいは強固な意志でもって足を向けてなかったエリアだ。

 我慢してたから。

 会いたくて、でもそう思ってるのはこっちばっかりで、連絡するのもデートを持ちかけるのも私だけ。そんな関係がどうにもつらくて、ひと月前に別れを告げた。

 ちょっとくらい動揺してくれてもいいのに、彼ときたら咥え煙草といつものテンションで『ふーん』って言うだけ。ふーんってなによふーんって。そんな程度の存在なの、私。

 悲しくて、呆れて、……やっぱりひどく悲しかった。わー! って嵐みたいに暴れてやる気も起きないまま、引きとめられもしないまま、彼の部屋を出た。

 早く忘れようと思ってその足で美容院に向かって髪を切ったのに、素直な髪は私から切り離された途端、真っ先に彼の元へと向かった。


 行きたい。会いたい。顔が見たい。

 行きたくない。会いたくない。顔なんか見たくない。

 ぐるぐるそう思いながら、ちっとも道順を忘れていない自分に腹を立てながら、南町のあの人の部屋の前まであっさりと辿り着いてしまった。――でも、なんて言おう。

『黒猫とか、蝶々とか、その他諸々きてない?』とでも聞くの? もし違ってたらお別れの時にも不動だったあのテンションで『はいぃ?』とか言われてしまう。そうなったら、私はきっと今度こそ立ち直れない。それに、もし来てたとして迷惑がられてすべて処分されてたら、それはそれでやっぱりつらい。だって、全部思い出深い物たちなんだもん。


 イヤリングは、旅先のガラス工房で買ってもらった。一点物で、いいなあって思ってたらさっと手に取って、私がうだうだ悩む前にお会計を済ませて『はい』って渡してくれた。

 北欧柄のマグは、お揃いで私が買い求めて片方を彼に押し付けた。

『俺が使うにはかわいすぎじゃありません?』と苦笑いしながら、それでもずーっと使ってくれてた。


 でも『ふーん』だしなあ。

 せっかくここまでわざわざ足を運んだけど、お別れの日の彼を思い出すと帰りたい気持ちでいっぱいになる。顔なんか合わせずに、電話かメッセージかで伝えるだけ伝えて、着払いで送ってもらうのでいいかも、とか。

 ドアの前まで来ておいて、ピンポンも鳴らせずにまだ踏ん切りがつかないでいると、そんな私にじれたのか、時計が突然りんりんと鳴り始めてしまった。

「ちょっと! うるさいでしょ止まんなさいよ!」

 音の響きやすい、しかも早朝の集合住宅の廊下でけたたましく鳴動する時計に言い聞かせるけど、時計の奴は私のいうことなんてまるで無視して鳴り続ける。ぱしぱしボタンを押しても、後ろについてるアラームのスイッチをオフにしても無駄だった。だめだとりあえずここから立ち去ろう、そう思って時計を胸に抱えて歩き始めたタイミングで、ガチャリとドアの開く音がして、そして。

「なに騒いでんの。早く入んなさいよ」

 黒猫を肩に、蝶を胸元に乗せた元彼が、手でドアをおさえながら顔を出して、当たり前のようにのんきな声でそう言ってきた。その途端にぴたっと鳴り止む時計。なんて現金な奴なんだ。

「早く」

 重ねて言うと、とっとと奥に戻ってしまう。閉まりかけたドアを慌てて掴んだ。

 ――別に、こっちから入れてって言い張ったんじゃないし、向こうから招いたんだし……。そう言い訳して、小さな声で「オジャマシマス」とドアを閉める。


 部屋に入ると見たことのある、どころか愛用していた物たちが馴染んだ顔でずらりと並んでいた。やっぱりみんな、ここに来ていたんだ。

「どーぞ」と置かれたマグは、二日前にいなくなった、彼がいま口元に運んでいるのと同じ柄の。よくぞ欠けずにここまで無事にきたもんだと、少しだけじーんとしてしまった。

「……いただき、ます」

「はいよ」

 合いの手とか言い方とかいちいちおばあちゃんぽい人だ、と再確認して、それだけで和みそうになってしまう。いかんいかん。

 私は淹れてもらった紅茶を一口飲むと、ゆるんだ心をきゅっと引き締めた。

「朝早くからごめんなさい、それと、私の物たちが押し掛けちゃってごめんなさい。すぐ引き上げさせてもらうから、」

「そんなに急ぐことないでしょう」

「元彼の家でのんきにおしゃべりしていられるほど大人じゃないので私」

「元彼じゃないでしょうが」

「……」

「元になったつもりはありませんよ。あんたの物たちだって、俺のとこめがけてやってくるじゃないの」

「! じゃあ、なんでっ!」

 思わず感情を爆発させた私に、彼はゆったりとした様子で指を組むとベランダの方を向いて、ぽつぽつと話す。

「なんかね、そっちばっかり俺のことが好きで、俺がちっともあんたのこと好きじゃないようなこと言われてムカついたから、ですかねえ」

「……は?」

「俺は好きでもない女とつき合えるほど器用な人間じゃありませーん。ねー?」

 脇の下に手を差し入れられて、足がぶらーんとしてる黒猫にそう問いかけると、黒猫は私が逆立ちしたって何度転生したって出せないような甘い声で『な―――ん』とお返事をした。

「ほらごらんなさい、この子だって『そうだ』って言ってるじゃないの」

「だって、それ猫じゃん! 私じゃないし!」

「元々はあんたの髪の毛でしょうが」

「……なんでそう思うの」

 違う、と言えなくて(実際あってるし)そう返すと、彼は「色も手触りもそのままだもの」と言われて、うっかり喜びそうになる。

「知ってる? 髪って情念がこもりやすいんだって。だから、真っ先に俺んとこ来たんだよねえ?」

「な―――ん」

「他のも全部アレ、俺があげたやつだとかお揃いのものだとか、いちいち心当たりのあるやつばっかり。毎日、今日は何が来るかなーって楽しみにしてたよ」

「……」

「これ以上、何を言い張っても無理。さっさと諦めなさいよ」

「……なにを」

 ああもう、ひっこめ涙。くつくつ笑われてんじゃん。

「あんたってほーんと意地っ張り」

「どうせかわいくないよ」

「何言ってんだろね。……かわいいですよ」

 くっそう、こんな一言でほだされちまった。くやしい。私の悩んでた一ヶ月返してよ。

「ほらほら早くいらっしゃい」

 猫を床にトン、と下ろし、手を広げてウェルカム、ってされたってね、そんな簡単に行けっこない。でも。

「ごー、よん、さん、にー、いち、……はいよくできました」

 カウントダウンなんてしてくれるから、それでようやく素直じゃない自分でもその胸に飛び込むことに成功した。そういう優しさって分かりにくいよ。でも好き。すっごい好き。


 抱き込まれると、彼が大きくふうーっと息をついた。なんだ、マイペースなりに緊張してたのか。あんな余裕ぶっこいた風だったのに。

 なんて内心ニヤニヤしてたら、またかわいくないこと言われた。

「一ヶ月で気は済んだ?」

「『済んだ』って言いたくない!」

「はいはい」

「とにかく! 私の物たちがこの部屋に来ちゃった件に関してのみ謝るけど、」

 そのほかは謝らないから――。そう続ける前に、すっとぼけた口調に遮られてしまった。

「そうそう、連絡とデートの件ね、あれ、一応弁解しますと、連絡はメールをああでもないこうでもないって組み立ててる間にあんたからくる方がいっつも早いの」

「……は?」

「デートはねえ、おうちで会っててそれで満足してたねえ。ごめんね」

「……」

 なにそれ。女心が分かっていない上にかわいい。何でここで謝るかな。許したくなるじゃん。ずるい。

 くっついたまま聞く言葉たちは、なんだかいつもよりあったかいし。

「それからね、あんたの物たちね、戻してもまた喧嘩したらここ来るんだからこのまま置いときなさいよ」

「――それだと不便でしょうがないんだけど」

「だからあんたもさっさとここに引っ越してきなさいよ」

 その考え方って合理主義なの、それともただの自信家なの。

 そう、言ってやりたいのに。

 私のうなじにそっと触れた指先は、冷たい温度でまだ震えていたのを知ってしまった。しれっとしてるくせに、ほんとに、もう。

「――よくできました」

 今度は、カウントダウンの手助けなしに、素直に「うん」と頷いた。

 そしたら彼――『元』が正式に外れた――が、すっごく嬉しそうに笑ったし、ずっと彼にとまってた蝶はひらりと飛んで来て私の胸元で元のハンカチに戻ったし、黒猫は私の脚にすりすり頭を擦りつけるから、それに免じてこの一ヶ月のすべてを、私はまあいいやと思うことにする。

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