おなかいっぱいの言葉たち
「今日はすっごーぉぉぉく暑かったじゃん? おかげで職場のお客さんに出すアイスコーヒーの減りが尋常じゃなかったよ。でもパッケージのデザインがサイアクでさあ、持ちにくいし最初の方だっぱんだっぱんこぼれるし、注ぎ口のとこにコーヒーが溜まってもったいないし不衛生だしさあ、でね、毎年ね、コーヒー注文してるとこの営業さんに『パッケージを改善して!』ってお願いするんだけど、『うちの会社、末端の意見聞いてもらえないんですよー』で今年も終了だったの。ひどいでしょ!」
「ああ」
「はぁ、クーラーきいてる部屋ってほんと最高だあ。あれ、もしかして今クーラーって言わない? エアコン?」
「どっちでもいいと思うよ」
「おいしい?」
頬杖ついて身を乗り出して聞く。ぱくぱく食べてた彼は大きく頷いてくれた。
「うん」
「もっと?」
「うん」
そう言われて、「じゃあ、」と人差し指を立てた。
「お医者さんのことが大好きなわんこの話と、カフェで宇宙人見た話、どっちがいい?」
彼と知り合ったのは合コンでも会社でもなく、わたしのアパート近くの道端でだ。
絵に描いたように行き倒れていた彼に、「えっえっやだちょっとどうしよう、生きてるの死んでるのおーい返事してよ、あれこういう時って一一〇番? 一一九番? どっちー!」とパニクって、いつもよりもっとおしゃべりさんの垂れ流しになってたわたし。
その時、彼の指がぴくりと動いて、しゃがみこんでたわたしの前へとのばされた。何かを求めるように。
「どしたの? 痛い? 苦しい? お薬とか持ってる? 何して欲しい?」
弱ってる人に対して一息に畳みかけた――ら。
手のひらを向けて突き出された彼の手。わたしの顔の前で。何? お祈りの人?
ビビったわたしが「まさかの宗教の人だったかー……意外ー、てかこの状態で人のために祈るとかすごくない?」とぽろぽろぽろぽろ口から出した言葉が。
自分の目の前で、ぽむぽむした、雲みたいな形のフキダシになった、と思ったら彼の手がむんずとそれを掴んで、がぶっと思い切りよくかぶりついた。
しばしの咀嚼タイム。
もぐもぐがおちついた頃合いで、彼は体を起こすとわたしに頭を下げた。
「ごちそうさん。あんたの言葉、最高にうまい。おかげで、なんとか回復した」
「――え?」
「俺、人の話した言葉が栄養源なの。でも、テレビとかラジオとかはダメで、自分に話しかけられないと食えないし、この間まで食わしてくれた人とはちょっと前に縁が切れて、すげー困ってたんだ」
なんとなく、その『食わしてくれてた人』は女だろうなって気がした。
「あんたもこんな変な男に変な話聞かされて困るだろうけど、本当に助かったんで。それじゃ」
そう言うと、膝に手をついてよろよろと立ち上がる。
「え、どこ行くの」
「どこって、いつまでも俺がここにいたらそっちが困るでしょう」
「困らないから!」
びっくりするほど大きな声が出て、思わず両手でふさぐ。それから。
「……わたし、おしゃべりすぎるって呆れられることはあっても感謝されることなんか一度もなくて、だからその、……もし、わたしの言葉でいいなら、多分いくらだって食べさせてあげられるから、とりあえずもうちょっと食べたら?」
そう申し出ると、彼は胸に手をおいて「夢見てるみたいだ」とうっとりと言った。
それから、彼は毎日うちにやってくる。時間は、朝だったり夜だったり。わたしと向こうの合う時間で。
話す内容は何でもいいって言われた。でもなんとなく、悪口は言わないようにした。だって、胃もたれしそうなんだもん。
澄川さんの言葉なら、何でもおいしいよ。気にすることないのに。
そう言って、砂原くんは困ったように笑う。
毎日ここに来て、毎日わたしの言葉を食べるくせに、砂原くんはわたしとの間に極太の油性ペンでぎゅーっと線を引いている、と思う。
言葉遣い丁寧じゃないくせに、いつまでもわたしのこと『澄川さん』て呼ぶし。言葉は食べるくせにわたしの体には興味を示さないし。まあいいけどねそれは。
でもこの先、仕事の研修だとか旅行だとかで二、三日留守にすることだって出てくるだろう。そしたらどうするの。言葉は、冷凍保存とかできなさそうなのに。
わたしが聞いたら、「どうしてもって時は、事情知ってる奴にお裾分けしてもらうから大丈夫。初めて会った時も、そいつんとこ行く途中だったんだよ。悪いな、澄川さんにそんなことまで心配させて」って、やっぱり困ったように笑った。
いいのに。心配くらいさせてよ。わたしが勝手にそうしたいんだから。
――とは言えなくて、口をつぐんだ。
わたしはこの、毎日うちに呼んで毎日言葉を食べさせる恋人ごっこみたいな関係を続けてるうちに、砂原くんのことが好きになっちゃってた。
いつまでも懐かない猫のように、少しでもパーソナルスペースに踏み込むとピャッとその身を後退させて、そうしておいて申し訳なさそうにするとこや、うちにくるとき必ずスイーツを持ってくる――自分は食べないくせに――とこや、ひと月に一度は『彼氏出来たら遠慮しないで言ってね』なんて言うとこ。なあなあでずるずる甘える気はないっていうその姿勢は、いいと思うけど、少しさみしい。
嫌われてはない、と思う。でもちゃんと好かれてるかどうかまでは分かんない。伝えたら迷惑って思われるかもしれない。最悪、うちに来なくなっちゃうかもしれない。
だったら、言うの我慢する。好きも、大好きも。
食べてもらえる幸せな言葉と、口にすることなく飲みこむばかりの言葉。
人の気も知らないで、砂原くんはもりもりとわたしのおしゃべりを食べる。
会社の駐車場で、どこかの猫がお昼休みにボール遊びしてる人たちから構われてる話。
道ばたで彼氏に頬をぶたれた女の子が、持ってた傘で彼氏をぼっこぼこの返り討ちにしてた話。
映画館の予告が長すぎてうんざりしちゃう話。
コンビニで期間限定のマンゴーソフトに入ってたマンゴーが、ちっとも甘くなくてガッカリした話。
試着したけど似合わない服を、見かけるたびにやっぱり欲しくなっちゃう話。
むかーし好きだったバンドを検索したらまた活動してて嬉しくなった話。
好きな歌のあるフレーズだけが一日じゅう頭の中で回ってて困る話。
そんな、どうでもいいようなおしゃべりも、彼の手でフキダシになるととてもおいしそうに見えるからふしぎ。
「うまい」って彼の顔が綻ぶたび、わたしは自分がすごくいいことをしたような、誇らしいような気持ちになる。
朝に会えば今日も一日頑張ろうって思える。夜に会えば寝るまでの時間を幸せに過ごせる。
こんなのって不毛かな。でも好きな人をおなかいっぱいにすることができるし、『ありがと』も言ってもらえるし。これはこれでいいかなって、
「いいわけないでしょーが」
辛口親身なお友達に相談したら、ばっさりとやられてしまった。てへ、って笑ってみせてもその子の厳しい表情は崩れてはくれない。
「あんたのそのだだ漏れかつ無償の愛につけ込まないその男の方がよっぽど冷静よ。アプローチしないならちょっかい出すのなんかやめなさい」
「出してないよー、おなかいっぱいにしてあげたいなーって思ってそうしてるだけだもん」
「嘘ばっかり」
はあ、と煙と一緒にため息をつけば、空気にその形が広がって溶ける。
「……このままがいいのに。ずっと」
ぽつりと本音をこぼすと、「いつまでも続くごっこ遊びなんて不毛」と、またばっさりやられた。
そうかな。終わらない夢みたいで素敵と思うのに。
――心の中で小さく反撃しつつも、友人の言うことにどこか納得する自分もいた。
「どうしたの、澄川さん今日元気ない」
友人と会った翌日、少ししゃべっただけで、砂原くんには不元気をすぐに見抜かれてしまった。
「そうかなあ?」
「そうだよ。……なんかあった?」
「なんもないよお」
笑ってこの話はおしまいにしたいのに。
「笑ってるけど泣きそうで、いつもより声ちいさいし、元気ないって言ってるようなもんじゃん。……俺は毎日言葉を食わしてもらってんのに、相談相手にもならせてもらえないの」
そんな風に、悔しそうに言われちゃったら、せっかくの我慢が今にも無駄になりそう。
「言いな」
口を両手でふさいでいやいやをした。
「イヤでも言うの……ほら」
温かい手で頭を撫でられた。そのひと撫でで、ベテランの錠前破りに金庫を開錠されちゃったみたいに、閉じこめてた言葉がするすると出てきてしまう。
「すき」
待ちかまえてた砂原くんの手で、たった二文字のはずのそれは特大のピンクの綿菓子みたいになった。なんて分かりやすい。
「砂原くんのこと好きになっちゃったんだもん。でもそんなこと言われても困るでしょ? 引くでしょ? だから我慢してたのに言わせるなんてひどいよー!」
一息に言ったら、それは過去最大の大きさになった。
「おお」と砂原くんはびっくりしながら嬉しそうだ。
「食いでがあるからって喜ばないで! 告白したのにー!」
「食いでがあるから喜んでるんじゃないよ俺」
そう言いながらもフキダシになった言葉に豪快に歯を立てて、むしって食べる。野生動物みたく。
「あまい」
くしゃっと眉と鼻をおもいっきりしかめてるくせに、笑ったりして。
「じゃあ残したら」
「まずいっていってんじゃないよ、甘くておいしいの。……どんな味かなあと思ってた」
「なにが?」
「澄川さんの告白。想像以上にあまくって、でも胸焼けしなさそうで、いつまでも食べてたい」
「まだそんなにあるじゃん」
両手に持ってる巨大なピンクのせいで、砂原くんはとっても食いしん坊の人みたくなっちゃってる。
「これから先もずっと食べたい。……なんでか、わかる?」
そういう風に言わせようとするのってずるい、と抗議しても、彼の手に吸い寄せられるように出てくるフキダシは、ふわもこで恋心一〇〇パーセントのピンク。
それをまた嬉しそうにかじる彼の手にそっと触れて、そしてぎゅっとつねった。
「いて」
「言ってよなんかそっちもー! 人にばっか言わせないで!」
「うん……好きだよ」
そんな、あっさりと。
あまりにもさらっと言われて信じ難い思いでいると、「だってご厚意で家に上げてもらって、食べさせてもらって、その上恋人になって欲しいって欲張りすぎじゃん。わかっててもこっちからは言えないよそんなの」
「そういうもんかなあ」
「そういうもんです」
それだけ言うと、また食事に戻る。
「あまい」
また、眉と鼻をうんとしかめてみせて笑う。
「文句言うならあげませんー!」
「文句じゃなくってただの感想ですー」
わたしの真似して語尾を伸ばしたりするから、砂原君が持ってたピンクを奪ってぽこんと頭にぶつけてやった。でも。
このやりとりを、この先もずーっとながくながく交わせるといい。いちいち言うのに飽きて『文句』の『も』と『感想』の『か』だけになってもいい。
これからもわたしの言葉だけを食べてよ。のぞむだけたくさんあげるから。
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話すことなら無限にあるから、まかせて。
浮気したら真っ黒焦げ焦げの言葉を食べさせるからね、と脅したら「それは怖い」と砂原君が笑う。
でも脅し文句もふわもこピンクだから、我ながらちっとも説得力がないのだった。