fragile
朝起きたら、ママがグラスになってた。
驚いたけど、ちっともふしぎじゃなかった。だって、パパがこの家を出て行く少し前から昨日までずっと、「心が凍ってしまった」「壊れてしまいたい」って、なんどもそう言ってたものね。
グラスは、薄くて、いびつなでこぼこがあって、手作りの一品物のよう。深い青の水玉模様とちっちゃな気泡は、きっとママの涙で出来ている。だってすごくキレイだ。
でも、何も入れていない空っぽのうつわは虚ろなママの姿そのもので、なんだか悲しいから、お水を入れてあげた。
するとたちまち水玉模様は水飛沫に、気泡はゆらゆら水面にのぼっていく泡に大変身! ながめてるわたしは、深い海の中にいる気分だ。
すごーくきれいな海、なのに生き物はいなくって、どこまでもしずかな。
その空想に飽きるまで、グラスはしばらくテーブルの上にそのまま置いておいた。お水の入ったグラスの影のなかに、キッチンの窓から差しこむ光がちらちらと映りこんでた。
せっかくグラスになったんだから、本来の用途に使われないで飾っておくだけじゃかわいそう。
喉も渇いてたし、中を満たしていたお水を一息に飲んだ。おいしかった。口を付けたから洗って、きれいな布巾で丁寧に拭いてあげた。水滴一つ残さず、きれいに仕上がりました。
ぴかぴかにしたグラスはなんとなく元のところに置かずに、手に持ったまま逆さにしてみたり、下から覗いて見たり。そしたら、つるっと手が滑って一瞬落としそうになって、心臓が後からすっごいドキドキするほど焦った。お手玉しちゃったけど危機一髪、セーフ。
――でもママは壊れてしまいたいんだったっけ。思い出して、両手でぎゅっとグラスを持ち直した。
キッチンの床はフローリングだから、わたしがいま手を離したら確実に割れる。ママの望み通り、きっと粉々にだってなる。
そうしてあげたい気持ちもあるけど、わたし今裸足だから、飛んできた破片で怪我したり、気がつかないで踏んだりしたらやだな。床も傷ついちゃうし。
毎日ママがピカピカにしてくれてたのに、なんか……そんなのもったいない。
少しの間迷って、今日はやめた。
ゴメンね、って声を掛けたら、グラスはママが泣いていた時みたいにその身をちいさく震わせたように見えた。
テーブルの上で逆さに伏せたグラスに、お布団みたく布巾をかぶせる。その上から、そおっとそおっと触れた。
ねえ、ママ。
ママはとっても悲しいんだね。パパが出て行っていっぱい傷ついちゃったから、自分の世界に閉じこもってるんだよね。
でもね、わたしもママに忘れられてるのは、とってもとっても悲しいよ。
今日じゃなくていいから、わたしの存在を思い出して、ママに戻って。
わたしも、寂しいガラスのうつわになる前に。
20/07/09 誤字修正しました