流星雨の夜(中)
いた。
さんさんと日が差すその部屋で、女の子はさいしょに見た時とおんなじに、隕石に凭れていた。――きのうより、ぼんやりとした顔をしている。俺が「お嬢ちゃん」と声を掛けると、のろのろと視線が上がる。
「おっはよ。これ、いっしょに食おーぜ」
コンビニの袋を持ち上げて、ガサガサ言わせる。
けど女の子はやっぱりぼーっとしていて、おにぎりにもサンドイッチにも甘いパンにもドリンクにも、手はとうとうのばされなかった。俺は一人でもしゃもしゃ食いつつ、その子の様子を観察する。
うん、髪ぼっさだけど、別に臭さはない。ほっぺもふっくらで、食べさせてもらってない感じはない。なら、いいか。
食べ終えて、コンビニでもらったおしぼりで指を一本いっぽん丹念にぬぐうと、俺はピアノに向かう。おかしな女の子がいようと、ここに来たら弾くのが当たり前だ。
「お嬢ちゃん、うるさかったらごめんね」と、カタチだけ謝ってから始めるあたり、我ながらせこいなあと思いつつ、ピアノに向かう。
弾く前にピアノと対峙するのって、体育でやった剣道で正座してる時間と似てる。
なんか、やるまえから勝負は始まってるかんじ。
負けそうだな、って思う時もある。でも、やる。それしか知らないし俺。
いろいろごちゃごちゃ考える。けど、鍵盤の上で手を準備させた瞬間、全てのノイズがクリアになる。上手く弾けるかなも、失敗しないかなも、笑われないかなも、怖いなも。
わくわくする気持ちだけ、まっすぐに差す朝日のように、残る。
弾いてるうちに、楽しさがどんどん倍に積み上がってく。こんなの他に知らない。
胸の中で花火がパチパチと爆ぜる。もっと。もっと。もっとだ。
世界に、ピアノと自分しかいないみたいな、濃密な時間。
夢中になって、気がついたら女の子のことを忘れてた。
指がもつれて、喉が渇いて腹も減って、ぎゅっと固めてた集中力がばらっと空中分解みたいにほどけたのが分かったので、そこで休憩にした。夜じゃないから、アラームは掛けない。 でもスマホで時間を確認すると、もう午後二時を回っていた。
「腹も減るわけだよ……」
女の子が手を付けなかったおにぎりを食べた。ぐんにゃりしていたあの子は、気がつけば元気に部屋の中を飛び回っている。髪も、いったん家に帰って手入れでもしたのか、見違えるくらいにつやつやしてた。
そして、俺の視線に気付いたのか、懐いた犬のように一直線に駆け寄ってくる。
「どうした、まだパンならあるけど食う?」
「クワナイ」
機械にも似た抑揚の薄いイントネーションで、その子が応える。てか、しゃべれるのね。昨日は無口だったので、てっきりしゃべれないのかと。
「……おうちのひとは? 家、こっから近いの?」
廃ホテルに小さい子が入り浸っているというのは、やっぱりよくはないと思うので、ざっと探りを入れる。その子は、ふるふると頭を振った。
「オウチノヒト ココ イナイ イエ コッカラ チカクナイ」
「まじか――……」
家出か? それにしちゃ、身軽だな。
あれこれ詮索しかけて、やめた。俺みたいな大学生が何をできるでもない。すげえ痩せこけてるだとか、すげえ汚くてあざだらけ、とかなら迷わず何かしらの機関に連絡するけど、身ぎれいだとそれもためらうし。
とりあえず家出じゃないことを祈りつつ、その日は夕方まで弾いた。
「じゃ、俺はもう帰るけど、君は?」
暗くなってきたところで引き上げることにして、一向に帰るそぶりを見せない女の子に一応そう聞いたけど、その子はやっぱりふるふると首を横に振った。
「マダ カエラナイ」
「……そう」
一応ここは地元民に愛されていたホテルで、俺や元支配人が度々巡回してるし、なんと言ってもまだ廃業してさほど時間が経っていないので、今のところヤンキーや浮浪者が居着いてはいない。けど、心配は心配だ。
「……あのさー、うち、くる?」
突然こんな小さい美少女を連れて帰ったら父さんも母さんもめちゃくちゃびっくりするとは思うけど、こんな小さい子がこんなとこにいるのは、やっぱり良くないんじゃないかと思う。
でも女の子は本日三回目の首ふりをし、「マダ カエラナイ」と悲しげに言った。
「じゃあね」と手を振ると、「マタ ソレ ヤル?」とピアノを指さした。
「ピアノ? ああ、また弾きに来るよ」
そう答えると、ようやく嬉しそうに笑った。
それから、週二位のペースで、そこへ通った。
行くとかならずぐんにゃりしている女の子は、俺がピアノを弾くといつも元気になる。
最近ではすっかり語彙も増えた。
「コースケ(俺のことだ)、ハヤクヒイテ」なんて言われると、正直悪い気はしない。
その子の名前も、ようやく聞いた。名前ってか、名字ね。
『俺は、鳴海 浩介。君のお名前は?』
俺のその問いに、彼女は『ホシ』と答えた。いや、名字だけすか、いいけど、知らん人にフルネームで名前教えるなとか言われてんのか? そのわりに相変わらず放置子だけど。
アクセントもやっぱり不思議で、俺がホシの名前を鳥のトキ、みたいに発音しても、ホシは時、みたいに言う。
いつ来ても、それが夜でも昼間でも、ホシはそこにいる。俺のピアノを聴く。
「どうだった?」って感想を求めても、いつも笑顔になるだけ。でもそれが、すげえ嬉しかったりもする。初めのうちは、見るたび『またいる!』とぎょっとしたもんだが、毎回なので慣れた。
「あっちいなー……」
ホシと知り合って一年弱、隕石が落ちてからもうすぐ丸一年。
山の上だから多少は涼しいはずだけど、冷房が使えないここは、今日みたいに蒸す日はむわっとする。
廃ホテルの買い手は付かないままで、隕石も市の方で予算がないのと、とりあえず天井があるとこにあるから、という理由でそのままになっているんだと、元支配人が教えてくれた。
ホシは、相変わらずちっこいし、相変わらず放置子だ。元支配人にも早い段階で話したけど、『僕が巡回する時には見ないなあ。一応、気をつけておくけど』と言う話で終わった。
謎の多いホシ。
「ホシは汗掻かないんだな」
「ホシ アセ イラナイ」
「要らなくはないだろー、人として大事だぞ」
「イラナイ」
ここに来るたびに俺はこの子に水分やら食事やらを勧めるのだけど、ちっとも摂ろうとはしない。偏食がすごいのかもしれないし、アレルギーかもしれない。
でも、なんだか放っておけない――……というよりは、目で追いたくなる。
ホシは小さすぎて全然恋愛対象とかではないんだけど、不思議と目を引くのだ。
なので、そんな彼女に「コノアイダ コースケヒイタノ スキ マタヒイテ」なんて言われると、何曲でも弾いてやりたくなる。
ぐんにゃりしているホシは、弾き終わる頃にはピョンピョン跳ねてダンスをするくらい元気になる。
「モット!」
そういうホシに、「悪いけどもう帰んないと」と言うと、「コースケカエル バイバイ」
と悲しげに言われてしまう。
「一晩中、弾きたいんだけどな」
「ヒイテ!」
「そうもいかねーよ、親が心配する」
「オヤガ」
親の話題を出すと、ホシは異国の言葉のように受け止める。もしかして親のいない子で、施設とか親戚のうちに身を寄せているのかも、なんて思って、話題を変える。
「もうすぐ八月かー……」
「ウン モウスグ」
「……なんか、楽しそうだな」
「ホシ タノシソウ」
「そこは楽しいでいんじゃないの?」
俺がつっこむと、ホシは「タノシイ」と言い直した。




