流星雨の夜(上)
深い、熱い、滴のようなほのおが燃えている。
例えばランナーなら、調子がいい時って足は勝手に走るようなイメージなんだろう。
ゾーンていうの? そいつを俺も持ってる。
ただしアスリートじゃないから、それは運動してる時じゃないけど。
鍵盤に触れてさいしょの一音で、この日のコンディションがなんとなく分かる。
今日は、上の上。すっげえスペシャルいい日。
我を忘れて弾きすぎないように(忘れると気がついたら日にち跨いでて、家に帰った時かーちゃんにめちゃくちゃ怒られる)アラームはあらかじめセットしてある。
何から弾こうか。これ! って決めうちしてクラシック縛りのこともあるし、そうじゃないこともある。今日は、行き先決めずに自転車でふらふらするみたいに弾こう。
あ、やっぱめちゃくちゃいいな。
今日の自分は頭がクリアで、指も足もみんなベストを超えたコンディションで、弾いてるうちにどんどん自分の中のイメージが研ぎ澄まされてく。
ほのお。青く燃えている。
揺らめきながら、けして消えずに、滴るように燃えている。自分の中の奥の奥の深いところで。
これがはっきりと思い浮かべられるほど、いい演奏ができる気がしてる。
お客さんがいればな、と思う。いたら、喜んでもらえたかも。支配人も、バンドメンバーにも。
俺の住む街にあるちょっとした山のてっぺんには小さいながらも由緒正しいホテルがあって、高校に上がってからはそこのレストランでピアノを弾いてた。ちいちゃい時からの夢だったから、バイトながらにそれが叶えられた時は嬉しかった。
最盛期ほどは繁盛してなかったみたいだけど、ひよっこの俺と、ベテランのバンドメンバー――親子というよりは爺ちゃんと孫ほど年の離れた――とのセッションは評判を呼び、それ目当てでホテルを訪れる人もいたとのことだ。
支配人からそう教えてもらった時の面はゆい気持ちを思い出しながら、客席だったあたりを見る。
一斉に咲き誇る大輪の花々のようだったテーブルセットはもうなくて、かわりに黒くてごつくてデカい石が一つだけあった。
その日、レストランはちょうどエアコン周りの調整中で終日営業していなかった。
それを忘れた俺がいつもの時間にのこのこ行くと、支配人は「いいよいいよ、せっかく来たんだからピアノ弾いてきな」と言ってくれた。
エアコンはメンテナンスを終えたのか、レストラン内に作業着姿の人は見当たらず、照明もぐっと絞ってある。
そんな風に、いつもと違う店内で、弾いた。
この日はスペシャルほのおデーだった。
弾いても弾いても身体はどこも重くならず、ほのおはますます研ぎ澄まされた。
面白れーな。俺、どこまで弾ける?
支配人も誰も演奏を止めに入らないでいてくれたから、自分の限界に挑戦する気持ちで弾いた。
音にだけ向き合う。
その楽しく美しい時間は、ふいに破られた。窓際の一枚ガラスとともに。
あんな音、今まで聞いたことない。
誰かの悲鳴が、と思うくらい、割られる瞬間にガラスが発した音は悲痛だった。
隕石が破壊した特注の一枚ガラスは今も昔も変わらず目玉が飛び出るほど高価で、ホテルにとって破損は大打撃だった。支配人は当初貼り出していた休業を詫びる文言を、『当ホテルは、今月末を持って閉館します』というものに変えた。
自身が継いでからずっと赤字続きだったこと、そこへダメ押しするように隕石でガラスが割れたこと、でもそれでようやくホテルを畳むと決意できたこと――支配人はさっぱりした顔つきで、従業員みんなにそう告げた。
とはいえ、小高い山の上にこのホテル以外はなにもなく、隕石落下からおおよそ二ヶ月、閉館した現在も買い手は未だ付かない状態だ。建物を解体するにもお金がかかるので、当面はこのままだろうというはなし。
廃墟となったこの建物に浮浪者や動物が居着いたり、悪い子供が来て悪いあそびをしないように、元支配人は定期的にパトロールを行っている。それでも、自分一人では目の届かないところもあるので時折様子を見に行って欲しいと、山の麓に家がある俺に白羽の矢が立った。
『バイト代は出せないけど、好きなだけピアノを弾いていいから』
元支配人に、そんな殺し文句とともに鍵を手渡された俺は『了解っす』と安請け合いをした。
以来、バイトのない日の夜は、ここまで原チャで来て弾いてる。
灯りの付いていない元職場は、クラシックな外見もあってホラーチックだ。そのせいもあってか、今のところ小動物以外の生き物にはお目にかかっていない。
毎回律儀に怯えつつかつてのレストランにたどり着いては、懐中電灯のぼんやりとした灯りをお供にひとり弾いた。
正直、申し訳ない気持ちもあった。まるで俺が引き寄せたような隕石。
もちろん、そんなはずはないだろうけど――そう思いながらつらつら弾くピアノは、やや陰りのある曲調になった。
でも、ああ、気持ちいい。
自分が、よく研がれた刃物のように、空気さえ切れそうな気持ちになる。
白鍵と黒鍵が自分とコネクトしていて、これ以上ないくらいに思い通りの音が出る。
試しに、と自転車の速度を落とさずに十字路を曲がるように曲調を変えて、『あの日のあのとき』に弾いていた曲を弾く。
丹念に裏ごしされて、丁寧に泡立てられたムースのように、なめらかな音。それを邪魔する要因が何もない。ずっと、ずっとずっとこうしていたい。
そう思うけど、アラームが鳴ってしまう。
ああ、いやだな、あっという間だ――。でも、ここで切り上げないと。
すごく好みの女の子とのデートの帰りみたいに、名残惜しくてたまらない。あまくておいしいキャンディーの後味と香りを舐め終わった口の中で楽しむのに、よく似ている。
えい、と椅子から立ち上がって、「ありがとね」と鍵盤の表面を撫でながらいつものようにお礼を言って、そっと蓋を閉める。
振り返って、出入り口に向いかけて、足が止まる。
忌々しい隕石の前に、ちいさい女の子が丸くなっていた。
え、いつ入ったの。なんで寝てんの。てか、生きてるよね。うん生きてる。呼吸に合わせて動いてる。
「おーい……」
起こしたいような、でも目覚めて欲しくないような、どっちとも付かないまま掛けた声はへなへなと頼りなかった。
「聞こえてますかー」
でも、俺ももう帰んなくちゃだし。えい、とピアノから退く時みたいな気合いを入れて、肩を揺さぶった。
ぼさぼさの髪の毛とばさばさの睫毛の間から現れた、きらきらのおめめ。
おっきくなったら美少女になるだろなこの子、と思いながら「起きた?」と声を掛けた。
その子は、まるで日本語が分からないみたいにきょとんとした。
「ここ、暗いし人が居なくて危ないから早く帰った方がいいよ。いっしょに出よっか?」
しゃがんでできるだけ優しい顔と声で言うと、その子は大きく首をかしげる。頷いたようにも見えたし、手を伸ばせば同じように伸ばしてきたから、いいってことなんだろう。
さしだされた小さな手は、こどもなのにひんやりとしていた。
「お嬢ちゃん、おうちどこ?」
おうちの人どこ、って聞くのを堪えてそう聞くと、その子はまたよく分からない、という顔をした。
まいったなあ、これ警察に届けた方がいいの? てか裸足だし、抱っこした方がいいかんじ? なんて思っている間に、するりと手を抜く感触があって、どうしたの、と思いながらその子のいるあたりを懐中電灯で照らしたけど。
「……いない」
ひええ、と泣きたい気持ちで、半ば転がるように原チャをとめたとこまで坂道を駆け下りた。
翌日、土曜&バイトが夜からのシフトなのをいいことに、俺は朝からそこへ向かった。
昨日、帰ってからいろいろ考えた。あれ、幽霊だったのか、とか。
でも幽霊にしちゃ、しっかりと感触があったし、あの子はどこか半分寝てるようにぼんやりはしていたけど、生きていないもの、という感じはなかった。
なので、どうせ幽霊だとしても同じ見るなら昼間の方が少しはましだろうと、そう思ったわけだ。
――でも怖いのは怖いから、お清めの塩は持った。




