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ほどく時

 かたく閉ざされたジャム瓶の蓋を難なく開けるように、私は結びついたものどうしをほどくことができる。たとえば、小さな女の子にひわいな冗談を浴びせかける親戚のおじさんの精神から、ひわいな冗談部分をほどいたり。たとえば、見舞いに行った祖母の体から、はびこる痛みをほどいたり。

 なぜこんなことができるのかはしらない。同じことをできる人がほかにいるかどうかも。だから、これは本当は『ほどく』じゃなくて、もっとかっこいい名前かもねえ、と思うこともある。

 やり方は簡単。手をつなぐ、それだけ。相手の手に触れている間にほどきたいものを自分の手で引き出せば、あとは勝手にほどけてくれる。

 いままでそれをしたことは片手で足りる程度で、祖母のお見舞いも遠方だったから、痛みをほどけたのはたった一度きりだった。自分の名誉のために言っておくと、就職が有利になるよう面接官に使ったことも、好きなものを手に入れるために店員さん相手にしたこともない。ほどくと一週間くらい体調が悪くなるし、私欲のためにするのはいけないとなんとなく思っていたから。


 そんな風に、自分の中で禁忌にしていた使い方を行使する日が来ようとはね、と自嘲してしまう。


 長く付き合っていた彼が、ほかの女に目移りしたので結局別れることになった。

 別れを切り出された今はまだ、そんな風に悪意の塊でしか言い表せない。もっとやわらかく、『お付き合いを解消することになった』とか、もっと端的に『捨てられた』でもなく、自分の心情に一番寄り添った表現。

 気持ちなんてなまものだから、本人の意思にかかわらず変わってしまうのは仕方のないこと。

 そう頭では理解したふりをしても、心は納得なんかしやしない。

 愛した分だけ等しく思いを返してもらえなかった、その差を何らかの形で相殺したいと思った時に、自分にはかなえる術があると気付いてしまった。

 自分ができるのはほどくだけで、結びつけることは不可能だし、万が一できたところでそんな行為はむなしいだけだ。

 なら人の気持ちを勝手にほどくのはむなしくないのか、と自分でもそう咎める気持ちがないでもなかったのだけれど、それはとうとう思いとどまれるだけのストッパーにはなってくれなかった。

 私への感情はもうとっくにほどけているのだから、腹いせに彼の恋心をほどいたって今更どうにもならない。

 それも、重々理解していた。


『お返ししたいものもあるし、最後にもう一度会いましょう』

 そうメッセージを送れば、別れを切り出す側としての後ろめたさのある彼は『わかった』と素直に応じた。


 平日の仕事帰り、どこにでもあるコーヒーショップで、ドリンク一杯分だけ時間を割いていただいた。

 部屋に残されたままだった彼の私物をまとめて紙袋で渡すと「かさばっただろ。持ってきてくれてありがとう」という言葉をもらって、ああ私はあなたのそういうところが今でも、と思わず吐露しそうになった。

 ぐっと引き結んだ唇に、彼も何かを察したのだろう。

「……身勝手でごめん。二年間、ありがとう」と、静かに頭を下げた。

 別れを受け入れたい。捨てないでとすがりたい。でもどちらも選べずに、心はかたく縮こまっている。

 ふしぎなものだ。人の感情は絡んだ糸よりも簡単にほどいてしまえるというのに、自分のそれは同じようにできないだなんて。

「せっかくだから、おしまいに握手でもしましょうか」となんとかおどけて笑ってみせると、あからさまにほっとした顔の元恋人が、ためらいなくこちらに手を差出した。

 自分よりいつも少しあたたかいその手にそっと触れて、軽く握る。



 二人ともコーヒーを飲み干し、渡すものも渡せばあとはもう何もすることがないので、店の前で別れた。

「じゃあ」

「お元気で」

 友好的にやりとりを交わしたのち、彼は駅の方へ足早に歩き出した。これが見納めになるだろうとスーツの後ろ姿を目で追いかけたけれど、通りを行く似たような姿の人たちに紛れてすぐに見えなくなる。そのまま、五分くらい行き交う人を眺めて、自分も駅に向かった。


 ああ、終わってしまった。


 結局、最後の最後で『やっぱりダメ!!!』と自分の中の全理性が結託して、元恋人の恋心をほどくという私の計画を阻止したので、彼の彼女への思いは一ミリもほどかれないままだ。

 つまらないな。思い切りが悪いってほんとうにいやだ。こんな自分こそほどいてやりたいくらい。


 うん。

 でもきっと、これでよかったんだ。


『彼女に向けた恋愛感情がないと、彼はいつ気付くだろうか』と想像するのは、実に小気味よかった。うろたえる想像上の彼をざまあみろと思った。

 ――まだ、そんな悪意が自分の中から完全に消え失せたわけじゃないけど、でももう同じようなまねはしないだろう。


 さようなら。


 もし本当にほどいていたら、きっと長くみじめな思いと後悔を引きずったと思う。

 でもほどく直前、彼女へのあふれる思いに紛れて、私への情も少しだけど残っていたのがつないだ手を通じてわかってしまった。まさか、と動揺した隙に理性を取り戻したおかげで、取り返しのつかないことをしでかさずに済んだ。


 私を心底いやな人間にしないでくれてありがとう。イヤミじゃなく、本当にそう思う。

 失った恋を、こちらはまだもう少し抱えて生きていきそうだけど、あなたはあなたの世界で、どうぞお元気で。


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