ふたご姉弟、はじめての冒険
「ねえ阿礼、二人で東京に遊びに行ってみない?」
継が私に持ちかけたのは、世間的に言う夏休みの初日だった。
私と弟はふたごでハーフだ。父が人間、母が人魚で、特徴の出方は私が人人魚で弟の継が人魚魚。二人とも鱗レスで人間の足が生えそろってて歯もそんなには尖ってないけど、人魚みがやや強い継は、一定の時間以上水から離れては生きられない。
私たちは海のほとりに棲んでいる。海から家へと引かれたパイプは、主に継のために、――かつてはかあさんのために――用意された大きな水槽に繋がっていて、いつだってそこは新鮮な海水で満たされている。
継が水から離れていられるのはマックスで三時間。徒歩ゼロ分の海や近所のコンビニへ行く以外、外出らしい外出をしたことは、生まれてから今まで一度もない。学校にも通ったことがないから、ずっと不登校扱いだ。でも、水槽やバスタブから半身を乗り出し耐水性のパソコンやタブレットを駆使して、いろんなことを自主的に学んでいる継は、とっても頭がいい自慢の弟――のはずなんだけど。
東京へ遊びに行く? 暑さで頭が湧いちゃったのかな。だって、家のある半島から東京へは、片道で一時間と少しかかる。リミット三時間じゃ、よっぽどうまく行動しないとほぼ行って帰ってで終わりだよ。
「現実的じゃないんじゃない?」
一日の大半を水に浸かって生活しているくせ、私よりもとうさんよりもリアリストな継とは思えない発言に、思わず反対したら。
「阿礼、よく考えてみて」
継は私に見せつけるように、人差し指で自分のおでこをちょんちょんてした。
「東京は川の街でしょ、それに大きな公園には噴水があるし、入浴施設だってたくさんある。僕は海水じゃなくても大丈夫だから、水に関しては多分なんとかなるよ」
「そっかー! さっすがつぐ! あったまいーい!」
反対意見をぴゅっとひっこめて拍手する姉に、弟は大きなため息を吐いた。
そして、当日。
「ねえ見てみてつぐ、街がすごいスピードで後ろに流れてく!」
「阿礼、ちゃんと前見て座って。あともう少し小さい声で」
「だって、初めての電車なんだもん!」
継も私とおんなじで初乗車のくせに、なんでこの子はテンション上がんないかな!
学校にちゃんと通えていたら、遠足で、とか、通学で、とか、いろんな機会で電車に乗ってたと思う。でも継は引きこもりだし、私もそうなっちゃったし、結局今日まで乗ることってなかったな。
ほんとは、私ひとりならいつだって乗ろうと思えば乗れてた。でも、継がいっしょじゃなきゃやだったんだもん。
学校は、継がいないからすごくいやだったけど、通ってみた。どきどきびくびくしながら。
私はたぶん、皆の知ってることを知らないし、常識ってものが身についてない。何が違ってて何を知らないのかが分からないから、気付かないうちにとんちんかんなことを山ほどしてしまってたんだろう。
『阿礼ちゃんて変わってる』『なんでこんなことも知らないの』って言われ続けて、時にはふるまいを笑われて、小学校の中学年くらいからは、こわくて学校に行けなくなってしまった。だから、林間学校も修学旅行も参加したことがない。親しいお友達もできなかった。まあ、私には継がいるから平気。だけどね。
とうさんとかあさんが普通のオトーサンとオカーサンだったら、学校、もっとちゃんと行けてたかな。
前にうっかりそう漏らしたら、継に鼻で笑われて『仕方ないじゃん、父親は研究してるか妻にうつつ抜かしてるかで子供を育てる才能は皆無だし、母親は人魚だもん』で終わり。なんてシンプルな子だろ。
確かに、とうさんは絵に書いたような学者ばかな人で、私たちが見る限りコミュ力や社交性はゼロだ。いちおう仕事は大学教授らしいから、そっちでは家よりはしっかり人と関わっている、と思いたい。
家だとご飯とお風呂以外の時間、だいたい部屋にこもってる。さらに、海が荒れていなければ夜は沖まで船を出してかあさんに会いに行ってるから、あんまり顔を合わさないし話さない。
朝晩とご飯時の挨拶は、目も合さずにぼそぼそ呟く。それに、こちらから何を言っても『ああ』『そうだな』『好きにしなさい』の三つのルーティーンで会話は成立されちゃうし、それ以上広がりもしない。乾パンみたいにぱっさぱさな関係だね。
継は、かあさんのことしか見ていないとうさんに期待してないって言う。衣食住とネット環境が今後も確保されるならそれでじゅうぶん、って。
私は、それはちょっとさみしいと思っているみたい。
もちろん、継と朝から晩までシューティングゲームしたり、ぶっつづけで配信の映画見たり、楽しいよ。でも、ハグしてよとか愛してるって言ってよとかまでは思ってないけど、親の愛情ってやつを感じてみたいな、とか思う。お金だけ与えられて背を向けられるより。
終点のアナウンスが、車内に流れた。それ聞いて、すかさず継に内緒話。
「次は品川、だってつぐ、ほんとにあるんだね品川!」
「阿礼、田舎者発言がひどいよ」
「つぐだって田舎者じゃん」
「阿礼と一緒にしないで。僕は動画で予習済みです」
「かわいくないなー」
いや。継の顔立ちは整ってるよ。人魚って美形ばかりだから、ハーフの我々はそれなりに美人だし(ちなみにとうさんは普通のおじさん顔)。ま、人人魚の私は『普通よりちょっと』で、人魚魚の継は『普通よりだいぶ』だけどっ。
だから、さっきから車内でひそひそひそひそ、継のこと見ておしゃべりしているっぽい人がいっぱい。でも、学校に通っていた時みたいに、もしかして私がおかしいことしててそれをみんな見てるのかもっていう妄想が、わーっと満ち潮のように襲ってきた。
「――ね、つぐ、これ全部つぐだよね、私じゃないよね、私、変じゃないよね」
心配になって口走ると、継は私の手をぎゅっと握って「阿礼じゃないよ、僕の美貌のせい。悪いね、美人な弟で」と笑う。
「ほら、着いたよ、降りよう」
そこは駅で、駅の中でも品川駅っていうところは人がたくさん行き交う場所で、それで、とにかくうじゃうじゃ人がいた。魚群みたいに。テレビで観たような光景に、思わず写真をばしばし撮ってしまった。
「つぐー、ひとがたくさんいるよー」
「田舎者発言二回目」
「だって……」
「ほら、手、ちゃんと握ってて。迷子にならないように」
「う、うん」
「たくさんいるけど、サメと違って襲ってくるわけじゃないから大丈夫」
「……そうだよね」
継にそう言ってもらったから、私は超高速で元気を取り戻した。
「よし、行こう!」
「うわー単っ純……」
うるさいよ。
せっかくだから東京駅丸の内北口のドーム天井、とか、銀座の大通りの角の時計塔、とか、その辺をうろうろして写真撮りたいなって思ったけど、継は山手線の内回りじゃなく、外回りにさっさと乗り換えてしまった。
「つぐのケチ」
「でもこれ乗ったら阿礼憧れの恵比寿渋谷原宿通るよ」
「そっかー!」
にこにこしたら『ほんと単純』って顔された。
恵比寿駅はアナウンスが面白かった。『えびすぅー、えびすぅー』って伸ばすのはどうしてなんだろう。真似してたら継に「人がたくさんいるところで真似するのはやめて」って恥ずかしそうに言われて、また自分がはみ出した行動をしているって分かった。
山手線は駅と駅の間隔が短くて、高いとこを走ってると思ってたらいつの間にか谷底みたいなところもあって、駅に着くたび万華鏡みたいにくるくると表情を変える。
かあさんにも見せてあげたいなあ。でも、別に見たくないかな。人が苦手っていうか、嫌いだものね。だから、できるだけ人目を避けて、日中は海底にいるみたい。――そんなんで、どうやってとうさんと恋仲になったんだろう。
かあさんは私たちが三歳になる頃まで陸で生活してくれてた。継よりも短い時間しか水なしでいられないから、家ではほぼ水槽の中で、私と継は自分たちも一緒に入ってるか、水槽の周りにいることが多かった。
人魚はヒトの言葉はしゃべれないし理解もしてない(って、継がネットのどこからか文献を引っ張って教えてくれた)。なので、もちろん会話はできないけど、その分目力がすごいから、感情は読み取りやすい。
怒られることって、一緒に住んでた時もあんまりなかった。ぱっと思い出すのは笑った顔だし、今でもいちばん見るかな。――口を開けてニーッと笑うと鋭い歯がむき出しになるから、実はまだ毎回ちょっと怖い(もちろんそれだけじゃないけど)。
ときどき、とうさんの船に同乗して会いに行く。
沖まで出て船のエンジンを切れば、そんなに待たずにかあさんが波間からひょこんと顔を出す。
いつも水の中にいてひんやりとする指は、会うと必ず私の頬にそっと触れる。継の頬にも。そのとき、とってもとっても優しい顔をするから、とうさんよりは愛情を感じるよ。
かあさんとは、おしゃべりできないかわりに、船の縁にならんで腰掛けて、満月や星を見たり、たまには海の中で一緒に泳いだりもする。
そうして少しの間一緒にいて、私たちが帰る時、かあさんはいつも、見えなくなるまで見送っている。
今、何を考えているの。なんて言いたいの。
長く尾を引く航跡よりも、心に残る疑問。
目まぐるしく変わる山手線の景色と駅アナウンスにいちいちひゃーひゃー言っているうちに、新宿駅に着いた。継はまた「降りるよ」って言って、私の手を引く。どこを見ても面白くって、五メートル進むごとに立ちどまっては写真を撮った(そして痺れを切らした継に促されて歩いた)。
「これが……新宿……」
「阿礼ー……」
たっくさんお買い物をした外国の人を見て、歌舞伎町の入り口のおおきなアーチを見て、またばしばし写真を撮って、無意識に田舎者モード全開になっちゃう。人にぶつからないように気をつけていたつもりだったけど、あちこちきょろきょろしてたらやっぱりぶつかっちゃった。
「す、すいません」
「いーよいーよ、――あれ、君かっわいいねー! 体験入店とか興味ある? 稼げるよー」
「え、あの、」
「行くよ阿礼」
継がやたら渋い顔をして私を引っ張るけど。
「でもぶつかったし」
「もう謝ったんだからいいだろ、時間ない」
私たちが道端でやりあっていたら、さっきのお兄さんが、今度は継の顔をのぞき込んで「あれれー?」と目を丸くした。
「君もずいぶんな美人さんだねー、男の子でも花形で働けるお店紹介できるよ」
「いりません」
「まあまあ、そう言わずに」
お兄さんはニコニコしたまま、継の手首をぐっと掴んだ。
「……キャッチは違法ですよね」
「うん、そうだね」
「じゃあ、これ、外してください」
「俺は、顔色が悪くて今にも倒れそうな男の子を支えてあげているだけだよ。それで、これからお店に連れて行って休ませてあげようとしているだけ。人助けだよ。何も悪いことしてないよね?」
確かに、継の顔色は良くない。まだぜんぜん三時間経ってないのに、と思って時計を見る。――えっ。
「つぐ、大変だよ」
「なにが」
「二時間半もたってる!」
「だから時間ないって言ってんじゃん」
何にもしてないのに、――違う、私がいちいち足を止めてわーわーきゃーきゃー騒ぎながら何枚も何枚も写真撮ったりしてたから。唇をかんで自分を責めたいところだけど、そんな時間もないから継を捕まえている人をギッと睨んだ。
「お兄さん、つぐから手、今すぐはなして。そうしないと噛みつくよ」と、口を開けて犬歯を見せつける。
かあさんほどじゃないけど、人人魚だから人よりは鋭い歯を持ってるよ。
お兄さんは私の歯を見て、笑顔のまま『えっ』て顔になった。
「阿礼、手加減して。サメを追い払う時みたいに本気でやったら駄目だからね」と、継も後押しすることを言う。
そしたら、ずーっと何を言ってもにやにやしていたお兄さんが慌てて「ちょ、怖ぇーこと言わないでよ、冗談でしょ」って手を離して、小走りで行ってしまった。その後ろ姿が通りの角を曲がって消えて、ようやくほっとできた。
「よかったー……」
「よくないよ」
私がふ――っと満足感たっぷりなため息を吐くと、すかさずつっこまれた。
「だって、田舎者のわりにはじょうずに追い払えたでしょ」
「ま、そうだけど……ごめん阿礼、僕、今からみっともないことするけど許してね」と、継は褪めた顔色でかすかに笑った。
そうだ、忘れてたけど継、水から離れて調子悪いんだった! まだリミットの時間じゃないけど、今日の東京の午後の日差しはまたひときわ強いし、いつもと違うところでいつもと違うことしているから、限界のほうから近づいてきちゃったみたい。
ふらふらの継は、私に「キャップ、緩めて」と水の入ったペットボトルを弱々しく差し出す。私が一ひねりで開けたものを返すと、「ありがと」と言いながら、
――頭からじゃばじゃばと中身を浴びた。
わあ、道行く人がびっくりしてる。そりゃあそうだ。思わず目で追っちゃいたくなるような美少年が、水をかぶってるんだもん。
水もしたたるいい男の子、になった継は、少しだけさっぱりとした顔になる。
「ごめんね、でもこれでちょっとは楽に動けるから」
「う、うん」
「じゃ、行くよ」
「うん!」
どこに行くか、何をするのかも知らずにまっすぐ答えた。
継が私の手を引く。
大通りに出て、地下に潜る。大きな目印でも表示されてるように、継は迷わず進む。だから、私も迷わずについてく。
階段を上る。左に曲がる。
待ち構えてた地下鉄の改札をくぐって、やってきた電車に飛び乗った。あっ、あこがれの丸ノ内線。
「つぐ、座りなよ」
返事をするのもつらそうな継を空いていた席に座らせて、自販機で買ったお水を飲ませた。飲むと少しだけ元気になるけど、古いバッテリーみたいに、長くは持たない。
目をつむっている継にはらはらしているうちに、銀座についた。手を引かれて電車を降りる。写真は、もう撮らない。これ以上継が水から離れる時間を作りたくない。
「つぐ、日比谷公園行く?」
そこならよくテレビとかで見たことがあるから噴水あるって知ってた。でも継は、頭をゆるりと横に振った。
「今、工事中で噴水やってないって」
「そうなんだ……」
どうしよう、と思う私の手を、思いのほか強く継が握って、「行こう」と、公園のある方とは反対に向かって、地下通路を歩く。
そこから今度は銀座線に乗り換えて、新橋へ、新橋でゆりかもめにのってお台場海浜公園へ向かった。
もう、普通に電車で帰るのでは間に合わない。どうするのかは、ここにきてようやく分かった。
降りた駅のトイレでもペットボトルの水を頭からかぶってプチ元気になった継と、人工の砂浜をざくざく歩く。
波打ち際まで来ると、継は靴を脱ぎながら「阿礼、ここから一人で帰れる?」と聞いてきた。
「やだ」
「やだかどうかは聞いてない、できるかどうかを聞いてるの」
「だって、やだよ」
「もー……じゃあ、僕のリュックに濡れたら困るもの全部入れて、完全防水だから」
「うん」
継は脱いだ靴と靴下をリュックに入れた。私も。あと、貴重品のはいった自分のちっちゃなバッグも。
そうしておいて、服のまま二人でざぶざぶと海に入った。
「こうなること見越しての完全防水リュック?」
「万が一の備えにね。まさかほんとにこうするなんて思ってなかったよ」
人工の砂浜にはたくさん人がいて、おかしな行動に出たこちらのことも見てたけど、私と継があんまりにも堂々としているので(そして継が美人過ぎるので)『何かの撮影かも』と思ってもらえたらしい。
誰に咎められることもなく、するっと泳ぎだす。ぬるい水と冷たい水が足の下で急にひゅいっと入れ替わるのをなんども感じているうちに、冷たい水だけになる。
沖に出て、継がほうっと息をついたのが分かった。
「つぐ、だいじょうぶ?」
「海に入れたから、もう大丈夫。それより、ごめん。阿礼の言うとおり、やっぱり来ただけで何もできなかった」
「ううん、そんなことないよ」
品川駅でたくさん人を見せてくれたよ。
恵比寿の、面白い駅アナウンスを聞かせてくれたよ。
丸ノ内線にも、ゆりかもめにも乗れたよ。
「阿礼を、楽しませたかったんだ」
すいすいと泳ぎながら、くやしそうに継が言う。
「阿礼はいっつも僕に『つぐはすごい、つぐは何でも知ってる』って言って、外に出たことがない僕にたくさん自信をくれた。だから、一緒に冒険してみたかった。――ほんとは新宿三丁目の、阿礼が憧れてるデパートの限定のトートバッグを買いたかった。欲しがってただろ」
「えっそれデパートのウェブストアでもう買ったよ!」
「ええっ!」
普段あんまり驚かない継が、めちゃくちゃ機敏に反応して、それから「……そーかぁ……」ってめちゃくちゃがっかりした。
「ごめんね、まさかそんなプランがあったとは知らなかったから」
「いや、僕も言わなかったしね……」
空気の抜けた風船のようにしゅーっとしぼんでしまった継に、「すっごい楽しい冒険だったよ、また来よう」って言いながら、私は一つの決意を固めた。
私、いつか船の免許を取ろう。それで、船で東京に来ればいいんだ。
水槽も積んで、東京の街を川から行けば、継はもっと楽に長い時間遊べるでしょ?
そうおしえたら、継は「阿礼のくせにいいこと考える」ってかわいくない同意をくれた。
泳ぎだして二時間くらいで、待ち焦がれた夜が海と空を覆う。
闇色に染まった波は、ちゃぷちゃぷ揺れると月の光に白く光って、ミルクをかけたコーヒーゼリーみたいだ。
「つぐ、つぎに東京行く時は、ふっるーい喫茶店でコーヒーゼリーが食べたいな」
「じゃあ僕クリームソーダ」
「いいねえ」
ほら、こんな話をするだけでもう楽しい。
「つぐー、まだうちに着かないー?」
「まだまだ着かないって、頑張って泳ごう」なんて言いながらも、人魚ハーフの我々は体力的にはぜんぜん余裕だし、やっぱり泳ぐのは楽しいし。
ねえ、継。
私ははみ出しがちで考えなしでこわがりだけど、継がいれば大丈夫。
だからまた行こうね。絶対だよ。今度はもっとじょうずに遊べるはず!
続きます




