彼の羽根
とうとう、有翼人類が世界人口の三〇パーセントを超えたと今朝のニュースで聞いた。ユーヨクジンルイなんて堅苦しいから、羽根人って呼ぶのがふつう。
生まれた時から羽根人の人もいるけど、途中で背中に生えてくる人もいる。二〇代後半になっても生えなかったら、そのままもう有翼にはならないんだって。最近では羽根人団体が幅聞かせて、「翼の生えていない人類を『無翼人類』と呼ぶべきであって、我々こそが真の人類なのである」なんてトンデモなこと言ったりしてるけど、わたしの彼氏はそこまで過激な羽根人じゃなくてよかった。
――でも、彼は羽根が生えて変わってしまった。
嫌いじゃないよ、顔は一目惚れした時とおんなじくらい好みだし、たまにわたしを抱っこして一緒に空を飛ばせてもくれるし。だけど。
『実来君、もう図書室閉めるけど』
『あ、ご、ごめんね旭さん、今出る支度するから』
いつも猫背で、友達がいなくて、図書室に入り浸っていた、小声で引っ込み思案な実来君は、ぱーっと煙が晴れるようにいなくなった。
羽根が生えて、行動範囲が広がって、わたしの知らない羽根人友達が増えて、おしゃべりがじょうずになって、いつも笑顔の明るい人になって、図書室には居着かなくなった。
ひどい。こんなの詐欺じゃん。だって、わたしが好きになったのは今の羽根充――羽根人として充実した生活を送っていること――じゃない方の実来君だもん。返してよ。そう、言いたくなる。
空を飛んでると、地面がすごく遠くて、人がちっちゃくて、風が腕や耳を触ってくのが気持ちいいんだと、そううっとり話す人は、隣にいるのにすごく遠い。
わたしはね、ほんとは飛ぶのヤなんだ。
高所恐怖症の自分にとって、けし粒みたいに見える人や車は、ちっとも面白くなんかなくて、いつだってぎゅっとしがみ付いて『早く下ろして』ってそればかりずっと思ってた。そういうのって、伝わっちゃうんだろうね。
何回かは一緒に飛ばせてもらったけど、終わる時には脂汗をかいて無口なわたしは、そのうち誘われなくなった。
このまま、終わるかなって思った。だって、一緒にいる意味あるかな。価値観も楽しみも大きくずれて、後はもう、線香花火の頭が落ちるのを待つだけみたいな二人。
それでも、できるだけ、長持ちするといい。
そう思うのはほんとだけど、線香花火なら長持ちさせるコツはあっても、終わりかけの恋の延命の仕方なんて、検索すら惨めすぎて出来ない。
わたしがうつうつしている間にも、羽根充な実来君は、楽しそうに「こんどの日曜、集会に参加するんだ」なんて言う。
「集会?」
「そう、羽根人が一堂に集まって訴える」
「何を」
「羽根人の地位の向上について」
「それって、わたしより優先されること?」
「……え、」
とまどう実来君。そうだよね、こんな風に言うの初めてだもんね。わたしも、心臓バクバクしてる。でも言う。
「その日、デートの約束してたのに」
「ごめん、でも」
「ウザくてごめん、でも最近羽根人の集会危ないじゃない、暴力沙汰が増えてて」
「……そうだね」
「なら、」
「それでも行かなくちゃ」
ぎゅ、と彼の握った拳は、そうすることで意思を固めてるみたいだった。
「これは『俺たち』にとって、大事な戦いなんだ」
「――命より大事な正義って何」
それには答えずに、実来くんは困ったように笑った。わたしがお気に入りだった実来君もよく似た表情をした、と一瞬見惚れて、それから心のどこかがねじれたように遅れて痛んだ。
『無翼人類の旭さんに、分かってもらおうとは思わないけど』と、その顔はそう言っていた。
わたし、図書室で小雨の日の雨だれよりもゆっくり静かなペースで実来君とおしゃべりするの好きだった。小声が聞き取れなくて『え、聞こえなかったもう一回』と聞き返してもいやな顔ひとつしないあなたが好きだった。
実来君にお勧めされた本を『面白かったよー! ありがとう!』って言った時にだけ見せる、ホットケーキの上でじわーっと溶けるバターみたいになんとも嬉しそうな顔が、大好きだった。
実来君は変わっちゃった。でも、ふとした時に『好きな実来君』がひょいっと現れるから、思い切れないでいた。
もうわたしの言葉も聞き入れてもらえないのに。
テレビでも繰り返し流されたその日の集会は、今までの参加人数をはるかにしのぐほどの羽根人で溢れかえっているのが画面越しにも見て取れた。集団をぐるりと取り囲む警察官は、一様にこわいかおをしてた。
捕まっちゃう人が、何人もいた。空を飛んで逃げようとした羽根人に向かって警察は網をかぶせたので、ほとんどの人がその方法では逃亡出来なかった。結局ひとところに殺到したものだから、ドミノみたいに人が倒れて、踏みつけにされて。
――大勢の人の下敷きになった実来君の両羽根は、飛行機能をうしなった。
「罰が当たったね」
そう微笑む顔は、憑き物が落ちたような、以前のような。それに、声のボリュームも。
「――、」
「え、聞こえなかったもう一回」
「君に、釣り合う人間になりたかったんだ」
「え」
「俺はこんなだし、本を読むことは好きだけどそれ以外は全然だめで、だから君の横で並んで歩く時にもっと胸を張れるような男になりたかった。羽根が生えた時は嬉しかった。これで変われると思った」
「……うん。すごく変わった」
私がそう言うと、「結局、元通りだけどね」と自嘲する。
「あれはあれで、自分じゃないみたいで、楽しかったよ。でも本当は、周りの人の熱にただ当てられてたのを、色々と錯覚していたみたい。集会もね、『羽根人にとって、今はとても大事な局面だから』っていう言葉を、たくさん聞いてるうちに参加しなくちゃいけないような気になって。――信念もないくせに参加したから、罰が当たったんだ。元通りのさえない自分どころか、役に立たない羽根がかえってかさばる」
「そんな風に言わないでよ」
「……旭さん」
「わたしは、飛べない実来君の方が好きだもん」
「……えっ!」
「実来君のおっきい声、羽根充だった時ぶりに聞いた」
「だ、だって、俺は、」
「わたしは、自信満々で本を読まない実来君より、羽根が生える前と、今のあなたの方が好き。そういうわたしの念が羽根を駄目にしちゃったのかも。ごめんね」
「旭さんが、謝らないで」
「じゃあ、わたしに負い目なんか感じないで」
「うん、――」
「え、聞こえなかったもう一回」
そう返すと可笑しそうに、ありんこのくしゃみくらい小さな声で「好きだよ」とはにかみながら言ってくれた。
羽根人と人間のカップルは、同種同士より少なくて、一年未満で九〇パーセント以上のカップルが破局しちゃうんだって今朝のニュースで聞いた。別れる理由で一番多いのは『価値観の違い』。すっご――くよく分かる。
実来君があのまま羽根人人生を華々しく送っていたら、わたしたちもお別れしてたと思う。そうならなくて良かったな。
彼の羽根は飛ぶことに関しては、もう全く見込みがない。ただ神経は生きているので、一日に一度、羽を伸ばしたりたたんだり動かしつつのマッサージは行ってて、わたしもたまにお手伝いしてる。羽根充だった実来君は好きじゃなかったけど、この手触りだけは好きだから。
雨覆にそっと触れて、それから風切羽。表面を撫でて、羽根の流れに沿ってしっかり手の平全体を使ってきゅーっと磨くように。マッサージっていうより、タッチケアに近いかな。うーん、レトリバーを撫でてるみたいで気持ちいい。
「旭さん、もうそれくらいで……」って赤い顔のぽそぽそ声に止められるまで、今日もたくさん触りました。
なんでも、羽根人にとって羽根を触られるっていうのは、とんでもなく気持ちよいことなのだって。




