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Snowflake

 病気の人間の余命を告げられたとして、その期限を否定したくなるのは仕方がないのだろう。ましてや、身内であればなおさら。

「おおよそ一週間でしょう」と、私は医師に告げられた。

 その病がどんなものかは知っていた。なのに即座に嘘でしょ、という言葉が口をつきそうになった。

 痛ましげに目を伏せた医師が、「少しでも多く、思い出を作ってください」と静かな声でそう言うのを、どこか現実ではないようにふわふわとした心地で聞いた。


 夫が奇病に罹った。

 突然変異で発症するそれは人に感染しないものなので、妻である私は最期まで彼の傍にいられる。けれど、触れることは出来ない。

 この病に侵された身体は非常に脆弱で、一週間経つ頃には砂で作ったお城のようにほろりと崩れてしまうのだ。


 スノーフレーク、と名付けたのは、ネットの住人であるらしい。正式名称はもちろんあるものの、ひどく堅苦しく長く覚えづらいので、使用しているのはもはや医療従事者と保険会社だけだ。

 スノーフレーク。雪のかけら。触れると溶けて、やがては消えるもの。

 実際に病人の体が溶けたり消えたりはしないけれど、スノーフレークという儚いものの言葉は、この病気の残酷さを端的に表している。


 発症から死に至るまでは医師に告げられたとおり、平均して一週間。病気を否定し、怒り嘆き悲しみ、生を希い、絶望し、受け入れる、その五つのプロセスを経る余裕もなく、患者本人も周りの人間も粛々と――あるいは呆然と――現実を受け止めるしかない。なぜなら、そうする時間も惜しいほどのスピードで、スノーフレークは患者を作り変えてしまうから。それを、目の当たりにしてしまうから。

 身の内で静かに巣食う病ではなく外側も進行するため、見て見ぬふりは出来ない。決して。


 患者の皮膚は雪のように白くなり、体力が激減し、そしてある日突然、身体が崩壊する。

 それが一週間のうちに起こる事象だ。もしかしたら治るのかも、という希望を、その病はほんの少しも私たちに持たせてはくれない。


 夫はすでに、もう六日を過ごしていた。

 進行の早い患者なら、リミットが前倒しで来てもおかしくないと医師は言う。



「いい、お天気だね」

 ゆっくりゆっくり、かすかな音で紡がれる声。

「そうね」

 つられて、こちらも密やかな音量になる。風や光、振動。何が彼を崩壊させるか分からない。傍に居る自分の動きは、誰に言われるまででもなく、彼に呼応したような静かなものになった。

 白いカーテンを閉め、空調も絞った部屋。テレビはなく、彼の好きな音楽だけをひっそりと流し続けている。元々騒がしい人ではなかったけれど、今の夫の様子もこの病室の在り方も、元気な時とは似ているようでやはり違う。好きに拵えた空間や物ではなく、ここは『その時』を待つ人のものだった。

「ねえ、」

 夫からの問いかけの後ろに続く言葉はなく、ん? と声には出さずに仕草でもって応えると、彼は存外しっかりした声で「手を握ってほしいんだ」と、今にも崩れそうなその手をこちらに差し伸べて言った。

「……それは」

 出来ない、とは言い切れなかった。

 夫の、おそらく最後になるであろう希みが、なんであれ叶えてやりたかった。けれど、この状態の彼に触れれば間違いなく崩壊が始まってしまう。――彼に残された時間を短くしてしまう。そんな私の逡巡を、夫は見抜いていたように思う。

「いいんだ、……そうしてほしい」

 タイミングよく巡回に来た医師に相談すると『望むことをして差し上げてください』とあっさり許可が出た。ここで大人しく我慢したところで、どのみち訪れる未来に大差はないということか。


 彼の横たわるベッドぎりぎりに丸椅子を置いて座った。

「では、いきます」

「どうぞ」

 ゆっくりと引かれあう手と手。決して仲の悪い二人じゃなく、どちらかというといい方だと自負していたけれど、手を握るだなんてこと、ここ最近はしていなかった。おかげで、そんな場合じゃないのに照れてしまう。夫も、真っ白の顔のくせに嬉しそうにしてる。

 そうだね。手に触れるだけでどきどきした時期が、確かに我々にもあったよね。それをまさかもう一度、再現出来るとは思いもよらなかったよ。しかも、この段で。


 体温を感じるほどに近付いて、そして指先だけでそっと触れた。途端に、崩れる中指の先。

 息を飲んで、思わず手を引きそうになる。そんな乱暴な動きをしたら、もっと崩れると気が付いたのですんでのところで堪えた。

「……痛い?」

「平気だよ。だから、嫌じゃなかったら、まだ触っててほしいな」

「嫌な訳ないでしょ」

「うん……ありがとう」

 残った他の指に触れる。掌に、手首に、肘に腕に肩に。

 私の指の与える振動と熱のせいなのか、崩壊は思ったよりも早い。それでも彼は気丈に、笑みを浮かべてくれた。

「ありがとう」

「さっきも聞いたよ。こちらこそ」

「ねえ、俺は、君の夫でいられて、とっても幸せでした」

「何言ってんのかな、私の方がずっと幸せでした」

「まけずぎらい」

 くすくすと笑い合う。そして。

「……げんき、でね」

 それを聞いて、堪えきれない私の涙が彼の上に落ちる。落ちたところが涙の形に凹んで、ほろりと崩れる。

「ごはん、ちゃんとたべて、がいしょくばっかりは、だめだよ、それから、」

 すうっと息を吸い込んで、その形で止まった、と思ったら残っていた彼がすべて崩れた。



 直前まで会話していたのに、と詮ないことをぽつりと零すと、医師は「あの状態でよく……」と驚いていた。こん睡状態であることが一般的なのだという話を聞かされ、今度はこちらが驚く羽目になった。

 それだけ、私のことが心配だったんだな。

 出来の悪い妻だったせいで、安らかに逝かせることも叶わなかったなんて。

 そう落ち込む私に、医師は「最期まで向き合える存在があったことは、おそらく幸せなことなのでしょう。少なくとも、死だけを見つめないですむのですから」と慰めてくれた。

「……だといいのですが」

 本当のところはどうだったのだろう。こちらからの問いかけは、不時着した星から見当違いの方向へ発信する救命信号のように、彼に届くことはない。彼からの答えも、私にはもう届かない。


 スノーフレーカー(この病で亡くなった人を指すネットスラングだそうだ)の遺体――というか白い粒子の山――は、原因究明のために研究所へ送られることになる。

 拒否する人も多いという話だったけれど、火葬も保存も元よりするつもりがなかったので、私は研究所から遣わされたコーディネーターが驚くほどあっさりと許諾のサインを記した。

 自分にとって大事なのは、彼と触れ合った体温と言葉、そして思い出だ。彼とこの先に新しい思い出を作ることはもう出来ないけれど、何度も思い出すことは出来る。忘れずにいれば、思い出の中で何度だって会える。

 だから、つらくてつらくて辛いけれど、私はけして不幸なんかじゃない。

 若いのにかわいそうに、旦那さんも無念だったでしょうね、でも前を向いて強く生きなくちゃいけない――、そんな無責任な言葉に、傷付いたりはしない。

 いまは雪のように次々と降り積もる悲しみに埋もれそうな心。この気持ちはきっと同じ季節が何度巡って来たとしても溶けてなくなりはしない、それでも見つめていたい。

 彼の笑顔も、命の終わる瞬間まで私に話しかけてくれたことも、触れた指先の温度も。

 心の痛みも、喪失感も、なにもかも。



 なにもかも。

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