(3)
*
ボクは夕食後のコーヒーを淹れていた。
マンデリンをフレンチ・ローストにしたもので、最近ボクのお気に入りになった。
幸美は夕食を一式担当してくれたので、ひと休みしてもらった。
ボクはもちろん幸美のカップも用意して、淹れたてのマンデリンをふたりで飲んだ。
ふと思い立ち、ボクは幸美に訊いてみた。
「幸美は、さ」
「あら? 今日は名前で呼んでくれる日なんだ!」
幸美は読んでいたハードカヴァーをテーブルに伏せた。
「そんな日があるとはボクは知らないのですが」
「カレンダーに『○』がついてるけど」
幸美がカレンダーの方を指さしたので、ボクは半信半疑でカレンダーを見た。
ひどい目には遭いたくないものだ。
「ヤだなあ、冗談に決まってるでしょ」
幸美はそう言うと、マンデリンに口をつけた。
そしてひとこと、「おいしい」と言った。
ボクは年季の入った最上級の苦笑いをしていた。
「キミはバイト先の人から」
「あら? 名前で呼んでくれるのはもうおしまい?」
これは残念。
幸美は言った。
話が進まないので呼びかけるのはやめて、ボクはあらためて言った。
「バイト先の人から、正社員にならないかって誘われたことない?」
幸美はカップを静かに置いた。
ボクの目を見て、なんでもないことのように言った。
「あるわよ、何回か」
ボクはずっこけそうになった。
「何回もかよ」
「うん。それがどうかした?」
「どうかした、って……けっこう重要なことだろ」
「そうかな。私はなんとも思わなかったけど」
「だからって、誘ってくれたならお礼ぐらいは言うだろ」
「それはもちろん、ね」
「で、なんて答えたのさ?」
「おやおや、気になるの?」
幸美はボクににじり寄って、視線を近づけた。
ボクは危険を感じて、マンデリン入りのカップをちょっと遠ざけた。
「あなたなら想像がついてるでしょう?」
「それはまあ、確かに」
「じゃあ、『なるほど』って言わせてあげようか?」
「確かに」と「なるほど」は、ボクにとって口癖のセットのようになっているらしい。
幸美に言われてみると、自分でも心当たりはあった。
口癖自体はまだ他にもあるらしいが、幸美はセットであるこのふたつしか教えてくれなかった。
自分が普段どんなふうにしゃべっているのか、意識するのは難易度が高そうだ。
自分の背中を直に見ることができないように。
「申し訳ありませんが、ってその都度言ってね」
幸美は少しだけ首を傾げた。
「私の勝手な都合なのですが、ご遠慮いたします」
幸美は傾げた首を元に戻した。
「そう答えてるけど、どう?」
幸美はさっきと反対側に首を傾げた。
「どう?」と言われたということは、幸美がボクの返事に期待しているのだと分かった。
仕方ない。
ボクは言った。
「なるほど」
幸美は満足そうに元の位置に戻ると、「よろしい」と言ってマンデリンを飲んだ。
ボクの苦笑いは磨きがかかる一方だった。
*
ボクがカップを片付けた後、幸美は引き続きハードカヴァーを読んでいた。
ベッドに寄りかかりながら。
── こうしているのがいちばん読書に集中できるから。
ということらしい。
ハードカヴァーは何冊目かの『現代民話考』だ。
何冊あるのかボクは把握していない。
── 一度読んだくらいですむような本ではないのよ。
幸美はそうも言っていた。
だから今何冊目を読んでいるのか、何回目なのか、ボクはこれっぽっちも分かっていない。
「何よ」
幸美の声が聞こえた。
「何が」
ボクは返した。
「さっきから私を見てたでしょ」
「そうだったかな」
ボクはとぼけた。
たいがいの場合、ボクはとぼけている。
幸美はストレート派だが、ボクは変化球派なのだ。
野球のピッチャーに例えて言えば。
幸美にはしばしば派手にホームランを打たれてしまうが、その後にどんな言い訳をつないでも受け入れてくれる。
幸美はそんなヤツなのだとボクは知っている。
「まあ私のことなら、いくらでも、何度見ても惚れ惚れしちゃうってことかしら」
幸美はボクには言えない洒落た言葉を聞かせてくれる。
ボクを「面白い人」だと評価してくれたこともある。
(自分のことを棚に上げて何を言ってるのやら……)
ボクからすれば、そういつも思うことになる。
「まったくだよ。今もなお惚れ惚れしてしまうんだから、キミの言うとおりだ」
ボクは本気と冗談が複雑に混じりあった返事をしてみる。
幸美の表情はボクに向いたまま頬が赤くなり始め、目を大きく見開いている。
しばらくしてから幸美の声が聞こえた。
「な、何言ってんのよ今さら」
幸美は視線をはずして落ち着かない雰囲気になる。
珍しい。
「ボクだってたまには本音をストレートに言うことだってあるさ」
そう答えてから、幸美が使う表現を借りて、つけ加えて言ってみる。
「ど真ん中に剛速球、だよ」
ボクの剛速球は幸美から見ればただのスロー・ボールかもしれないけれども。
幸美はハードカヴァーを閉じてテーブルに置くと、すっと立ち上がり、ボクに詰め寄ってくる。
「ずるい」
そう言うと、幸美はよく懐いたネコのようになってしまった。
(これじゃいつものバーボンの飲みっぷりと同じだな)
ダジャレの類になるけど、要は「ストレート」ということだ。
幸美を見ながら、ボクはそう思うことになった。
何をするにせよ、幸美の行動はまっすぐなのだ。
幸美はアルコールに強いから、氷を入れることはあっても、放っておくとストレートでぐいぐい行ってしまう。
チェイサーの水がたっぷりないとボクはダメだし、あったとしても幸美ほど飲めることはあり得ない。
一緒に飲み始めたとしてもすぐにボクは追いつけなくなってしまう。
「なあんかさっきから様子がおかしいと思ったら、音楽が流れてないのね」
とうとうどうかしちゃった?
幸美は続けた。
「ボクにも静かに考えたいときがあるんだ」
「やっぱり」
「分かってくれたか」
「うん、よく分かった。あなたが今日おかしいのは、音楽が流れてないからだ、って」
「そっちかよ」
「ね、よく分かってるでしょ」
「あの、冗談には聞こえないのですが」
「本気で言ってるもん。ストレートで」
「ひどい言われような気が」
「違う違う。不安になったから、少しだけ」
「音楽がないと、生きていけないわけだ、ボクは」
「それは否定しないけど……元気がないみたいだから、あなたに」
「そんなことないけどな」
「そう言っておきながら入院しちゃった人が昔いたんですよおーだ」
幸美は「フン」とでも言ったかのようにソッポを向いた。
「その件につきましては、そろそろ勘弁してほしいのですが」
「だって……心配だから」
幸美は態度と表情を変えた。
「ただ考えごとをしていただけだよ、ホントに」
「世界は不思議で満ちているから?」
幸美の表情がまた変わった。
「そこまでは行ってないと思うけどな」
「ふうん」
「まだなんか言いたそうだ」
「私はここにいるよ」
幸美はボクに向けて腕を伸ばした。
どこをどうしたらそんな言葉が出てくるのだろうか。
今ならもう、ボクのマネをしているうちに身につけた変化球だって使えるはずなのに、幸美は相変わらずストレートしか投げてこない。
ど真ん中の、剛速球。
このことは「私にとってすごく重要なルールなのよ」と、幸美はいつか言った。
つまり、真っ向勝負なのだ。
とはいえ、ど真ん中のストレートと分かっていても、ボクがバットを振ったところでかする気配さえしない。
ボクは連戦連敗なのだ。
ボクには幸美のストレートを打ち返すテクニックもパワーもない。
この辺はボクも自分の身のほどを今ではすっかりわきまえている。
ボクは幸美と勝負をしているのではない。
だからボクはバットを持つことはなく、キャッチャーミットを愛用することに決めていた。
幸美の剛速球と勝負するのではなく、相棒であることを選んだのだ。
ボクは幸美のど真ん中のストレートをまたしてもしっかり受け止める。
例え取り損なったとしても、絶対身体で止めてみせる。
決してうしろに逸らさない。
幸美に遠慮なくストレートを投げてもらうために。
力いっぱい、心置きなく投げてもらえるように。
ボクが今できるのは、それだけだ。
それだけは誰の追随も許さない。
これから先、どんなことが起こるのか分かりっこない。
不安がないとは言えない。
ただ、そのうちのひとつだけでも消すことができたなら。
声にすることはしばらくできそうにないけれど。
「何かまた考えてるでしょ」
幸美にはすぐバレてしまう。
「まあね」
「私に言えないようなこと?」
「そんなことないよ」
「ふうん」
うかつなことを言うとまたすぐバレてしまうから、ボクは充分に気をつけなくてはならない。
── じゃあ、すぐ言ってみて。
なんて迫られたら、すばやく変化球投手に戻って、のらりくらりとかわすしか今のボクには手段がない。
「だったら、待ってる」
ボクは「あれ?」と思う。
幸美は言葉を続ける。
「待ちくたびれちゃったら、そのときは」
ボクはどこかでやらかしたのだろうか?
そんなことはないはずだが。
言いかけてやめてしまった幸美に、ボクはその続きを訊いてみる。
「そのときは?」
「そうねえ、覚悟しろよ、って感じかな」
「何をだよ?」
「さあ、何かしら」
幸美の息がすぐ近くに感じられる。
マンデリンの香りが、わずかに蘇ってきた。