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      *      *      *


 初めてバイトに行った日、自分としては意を決して飛び込んだその場所に、幸美はいた。

 とてもユニークで他の誰とも違う個性を持ちながら。

 幸美とはすぐに打ち解けた。

 それまでのボクにはありえないことだった。

 初めて顔を合わせたときから極めて自然に、幸美はボクと接してくれた。

 何故か話が途切れずに続けられた。

 まるで遥か昔からボクを知っていたかのように思えた。

 その理由がボクに分かるはずもなかった。

 当時の幸美はボクにとって、仕事を教えてくれる尊敬すべき「先輩」だった。

 同級生だと分かってからも、明言したことがなくっても、尊敬の対象から変わることは無かった。

 しばらくの間は。


      *      *      *


 やがて幸美は自分について、立ち入ったことを話してくれるようになった。

 幸美はボクやタマキと同じく「西洋音楽史」を受講しており、顔を合わせる機会が増えたからだとボクは思っていた。

 そんなある日、ボクは幸美から衝撃的な言葉を聞いた。

 幸美が抱えていたのは恐るべき事態であり、実のところボクは青天の霹靂に打たれたと思ったほどだった。

 幸美の婚約解消事件が始まっていた。

 ボクはいつの間にかその渦中に巻き込まれていた。

 黙って見ているのは結果的にボクには無理だった。

 ボクは自分でもすごく驚くことになったが、自分史上初めて、これ以上はないほど本気で怒鳴り散らしていた。

 街中だというのに、何ひとつ気にすることなく。

 闇の中にいたボクの手を引いてくれたのは幸美だった。

 ボクが閉じこもっていた殻をすべて破壊してくれたのも幸美だった。

 そのおかげで、ボクが落ちていた闇は消滅していた。

 それからボクは徐々に変わっていった。

 少しずつではあったが、立ち直っていたのだ。

 だから幸美はボクの恩人だった。

 感謝すべき人に違いなかった。

 そんな人があまりにも情けない様子で情けない言葉を吐くことに、ボクは耐えられなかった。

 悔しくて熱くなっていた。

 感謝の対象であるからこそ、ボクはそうせずにはいられなかった。

 ……今にして思えば、我ながらずいぶん大それたことをしでかしたものだ。


      *


 いろいろと紆余曲折があったが、幸美は自らボクのそばにいてくれる。

 ボクの手を引いてくれて、殻をすべて破壊して、外に出してくれたのが幸美であるという事実はいつまでも変わらない。

 ボクの本質が変わったのかどうかは自信がないけれども、大学に入ったばかりの頃のボクは、もうどこにもいない。

 あの頃の姿かたちは木っ端微塵となり、消えた。

 今ではより強さを増したように見える幸美のおかげだ。

 いつまでかかるのか分からないけれど、ボクはせめて助けてもらった分だけでも、幸美に返したいと思っている。

 幸美自身はなんのことやらという様子でいるが、ボクにはそれではすまないのだ。


      *


 ボクはボクなりに、真剣にまたは深刻に、将来について考えている。

 そこには仲間たちがなおもいてくれて、ボクのそばには幸美がいてくれると、勝手に思っている。

 将来の保証なんか何ひとつないのに。

 まだ誰にも話してはいないが、実際はいくつかの具体的な選択肢がボクの目の前に現れていた。

 ボクも田中を見習って、会社訪問、と言っても説明会だが、行ってみたことがある。


      *


 K教授はご自身の方針で、上級生になるほど面談の機会を増やしてくれるという、ボクには偉人としか思えない人だった。

 ボクは心を入れ替えた。

 そのときは助手のAさんも同席しており、ボクは複数の企業の説明会に行くつもりであることを話した。


── そこなら私のよく知っているところだから、会が終わった後にでも、より詳しい話を聞いてくるといい。


 教授はそう言うと、簡単そうに紹介状をサラッと書いてボクに渡してくれた。

 受け取ってしまったボクは、これでもう会をパスすることは不可能になったが、教授には感謝するばかりで「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。


── ダメだったときはこの研究室もあるから、堂々と行ってきなさい。


 そんな気の効きすぎるジョークも言ってくれた。

 さらに、Aさんもまたこう言ってくれた。


── 土井くんが名前を出した3つ目の会社は、ぼくの友人が勤めているところだから、ぼくも一筆書こうか?


 きっと誰ひとり、いつもにやにやしているAさんがこんなことを言ってくれるとは考えもしないだろう。


── 教授のような力はないけど、帰り際にでも受付のおねえさんに頼んで渡してもらうといいよ。どっかのタイミングで友人が私的に話してくれるはずだから……その際はぼくもそこにいるかもしれないけどね。


 Aさんはそう付け加えると例によってにやにやしていた。


      *      *      *


 また別の日に、たまたま母校に寄ったのだというO先輩と行き会った。


── やあ、土井くんじゃないか。久しぶりだね。その後は元気かい?


 O先輩は背が高いのでボクは見下ろされるようになっていた。

 でも威圧的なところはちっともない。

 ボクを覚えてくれていただけでなく、とても親しげに話しかけてくれたので、ボクはとても感激した。

 O先輩がとっくに社会人だとは知っていたし、平日なのに学生の頃と変わらないカジュアルな服装だったので、ボクはこう訊いてみた。


── 今日は有給休暇、とかいう日なんですか?


 ボクの予想をあっさり覆して、O先輩は答えてくれた。


── いやいや、こんな格好だけど、普通に仕事の日だよ。


 そう聞いて、ボクはびっくりした。

 会社員ならスーツが当然だと思っていたからだ。


── ぼくの勤め先は大きなところではなくて、こぢんまりと少人数で働いているんだ。業界的にもスーツを着ている人は珍しいくらいだから、こうした服装でもいいのはありがたいよ。


 ボクには意外に感じたことがいくつもあった。

 服装のことはもちろんだが、O先輩なら有名な大企業に入れると研究室の中で聞いたことがあったし、O先輩が学年を代表する優等生だったことは、このボクですら知っていた。

 なのに、O先輩は小規模な会社に勤務していて、こんなふうに気軽な感じで外に出てきている。


── ああ、今日はたまたまこの近所にある取り引き先と打ち合わせがあってね、ずいぶん簡単にすんで時間があったから、せっかくだし挨拶に寄ってみたんだよ。


 そう言ったO先輩は、小脇にそれほど大きくも厚くもないバッグを抱えていた。

 とてもさりげなかった。

 打ち合わせと聞いてやっと、ボクはバッグに気がついたのだった。

 O先輩はそのバッグを開けると、中のポケットから小さな紙を取り出してボクにくれた。

 名刺だった。

 ボクの人生で初めていただいた一枚だ。


── 土井くんもそろそろ就職活動たけなわの頃だと思うけど、気が向いたら遊びにきて。たいしたところじゃなくて恐縮だけど、歓迎するから。


 O先輩はにこやかに言うと、階段を降りていった。


      *      *      *


 次の面談の際にK教授にうかがったところ、O先輩は大手商社に就職したが一年ほどで退職し、仲間の人たちと新しい会社を作ったということだった。

 その前に一度、O先輩はK教授と一杯やりながら相談をしたらしい。

 K教授は愉快そうに笑っていた。


── どうやらうまく軌道に乗って楽しくやってるようだから、よかったよ。彼の背中を押した責任が私にはあるからね。


      *      *      *


 そしてボクにもうひとつ。

 今のバイト先の上司の人から、ある日の勤務終了後に事務所へ呼び出された。

 心当たりはなかったが、何かやらかしたのではないかと、ボクは内心ひやひやしていた。

 ところが、事務所に赴いたボクが聞いたのは、全く予想外の言葉だった。


── 正社員になる気はないか?


 そういうことだった。

 ボクは就職活動中なので即答できないと答えた。


── それなら、ウチのことも考えてみてほしい。


 上司に言われたのち、ボクはお礼を伝えてからバイト先をあとにした。


      *


 こうしたことごとは、この約二週間程度のうちに起きていた。

 どうして突然就職絡みのことが立て続けに起こったのか、ボクは戸惑っていた。

 でも、冷静になってみると、あの田中が頑張って活動しているように、ちょうどそうしたシーズンなのだった。

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