序章 転生猫の前日譚
「お先に失礼します」
いつも通りにアルバイトの仕事を終え、飯田怜皇は仕事場であるコンビ二から出た。
夏の夜は昼と違って、よく冷える。
少々、肌寒く思いながら怜皇は家に帰るべく、足を早めた。
今日はみたい番組があったのだ。
帰宅まで電車を使って、数十分。今なら間に合うだろう。
「・・・って、くだらねぇ」
帰宅後の楽しみが、見たいバラエティの番組だけとは。
28歳にして彼女もおらず、アルバイトで生計を立ててる身に合った十分な幸せなのだろうか。
高校とは違って、『怜皇』という人によってはキラキラネームとも取れるそれを馬鹿にされることもなく、アルバイト仲間とはそれなりに仲良くできている。
今のままで十分だな。
そう怜皇が考えを改めていると、唐突に鼻がむずむずしてくる。
「ぶ、ぶえっぐしゅ!!」
汚いクシャミを発射してから、足元に佇む気配に気づく。
二つの耳と、伸びた髭、四足歩行の住宅街にはどこにでもいそうな茶色の猫がそこにいた。
怜皇はそれにため息をつきながら、しっしと手で追い払う。
「猫アレルギーなんだよ、どっかいけ」
しかし、その猫は人懐こい奴だったようで。
再び、怜皇の足に擦り寄ってくる。
また、クシャミが出た。
逃げようと住宅街を小走りになるも、何が気に入ったのか、ついて来る。
アレルギーが起因して、俺は猫が嫌いだ。
さっさと何処か行ってくれ。
そう思ったときだった。
「お前か・・・」
「は?」
唐突に、ブロック塀の角から男の声が聞こえて、怜皇は足を止めた。
次の瞬間。
ざくり、と己の腹に何かが刺さる。
鋭い痛みと熱さが集まり、怜皇は視線を腹に向けた。
そこからは、包丁の柄が生えており赤い血がTシャツに広がっていた。
柄を握っていた人物が刃を引き抜くと、さらに血は吹き出し、ジーンズに滴り落ちていく。
刺されたのだ。
理解した途端に、足から力が抜け、その場に倒れる。
「お前が、悪いんだからな・・・!
母さんを騙したお前が・・・!」
コンクリートの感触を身体全体で味わいながら、怜皇は自身を刺した犯人を見上げた。
夜ではあったが、街灯によって顔立ちが服装までが鮮明にわかる。
まだ中学生か、高校生ぐらいの少年が包丁を握りながら、こちらを見下ろしていた。
彼には覚えがあった。
怜皇が、人生で最初で最後の罪を犯したときの被害者の息子だ。
「金は、どこにやったんだよ!?
母さんから奪った金は!」
「・・・そんなのもう、ねぇよ」
怜皇の答えに少年は、歯噛みすると再び、包丁を振り下ろした。
今度は胸。
激痛が伝わり、怜皇は呻いた。
「死ね」
少年はそれだけを言うと、踵を返して夜の街に消えていった。
残された怜皇は、自身から血が抜けていくのを理解しながら、自嘲気味に笑みを浮かべた。
怜皇は5年前に一度だけ、詐欺をしたことがあり、とある女性から現金を何百万と騙しとった。
警察には捕まらなかった為、てっきり有耶無耶になったかと思っていたが。
まさか、息子が復讐に来るとは思ってもいなかった。
「悪いことは・・・するもんじゃないな」
ごふり、と血を吐き出しながら呟く。
アルバイトの帰りで怨恨によって刺殺とは阿呆らしい。
しかも、原因は自身のかつての犯罪によるものだとは、自分のくだらなさに笑いしか出ない。
怜皇が、そう思っているときだった。
にゃー
一つの鳴き声と共に、冷えていく身体に温かいものが擦り寄ってきた。
まだ、いたのか。
苦笑しつつ、僅かに動く手でその毛並みを撫でた。
ふわふわとしていて温かい。
猫も意外に、悪くない。
怜皇は朦朧と意識をするなか、走馬灯と呼ばれるものを見る。
色んな出来事が頭の中を駆け巡ったのちに、最期に去っていった少年の背を思い出す。
未来がある彼を犯罪者にさせてしまった。
すまない。
そんな言葉を浮かべながら、飯田怜皇は人間としての生涯に幕を下ろした。