落下
顔に熱いものを感じた。
一瞬何が起こったのが分からず前を向くと腹に衝撃を受けた。
警棒、恐らく特殊警棒だろうか。
伸ばすと同時に顔を殴り、次いで鳩尾の辺りを突かれたらしい。
――やれやれ物騒だな。
「待ちやがれYO!」
身を翻して反対方向に走る。
ここはビルの四階、鉄骨の隙間からは灰色の空が覗いている。
建物はあまりに老朽化していた。
あまり走り回るのは得策ではない。
口の辺りを拭うと赤黒い液体が付いていた。
血だ。
息を吐き出すと僕は足を止めた。
いいさ、身に掛かる火の粉は振り払うしかない。
「ぶっ」
間抜けな声が轟いた。
僕の弱々しいパンチはかすりもせず、逆に胸に膝蹴りを受けた。
再び特殊警棒、右からの振り抜き。
勢いのいい左フック。
思い切った頭突き。
全てを受けて僕の脳が大きく揺れた。
視界が、歪む。
「楽しいなぁ、シモマツさん!」
寺崎は吠えた。
随分と様変わりしたじゃないか、と僕は言おうとした。
だがそれは言葉にならず、出たのは空気の漏れる音だけだった。
そう、全然楽しくなどない。
僕は痛みに耐えて走り回った。
分からない。
何故僕は今血を垂らして走っているのだろう。
寺崎は鈍重そうな体とは裏腹に軽々と跳ねている。
――殺す。
「しばく」でも「倒す」でもなくその意思が表情から伝わってくる。
現実的な殺意を受けたのは初めてなのだろうか?
考える。
現実逃避。
意識が空に浮かぶように僕の思考は身体を離れている。
そのうちに僕は建物の端へと追い詰められていた。
「最後に言い残したいこと、あるのかYO」
「……か」
「うん?」
「カモンベイビー」
僕は携帯を投げて寺崎の頭にぶつけた。
寺崎は一瞬硬直した後、額に青筋をハッキリと表した。
頬は赤く、鼻腔は固く、変化する。
寺崎はさながら般若の如く爆走を開始した。
狙い通りだ。
僕はその瞬間、足元を狙ってスライディングを繰り出した。
勢いづいた足は止まらない。
寺崎の体は速度を保ちながら宙に投げ出され――。
「それは予想外だ」
寺崎の体は宙を舞っただけだった。
寺崎はハンドスプリングでもしたかの様に着地した。
スーツの上からとはいえ、その動きに一切のたるみは無かった。
またしても鋭い一発が僕の腹に叩き込まれる。
策という策はない。
ただの嬲られ、ジリジリと摩耗するように僕が壊れていく。
やれやれ、参ったな。
僕は諦観したように心の中で言った。
殴られても蹴られてもどうも全ての出来事が遠く感じる。
まるで画面の向こう側の猟奇殺人を見ている様に。
自分とは関係ないものの様に。
「しつこい……」
寺崎が僕を見下ろしながら呟いた。
そして体を引きずり、先程の場所――ビルの端へと連れて行く。
寺崎は僕の服の襟首を掴んで立ち上がらせた。
「なんでアンタがこんな事してるんだYO」
「さぁ、なんでだろうね」
「まぁいいさ、これで終わりにしてやるYO」
僕は寺崎の眼を見ながらその瞬間を待った。
即ち、僕が落下する瞬間だ。
鉄の匂いが混じった生温い風が少しばかり心地良い。
遠くに鳴く虫の音を聞きながら僕は更にその瞬間を待った。
けれどその瞬間は訪れなかった。
寺崎は停止していた。
独特の黒い眼球を見開き、口を半開きにしたまま固まっていた。
コメディ映画のワンシーンのような光景だった。
僕は寺崎を地上へと突き落とした。