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24/7 - Twenty Four/Seven -  作者:
第十二章
98/245

毒婦死す 001

 間に合え。

 そう何度も念じていた。

 間に合うはずがない。

 心のどこかで叫んでいる声に耳を貸さずにエルザは走り続けていた。

 今更、行っても無駄だと、何度も足を止めようとするのに止まらない。そうしなければならないのだと何かに突き動かされていた。


 周囲には静寂が満ち、全て終わったと告げるかのようだ。

 開け放たれた門をくぐれば既に生きている人間がいるとは思えない惨劇の後が広がる。

 全身が切り刻まれて真っ赤に染まった者、特に目立った外傷がないもののピクリとも動かない者、頭から血を流している者……濃厚な死臭が漂う。

 最後に彼女を見付けた。そして、彼を。


 倒れている漆黒とそれを見下ろす真紅、どちらに駆ければいいのかエルザにはわからなかった。

 混乱しているのだ。彼が目の前に現れてしまったから。

 いるはずのない男がそこにいたから。

「デュオ・ルピ……」

 その名を口にすれば彼が顔を上げ、ゆっくりと向かってくる。

「あれはもうじき死ぬが、俺はお前を殺すまで死なない」

 エルザが動けないまま擦れ違う瞬間、彼は今まで自分が見ていたものを指さす。

 彼女だけはまだ生きていた。生かされていたのか。


 エルザは前に駆けるしかなかった。

 振り返れば、まだ彼がいるのに追うことができない。


 彼はいつだってそうだ。

 ひどく一方的で、聞きたいことがあるのに、そうさせてくれない。

 また会える。そう受け取れる言葉を残して、いつまでも焦らす。

「アナタ、アタシをどうしたいのよ」

 エルザが呟いた言葉はバイクのエンジン音に掻き消される。

 彼は自分を殺すために存在する。そして、彼はそのために自分を真実へと導く。

 けれど、本当にそうなのかと思ってしまうのだ。

 彼はいつになったら、自分を殺してくれるのだろう。


「自業自得よ、何もかも」

 足を止め、吐き捨てれば足下の女が呻く。もう助からない。だから、助けようなどとはしない。

 いつも彼女が使っている毒々しい真紅のルージュよりも赤いものがその唇を染め上げる。

 毎日、自分で選んだ死に装束を纏う彼女は遅かれ早かれこうなることをわかっていたはずだ。あるいはロメオに殺されていても不思議ではなかった。

 〈毒婦〉マリア・ヴェントラ、罪深い女の最期が今訪れようとしている。

 彼女の唇が何かを紡ごうとしている。

「嘘を吐き続けてきたアナタの遺言を聞いてやるほど、アタシはお人好しじゃないんだけどね……でも、借りは返してもらわないと地獄まで取り立てに行くわよ」

 エルザはしゃがみ込み、〈毒婦〉を睨む。

 彼女はエルザの過去について何かを知っている。それを理由にエルザを使いながら、一度も知っていることを吐きはしなかった。

 小さな声を聞こうとエルザは顔を寄せる。血まみれの腕が伸ばされる。

 手が触れた金の髪にべっとりと赤が付く。そして、首に絡み付く。

「アタシを道連れにすることはできないわよ」

 最後の力がその腕にこもる。顔が近付き、唇が触れそうになる瞬間、ずるりとその身体が落ちた。

 死に顔は笑っているように見えた。エルザが嫌いな笑み、してやった、とでも言うかのような表情だ。

 それが〈毒婦〉と呼ばれた女の最期だった。

 きっと、先に逝った者達が地獄の入り口で待っているだろう。

 エルザは死後の世界など信じていないが、彼女ならば地獄でも娼館を作りそうだ。鮮やかに咲く毒の花になるだろう。

 悲しみはなかった。ただエルザはどうしたら彼女への借りを返してもらえるだろうかと考えていた。


 屋敷の中に何かを隠しているだろうか。否、そうとも思えない。既に中は荒らされているだろう。

 その瞬間、屋敷で爆発が起きた。轟音、空気が震える。

 離れなければならない。

 そうして、もう一度〈毒婦〉の死に顔を見た。そうすると不意に彼女の言葉が蘇ってくる。

『女は胸の谷間に秘密を隠せるくらいじゃないと』

 当時、それは単なる皮肉だと思っていた。今になって思い出すとは考えもしなかった。

 まさか、それが真実であるはずがない。

 時間がないのだと言い聞かせ、エルザは〈毒婦〉のドレスの中に手を入れる。

 寄せられた胸の間、そこにそれはあった。USBメモリだ。

 彼女からの最初で最後の情報、あるいは、敵のメッセージかもしれない。

 だが、今となってはどちらでも良かった。

「まったく、アタシが来なかったらどうするつもりだったのよ」

 自分以外の手に渡ることも十分に考えられた。『もしも』を考えても仕方のないことだが、全てが初めから決まっているとも考えたくなかった。

『信じてたわ、エルザ。あなたなら、あたくしのためにやってくれるって』

 そんな声が聞こえた気がした。

 聞こえるはずのない声、それは記憶の中の彼女の声だった。

 そうして、エルザは走り出す。



 市街地での突然の爆発音にざわめく雑踏を抜け、エルザは一瞬振り返ってみた。

 離れても舞い上がる炎が見える。その様は無惨に殺された女達の怨念だろうか。


 自らの隠れ家に帰り、エルザは真っ先にバスルームに向かう。

 鏡に映った自分の姿を見て、すぐに蛇口をひねり、シャワーを浴びる。

 髪や首にべったりと血が付いている。ここまでバンダナを巻いて隠してきたが、気持ちの良いものではない。

 血は見慣れている。流すことも流させることもある。浴びる趣味はないが、そうなることもある。

 全てを流しても、すっきりしない。それは、まるで呪いのようだ。

 最後の最後に〈毒婦〉は強力な毒をエルザに塗りたくったのかもしれない。


 彼女とエルザの関係は決して明るいものではない。弱みを握られ、利用されていたと言えば語弊があるが、そのようなものだ。

 〈毒婦〉マリア・ヴェントラは言わば元高級娼婦で、娼館の女主人だ。だが、実体は娼婦兼殺し屋を飼っていた。

 客は組織関係者が多く、彼女はそれだけ情報を握っていた。彼女は秘密を容易く明かす女ではない。顧客を大事にする。それがエルザであっても同じだ。

 だが、彼女はエルザが欲しがっている情報を持っていることを何度となくちらつかせた。

 エルザの封印された記憶、レグルスの膿に繋がる情報を持っていると言った。自分を手伝えば教えないこともないと。

 殺し屋と言っても所詮は娼婦だ。彼女が飼う女達の中にエルザに敵う女などいない。だから、ヴェントラは厄介な仕事をエルザに回してきた。ロメオと出会ったきっかけも、部下の娘を誘拐した人間を追ったのも彼女に依頼されたからだった。

 結局、どれだけ仕事をしても肝心な情報はそう簡単に渡してもらえるはずもなかった。


 シャワーを終え、エルザはパソコンを開き、USBメモリを差し込む。

 内容を確認して、ようやく長い依頼を終えた気がした。検証の必要があるが、顧客情報だ。かなりの量だが、役には立つだろう。

 まさか、いつもあの場所に隠していたわけではないだろう。

 もしかしたら、彼女はこうなることを予期していたのかもしれない。彼らと組んだその時から。


 目を閉じれば蘇る。鮮明ではない。そして、これからも薄れ続けるのだろう。


***


 目の前にはたくさんのドレスが並べられている。

 赤や青、原色のドレスはいずれも派手だ。カラーもデザインも。

 マリア・ヴェントラはそれを両手に持って宛がってはポイッと投げ捨てる。

「あなた、胸ないから似合うドレスがないわねぇ」

「耄碌したんじゃないの? ババア。アタシはまだ成長途中なの。大体、そんなドレス着る歳でもないわよ」

 エルザは呆れて溜め息を吐く。しかし、彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。

「あら、あたくしがあなたくらいの時にはもう肩が凝って仕方がなかったわぁ」

 まだ十代前半の頃のこと、胸も膨らみ始めたばかりだ。

 そもそも、娼館などという不健全な場所にいる歳でもないのだが、エルザが今ここにいるのは仕事のためだ。だが、話もそこそこにドレス選びに付き合わされているわけだ。

「大体、なんで、ドレス着なきゃいけないのよ。仕事は請け負う。でも、アナタの娼婦だと思われるなんて嫌よ」

「相手がなんだか知らないけど、ただ者じゃないんでしょ? アタシに仕事させたいなら、いちいち指図しないことね」

 相手は娼婦の一人を骨抜きにして捨てた。相当な色男らしい。復讐のために差し向けた殺し屋達は戻ってこない。

「あたくしの情報がほしいくせに」

「アナタが簡単にゲロしてくれるなら、こんな爛れたところにはいなかったわよ」

 戯れに銃を向けても彼女は動じない。殺せないとわかっている。自分が情報を握っている限り。

 その手が不意に頬に触れる。真っ赤な唇から零れるのは毒、その赤いネイルも毒針のように思える。

「あなたなら相当稼げるわぁ。もっと大きくなったら、うちにいらっしゃいな。あたくし直々に仕込んで差し上げてよ?」

「その時には死んでるわよ」

 娼婦になれる歳の頃にはエルザはこの世にはいない。それが理想だった。

「大人になっても、ここが成長しなかったら、あたくしがどうにかして差し上げる」

 ぺたりと胸に触れる手をエルザは振り払った。

「邪魔になるだけだわ」

「女は胸の谷間に秘密を隠せるくらいじゃないと」

 そうして彼女は見事な谷間を見せつけてきた。

「寄せて上げて大変だこと」

 こうはなりたくないものだ。エルザは深く溜め息を吐いて適当なドレスを選び取った。彼女にさせてはいつまでも終わりそうもない。仕事はさっさと終わらせてしまいたかった。


***


 見下ろしてみてもあの時からエルザの胸は大して成長していない。望んでもいないのだから良いのだ。

 けれど、やがてはこの記憶も薄れていくのかもしれない。全てあの炎の記憶に塗り変えられていくのかもしれない。


 濡れた髪も乾かして、汚れた服は捨てて新しい服を纏って、けれども、清々しい気分で出かけられるわけでもない。

 夕方、気乗りはしなかったが、〈カニス・マイヨール〉にトール・ブラックバーンを呼び出した。その前にエルザは寄り道することにした。

 まるで墓前に報告するようにエルザはこの路地裏へ来る。実際、墓前には後ろめたさもあり、全てを終わらせるまでは行かないと決めた。だから、遺体発見場所がその代わりだ。

 それは自分の中でのけじめと称した自己満足でしかないのかもしれない。


 ふと背後から回された腕、首筋に感じる冷たい感触にエルザはどこか安心感を覚える。

 相手はわかっていた。だから、恐怖もない。距離を詰められる前に回避しようとも思わなかった。彼の好きにさせてやればいい。

「今日は何も言ってくれないの? ねぇ、オルクス」

 背後に問いかければ彼はクスクスと笑い出し、そっと離れていく。

「言わなくてもわかるくせに」

 心地よいテノールが正解を示す。

 振り返れば、彼はそこにいる。

 黒衣に仮面という姿は変わっていないが、これ見よがしに顔の前で掲げる左手は銀色に輝いている。

 一見すると指先から手首にかけてのアクセサリーのようだが、武器だ。五指全てに武器がはめられている。

 先ほどエルザの首筋に触れていたアーマーリングの爪は決して飾りではない。本当に刃が付いているのだろう。

「心にもないことを言われるよりは、ずっといいかもしれない」

 彼は自分の死神、お喋りよりは黙って刃を宛がわれた方が安心できる。

 会うのは二度目、自分の得物を見せてきた分、殺気だけの一度目よりは良いのかもしれない。

「そう言われると、おめでとう、と言いたくなるね。今日は黙っていようと思ったのに」

 一度目、彼はそう言った。あの時はエルザが〈ロイヤル・スター〉を集めた時だった。彼はエルザがいずれそれらを手中に収めるとまで言った。

「何もめでたくないわよ」

「めでたく〈毒婦〉が退場したのに?」

「アナタ、やっぱり口を開かない方がいいわよ」

 喋るほどに虚しくなるとエルザは思う。

 仮面で素顔を隠したところで、彼の正体はわかっている。

 声音を変えることなく、香水を変えることなく、表でも彼は平然と接触してくる。だから、困惑するのかもしれない。

 問題はこの男の正体ではなく、過去の自分が彼に何をしたのか、なのだから。

「黙ったら君の罪状を読み上げることができなくなる」

「普通、それは別だと思うけど」

 彼には自分を殺す理由がある。エルザの過ちの犠牲者だからこそ死神であると直感的にわかっているのに、思い出させてはくれない。

「君が生きている限り俺は何度でも現れる」

「アタシの首に鎌をかけに?」

「そう、何度でも思い出させてあげる。この俺の存在を」

 エルザは彼の真意がわからずに首を傾げる。肝心なことは思い出させてくれないのに妙なことを言うものだ。

「忘れないわよ」

 忘れるはずがない。自我を失わない限りは。

「君は恋を知ってしまったから、俺のことなんてすぐに忘れてしまうよ」

「恋ですって? 馬鹿馬鹿しい」

 そんなことを言うなんてどうかしてる。エルザは笑い飛ばす。

 それなのに、彼は何も言わない。なぜか彼の素顔の困り顔が浮かび、エルザも困惑する。

「……俺は死神失格かもしれない」

 沈黙を破ったかと思えば彼はそんなことを言い出す。殺気が揺らいでいる。まるで、彼の心が乱れているかのように。

 そうして、そのまま、彼は去って行ってしまった。

 わけがわからない。エルザは彼の背を見送りながら吐き捨てる。

 本当にわけがわからない。

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