漆黒の狩人 003
いつしか雨はエルザの髪を濡らし、雫を滴らせていた。頬を伝う水滴は涙のようでもあるが、エルザは泣くことができない。服が肌に貼り付き、体温を奪っていく。そんな冷たさも感じていなかった。
全てが麻痺していた。
「何してるんだ?」
不意に雨が遮られ、代わりに声が降る。
エルザがずっと待っていた男の声ではない。どこか似ているようで、やはり少しも似ていない。
見上げればカーキのジャケットを纏った長身の男が黒い傘を差し、エルザを見下ろしている。
エド、その名前を紡いでエルザは小さく笑った。
「昔もこんなことがあったわ。その時はアタシが傘を持っていたけど」
ギターを抱えて雨に濡れる男に傘を差してやった日のことをエルザは思い出す。
「昔話をするのは早すぎる」
エドは顔を顰めるが、エルザは皮肉めいた笑みで続ける。
「先が長くなければ、早すぎることもない」
長く生きるつもりはない。早く死にたいのだ。
「エド、アナタに頼みがあるんだけど……」
「とりあえず場所を移さねぇか?」
頭を掻く彼は面倒な話だと判断したのだろう。エルザは首を横に振る。彼が移るつもりの場所はわかりきっている。今のエルザにはあまりにも都合が悪い所だ。
「アタシはもう店には行かない。だから、アナタが連絡係になって」
「断る」
即答だった。察しのいい彼のことだ。わかってくれるとエルザはどこかで期待をしていたのだ。
「アタシは甘えるべきじゃなかった。彼に悪い影響を与えてしまうから」
「俺は許さない」
冷たい言葉でエドは決して受け入れようとしない。彼の冷静さは知っていても冷酷にさえ感じられる。
「アナタならわかってくれると思ってた」
エルザは信じられない気持ちだった。彼は遅かれ早かれこうなることを予期していたのではないかとさえ思ったのだ。
だからこそ、断固とした態度を取るのか。
エドが組織に詳しいのは彼自身が過去に組織に関与していたか、現在も関与しているかだとエルザは考えている。直接問い、暴き立てるようなことをしないのがエルザの主義だ。自分が敵にならない限りはどこかで助けてくれるような気がしていた。
「買い被り過ぎだな。俺には女心なんてわからねぇ」
肩を竦めて、涼しげに冗談を言うのだからエルザには彼が強敵に見えた。自分が濡れるのも構わず、立ち去ってくれそうもない。
「来いよ」
エドはエルザの手首を掴み、無理やり立ち上がらせると、そのまま引きずるように歩き始める。
「離して!」
雨に体力を奪われたか、彼の手を振り解くことができない。
「暴れるな。これ以上手間を掛けさせないでくれ」
制するように一瞬向けられた視線にエルザは無駄な抵抗だと気付いた。彼を傷付けずに、痛みなくこの場から逃げることは難しい。
エドは少し怯えたように接してくるアルドやどちらかと言えば好奇心が勝っているようなジムとは違う。ある意味では依頼主であり、護衛対象であるが、エルザに対して横柄というわけでもない。
年下の普通の少女として扱っているつもりか。エルザには心地よくも、厄介なところであった。殺し屋として恐れるわけでもなく、敬意を表するわけでもないが、軽蔑の眼差しを向けてくるわけでもない。極普通に他の誰かと接するのと同じようにしているのだろう。
エルザの正体を知った上でそのように接してくるとすれば、やはりその筋の人間だけだ。
あの場に居合わせたこと、殺し屋がやってきたことはエルザとしても想定外だった。探る意図があってのことではない。彼の口から自分の名前が出た時には正体を知っていて、試されているのかとすら思ったほどだ。真っ向から交渉しようとするあたり、ただ者ではない。
今も盗み見る横顔は至ってクールで、腹立たしくもなる。崩してやりたくなるのだ。
「人攫い」
ぽつりとエルザは吐き出す。相合い傘をして手を繋ぐ恋人のような甘さはない。しかし、エルザが既にずぶ濡れであるにも関わらず、自分が濡れないようにするわけでもない。
それでも痛いほどに掴んだ手を弛めないあたり、まるで隙がない。
「人聞きが悪い」
「ロリコン」
エルザは逃亡を諦めたわけではなかった。行き先はわかっている。だからこそ、絶対に阻止しなければならない。
「意外にレベルが低いな」
「もっとひどい言葉を浴びせかけてほしいの?」
「やめとけ、美少女が台無しになるだけだ」
挑発さえエドには軽くあしらわれてしまう。どんな言葉を吐かれようと痛くも痒くもないとでも言うかのようだ。
こうなるとエルザも意地になるものだ。
「そんなの関係ない」
「毒は程々がいい。あんたは致死量を激しく越える」
エルザは裏社会に名を轟かせる殺し屋ではあるが、普通に接している限り、エルザ自身が彼を命の危険に曝すことはない。わかっているからこそ、エドは余裕を見せるのだろう。
「ねぇ、彼女は?」
エルザは攻め方を変えてみることにした。
大して興味があるわけでもないが、聞いたところで核心には迫らないと知っていた。
「いない」
「彼氏は?」
「俺はヘテロセクシャルだが」
「学生の時はモテたの?」
「いや、あんまり」
「じゃあ、今は?」
「全然」
次々に質問を浴びせかけてもエドは淡々と返してくるばかりだ。これではつまらない。
今の自分達は周りにどう見られているのか。考えたところで無駄なことはエルザもわかっていた。誰もが雨に気を取られ、見てもいない。
エルザは少し踏み込んだ質問を続ける。
「初恋は?」
そこで沈黙があった。呆れて答えるのをやめたのか。エルザが様子を窺おうとしたところで彼が口を開く。
「覚えてるのは十の時、年下の金持ちのご令嬢に魂が痺れるほどの劇的な一目惚れをするも視界にすら入らず一瞬で叶わないことを知った」
エドもエルザが本気で聞いていないことはわかっているはずだった。
適当に嘘を吐いても構わない。この会話にお互いを知るなどという目的は一切ないからだ。
けれど、こればかりは本当のことなのだとエルザはなぜかはっきりと感じた。
「ファーストキスは?」
「ジュニアハイスクールの入学祝いとして近所の色っぽいお姉さんから」
「もっと早いと思ったのに」
「それまでは女とは縁がなかった」
まるでハイスクールの女生徒だ。自嘲したい気持ちに駆られながらもエルザは続ける。
悟られてはいけない思惑があるのだからそう思って油断してくれた方が良い。
「初体験は?」
「キスと一緒」
そこまで踏み込んでもエドはあっさりと答える。もしかしたら、こういう時のために作り話を用意しているのかもしれない。
「初めての自慰は?」
さらりと問いかけてエルザは機会を窺ったが、期待した反応の代わりに降ってきたのは溜め息だった。
「そうやって逃げようとしても無駄だからな」
「少しぐらい動揺してもいいと思うけど」
今度こそひどく呆れた様子で言うエドをエルザは恨みがましい目つきで見た。全てはその手から逃げるための作戦だったのだというのに、まるで効果がなかった。
「俺は鋼鉄の男だからな」
得意げに言うエドに苛立って、エルザは即座に次の作戦に移った。
無理矢理引き剥がそうとしても動かない手に爪を立てたり、つねったりしてみるが、徒労に終わった。
彼は憎らしいほど涼しげに笑う。
「口が駄目なら実力行使か? それにしても、地味だな」
「アタシは物事を穏便に解決したいのよ。でも、離さないと噛み付くわよ?」
こうなれば多少の痛みは仕方ない。エルザも覚悟を決めたところだった。女に噛まれるくらい可愛いものだろう。
「タイムオーバー、あんたの負けだ」
脅しも虚しく、目の前には〈カニス・マイヨール〉、エドは勝ち誇った表情である。
わかりきってはいたが、エルザが今、最も近寄りたくない場所である。
「うちの連中は大抵あれでどうにかなったのに。アナタはアタシを全く恐れないのね」
「牙や爪を隠してるならあんたはただの子猫ちゃんさ」
エルザは彼を傷付けられない。やはり見抜かれていたのだ。関節でもとれば逃げられたかもしれないのに、それすらできなかった。
エドは閉じた傘の雫を軽く払い、傘立てに押し込むと扉を開け、エルザを強引に引き入れた。
*
ドアベルが鳴るとアルドの体はすぐに反応する。
「あ、いらっしゃいませ。あ、エドさん!」
常連客の姿にアルドの顔は綻ぶ。しかし、彼の背後に気付く。今日は一人ではない。
「雨女を拾った」
「なんで……」
先程別れたはずのエルザが髪から雨粒を滴らせている。一瞬でずぶ濡れになるというほどの豪雨ではない。ずっと彼女が外にいたということになる。
「アルド、タオルだ」
「は、はい!」
フレディに言われてアルドははっとした。彼の方がずっと対応が早かった。そして、差し出されるタオルを受け取ってドアの方へと走る。
アルドがタオルを差し出せば、エルザはプイッと顔を背けた。
「いらない」
エドにしっかりと手首を掴まれた彼女は不機嫌のようだ。
「ダメですよ! 風邪引いちゃいますって!」
アルドはつい先程のことなどすっかり忘れて純粋にエルザのことが心配だった。だから、その手がタオルを受け取った瞬間心底ほっとしたのだ。
だが、その視界はすぐに白く覆われた。
「アタシはそんなに柔じゃないのよ、坊や」
そう言い放つ彼女の顔は見えなかった。
「ゴメンね、エド。アタシは諦めの悪い女なの」
何が起こったのか。アルドに聞こえたのは悲しげな言葉とエドの呻き声、そして、ドアベルの音だけだった。
タオルを剥ぎ取ってアルドはすぐに状況を把握できなかった。エルザの姿はない。床の水滴だけが彼女がいたことを示していたのかもしれない。
「くそっ、やられたな」
悪態を吐くエドはどうやら足を踏まれたらしい。
「えっと……とりあえず、タオルを貸してくれ。それと、いつものを」
「は、はいっ!」
彼も部分的に濡れたらしい。慌ててアルドはタオルをエドに渡し、彼が暖まるようにと急いでカウンターへと向かった。
テーブルについたエドにコーヒーを持って行き、アルドは疑問をぶつけようとした。しかし、どう聞けば良いのかわからなくなってしまった。
「フラフラしてたら見付けた。なんか動揺してたみてぇだったから、とりあえず落ち着いたところで話でもしようと無理矢理引きずってきたんだが、逃げられた」
アルドの心を見透かしたようにエドが言う。
彼はエルザから何も聞いていない様子だ。本当に見つけてそのまま引っ張ってきたのだろう。
「動揺? あの人が?」
アルドも先程のことはエドにも言えない。だが、引っ掛かることはあった。アルドにはあの冷徹な彼女が動揺しているようには見えなかった。一体、何に動揺するというのだろう。
「殺し屋だって人間だ。人の心を持たない本当の獣もいるが、彼女は違う。傷付くし、怒りもする」
そう言うエドの表情はどこか寂しげに見えたが、その理由はアルドにはわからなかった。
「アルドこそ何かあったんじゃないのか?」
「な、何もないですよ」
「そうか?」
エドの瞳がまた見透かすような輝きを持ち、アルドは咄嗟に目線を逸らしてしまった。
打ち明ければ楽になるのかもしれないが、きっと彼には自分の気持ちはわからないような気がしていた。
「エドさんは、どうしてあの人にあんなに自然に接することができるんですか?」
アルドにはエドがわからない。なぜ、エルザをまるで自分達と同じように扱えるのか。彼女は同じではないというのに。
「それは彼女が人殺しだから、か?」
鋭いエドの視線が突き刺さり、アルドは逃げ出したくなった。けれど、自分は間違っていないという思いがアルドを頷かせる。
中央は不可侵だと言われながらも本当は殺し屋達が好き勝手に出入りしていることをアルドは知ってしまった。本当に安全なところなどない。しかし、それを自覚したアルドはやはり彼女達が排除されるべき存在なのだと強く感じていた。
「別に無差別の殺人鬼ってわけじゃないんだ。普通の女の子として扱ってやってもいいと思うけどな」
エドがエルザに対して恐れがないのは殺し屋として見ていないからなのかもしれない。アルドにはひどく難しいことだった。
殺し屋と殺人鬼の境界、それは一体どんなものなのだろうか。どちらも人殺しであり、悪だ。
なのに、なぜ、エドがエルザやレグルスそのものを正義のように扱うのかアルドには全く理解できなかった。
きっと、一生理解できないのだろう。そして、理解したくないとアルドは思っていた。彼のようにはなれそうもない。