漆黒の狩人 002
アルドが去り、エルザは男を睨む。わざとらしく、クツクツと笑うのが気に食わなかったのだ。
「嘘吐き、か。お前には嘘以外ないというのにな」
面白いものを見たとでも言いたげに男は笑う。
「アナタは不快だわ」
見物料をふんだくってやりたいものだ。エルザは眉間に皺を寄せ、吐き捨てる。
本来の呼び出し主を殺害し、代わりにやってきたこの男が何をしたいのか、まるでわからない。
「ひどいことを言うな」
「心にもないことを」
この男からは戦意というものが感じられない。アルドにも興味をもたず、決して手を出そうという素振りは見せなかった。
彼がいなくなった今も、ただ不気味にそこにいるだけだ。戦いを挑んでくる様子もなければ、自ら話し出そうとする様子もない。
「デュオ・ルピは紳士だった」
苛立ちがエルザの口から当て付けめいた言葉を吐かせた。
エルザは以前にもヘルクレスの殺し屋と会ったことがある。ウェーズリーと出会うよりも以前のことだ。一度だけではあったが、デュオ・ルピと名乗った男はこの男とはタイプが違った。彼はもっと純粋な殺意の塊であった。
「お前は可愛げのない女だが、俺には媚びておいた方がいい」
ぴくりと眉を動かし、不機嫌に男は言う。エルザはまた男の真意が読めなくなった。
「何よ、それ」
「俺の前で他の男の名を出すな。特にあの男の名は虫酸が走る」
わかったこともある。少なくともこの男はデュオ・ルピを知っている。顔見知りか、一方的にか。どちらにしても彼はデュオ・ルピに嫌悪している。その感情は本物だとエルザは察した。
「確かに仲が悪そうだわ」
「求めるものが同じでないというだけだ」
男の言うことはエルザにもわかる。
同じ組織にあるからと言って同じ思想を持っているとは限らない。レグルスの内部でも、それははっきりと表れていた。レグルスとて一枚岩であるとは言い難い。
「あの男に惑わされるな。あの男はお前が思うような男ではない。あれは本物の悪魔だ」
その忠告をエルザは有り難いとは思わなかった。
自分を殺す男のことは自分で見極める。だから、他人がどう言おうと関係ない。
エルザはデュオ・ルピのことを信じる。あの男が自分に向けてきた純粋な殺意を。
「まだるいのは嫌いよ」
これ以上は付き合い切れそうにない。痺れを切らしてエルザが吐き捨てれば男は面白そうに目を細める。
「俺は焦らすのが好きだ」
「最低」
この男は獲物を追い詰めるのを楽しむタイプなのだろう。狩人、そういう種の人間なのだとエルザは判断する。
復讐の鬼というにはあまりに冷静な、厳格な断罪者のようであったデュオ・ルピとは益々違う種であることを思わせる。
「お前は俺の獲物だ、美しい獣」
ゆっくりと男はエルザとの距離を詰めてくる。エルザは動かず、見据える。
ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離、殺めるには十分すぎた。
胸に輝くペンダントには血が付着し、始末した人間から奪ってきたものだろう。それが証明であるかのように。
ヘルクレスの人間だと思い込ませるためにしているという可能性もあるが、デュオ・ルピもそんなものは付けていなかった。
エルザは自分の中の仮説が少しずつ証明されていくのを感じる。デュオ・ルピと出会った時から思っていたことであり、確証がないためにエド達には言えなかったことだ。
「アナタはアタシの獲物なの?」
エルザは男を僅かに見上げて問うが、問い方を変えたところで、男が答えるとも思っていなかった。問わなければ話が進まないというだけのことだ。
「俺なら、死なない」
「何を、言っているの?」
殺される気はないということなのか、男の思考を読むことができずにエルザは苛立っていた。透けて見えるわけではないのだから推測にすぎないが、その男から感じ取れる物の正体がエルザにはわからなかった。得体が知れないのだ。
「俺なら、ずっと、お前の側にいる。寂しいのだろう?」
「何を……!」
革手袋に包まれた黒い指が頬に触れ、エルザは動揺した。
噛み合わない会話、遠回しな侮辱なのか。
この男は危険なのかもしれない。明確な殺意こそ見せてこないが、自分にとって危険な人物だ。
エルザは咄嗟に後退しようとしたが、もう手遅れだった。動揺が命取りだった。
離れるよりも先に腰を抱き寄せられ、男に密着する形になってしまう。逃れようとするが、その腕は細くも、ひどく力強い。
エルザはそこで初めてこの男に対して恐怖を感じた気がした。生理的な嫌悪であったのかもしれない。
「お前は、愛しい、俺の、獣だ」
耳元で囁かれる言葉は吐き気を催すほど甘く感じられた。
愛しい、それはどういう意味だろうか。なぜ、そんなことを言われるのか、エルザにはまるで理解できない。
「アナタのモノじゃない!」
混乱しながらもエルザは否定するが、その腕から抜け出すことはまだできなかった。
「誰のモノにもならない、か?」
男が口にするのはエルザの掟だ。生きるために自分に科した掟、それは何があっても守らなければならなかった。
「知ってるなら……!」
聞きたくない。これ以上この男の言葉を聞けばおかしくなる。
そんな焦燥と同時にエルザはひどく嫌悪していた。それを遮断する術のない自分自身を許せなかった。
「知っていて、俺にそれを守ってやる理由があるか?」
男は笑うが、実際その通りだった。結局、エルザ自身のルールでしかない。それでも絶対に貫くと決めたことだ。彼が何を期待しようとエルザは応えない。
「手に入れられないものほど、人は欲しがる。わかるだろう?」
指が滑り、頤を持ち上げ、唇が触れそうになるほど、その顔が近付く。
「ジュガ、それが俺の名だ」
吐き出されるのは不思議な響きを持った名前だ。出身を詮索したところでこの街では意味がない。だが、彼はエルザにとって誰よりも得体が知れない存在だった。
そして、エルザは捕らわれたまま見る冷めた瞳の中に確かな情欲を見た気がした。
「いずれ、また」
挨拶のように軽く唇が触れ、ジュガは離れていく。
罵声の一つでも浴びせてやりたいのに指の一本さえ動かせずない。エルザはただ遠ざかっていく背を睨み続けた。
ジュガの姿が見えなくなり、エルザは咄嗟に近くの壁に体を預けた。そのまま張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、ずるずると座り込む。そうして、自分がまだ動揺しているのだとエルザは思い知る。
触れたか触れないかわからないような、表皮の接触にすぎないような口付けを許したことが問題なのではない。退く判断を誤ったこと、あるいは、そこから先の全てだ。彼の接近を許すべきではなかった。話に耳を貸すべきではなかった。
情けない、自分を叱咤しても動くことができなかった。
「本当に馬鹿な女だわ……」
呟いたところで、誰かが責めてくれるわけでもない。だから、苦しみ続けるのだ。
アルドの非難もエルザにはまだ軽い。もっと絶望が欲しい、誰か奈落に突き落として欲しい、そう思い続けていた。
あるいは、ここから連れ出してほしいと思っていた。抵抗を許さない絶対的な力で。
「アタシを嘲笑ってよ、リッキー」
死者の名を口にしても裁きは下らない。何もかも許されていることが最大の戒めなのだとエルザは思うことにしていた。罰はまだ足りない。けれども、罪は積み重ねられ続ける。
ぽつり、降り出した雨がエルザの手を濡らす。見上げれば、またぽつりと頬を濡らす。どこか返り血に似ている。そしてどれほど自分が血に塗れたかを思い知るのだ。
彼はもう家に着いただろうか。エルザは雨に濡れるのも構わずに、その場から動かずにいた。
雨の日はあまり好きではない。どれほど雨が降ろうとも決して流れないものがある。決してかき消えない音がある。わかっていても思い知らされるのは心地良いことではない。
どうか消してくれ、と何度祈っただろうか。それでも、まだ消えるわけにはいかなかった。
あの男もそうだったのだろうか。不意にエルザは考える。
雨の日に拾った男、彼はギターを抱えて死のうとしていた。絶対的に信頼し、行動を共にすることが多かった彼とももう随分と会っていない気がした。
デュオ・ルピと出会ってからエルザはレグルスの仲間に頼ることをやめた。いつも誰かが側にいたのに、それを拒んだ。これ以上、自分の戦いに他人を巻き込んではいけないと気付いてしまった。
それほどまでに彼との出会いは鮮烈だった。
エルザが単独で情報収集をしていたある日のこと、やはり人目につかない路地で起きたことだった。
***
無法者は予告もなしにやってきた。エルザに恨みを持つ人間は多いが、金や名声のためにその命を狙う者もいる。賞金稼ぎを生業とする者だ。
そんな輩を一々相手にするのは面倒臭いが、宿命なのだとエルザはわかっていた。
いつも通り適当に相手をして追い返してやろうとエルザは構えたが、すぐにただならぬ気配を感じて後退し、銃を抜いた。
エルザがスライドを引く音と同時に男が力をなくして地面に落ちる。その首はおかしな方向を向いていた。一瞬の内に骨を折られたのだろう。
黒いロングパーカー、フードの下から零れる血のような赤毛、口元を覆い隠すカラスマスク、不良のような風体だが、そうでないことはすぐにわかる。
長身というだけで存在感があるが、放たれる殺気は常人のものではない。服の上からでもわかるほど引き締まった体躯は単にスタイルが良いというわけではなく、相当な訓練を積んだことを感じさせる。
「お前は俺の敵だ」
「だから、先に殺られたくなかったの?」
「目障りだっただけだ」
短く放たれる言葉、それはあまりにも明確だった。味方だから助けたわけではない。敵だからこそ他人には渡さない。道を塞ぐものがあれば殺してでも通るだけのことなのだろう。
近付くほどにその威圧感は飲み込もうとするかのように牙を剥く。
伸びてきた腕が首元を掴んで反応しきれないままエルザは壁に押し付けられていた。
「俺はお前を殺すために汚れた道を選んだ」
男の言葉は冷たく、重く、エルザに突き刺さる。そして、魂が震える。それは恐怖ではなかった。
命を奪おうとするほどの力もない。抵抗する余地もある。けれど、エルザは動けなかった。
「お前と同じ獣に堕ちると知りながら、お前を殺すにはそうするしかなかった。偽りの英雄にだって頭を垂れる」
「僥倖、だわ」
その生き方を軽蔑しながらもそうならなければならない理由が彼にはあったのだ。本物の憎悪、それを彼に与えたのは間違いなく自分である。
エルザはショックを受けるよりも喜びを覚えていた。ずっと待っていた人間がやってきたような、そんな邂逅だった。
「デュオ・ルピ、それがお前を殺す男の名だ」
鋭くも美しい彼のマリンブルーの瞳がその胸を貫く刃のような輝きを持つ。
エルザはその素顔が見たいと思った。マスクを剥ぎ取って自分の魂を震わせるその男の全てを見たかった。
だが、彼が本性を曝す時は相手を殺す時だけなのだろうと察する。それは今ではない。ほんの挨拶に過ぎないのだろう。
彼の手から解放され、エルザは壁に背を預けたまま咳き込む。
尚も突き刺さる視線を感じながら彼を見上げる。
「待ってるわ、デュオ・ルピ。アナタが絶望と共にアタシを殺しに来るのを」
エルザは微笑む。できる限り極上の笑みを作り、彼の存在を歓迎してみせたつもりだった。彼こそ本物の自分の死神であると確信して。
***
あれからデュオ・ルピとは一度も会っていない。一度きりの逢瀬の方がロマンティックではある。二度目は自分が死ぬ時、何度も会って彼を知る必要はない。
エルザはそう考えていた。
しかし、そんなことを言っていられる状況でもなくなってしまった。
ウェーズリーの死は彼にとって予定外のものであったのか。ずっと考え続けてきたことではあるが、答えは一向に出なかった。エルザには彼が他人を巻き込むような男には見えなかった。思いたくなかっただけのかもしれない。
希望的観測に過ぎなくとも信じたかったのかもしれない。エルザにとってデュオ・ルピという男は希望であったのだから。
「デュオ・ルピ……」
その名を口にしたところで彼が来るわけでもない。だが、もう一度、もう一度彼に会えば、何かがわかるかも知れないとエルザは心の隅で願っていた。




