ドブネズミ達の午後 002
他人からエルザのことを聞く度にアルドは不思議な気分になっていく。
自分は彼女の何パーセントぐらいを知っているのだろうか。まだ何も知らないのではないかと不安になるのだ。
そこにいるはずなのに実体がない幻のようだ。ここにいない間にどれだけのことをしているというのか。
だからこそ、レグルスの存在はあまりに強大に感じられて理解できそうになかった。
「星海さんが、北をエルザが守っていたって言いました。でも、組織同士の、その侵略とか……」
北の領土は今やエルザが自由にできるが、昨日からのことだ。つまり、その前は勝手に他組織の領土に入っていたことになる。いくら彼女が家出中であっても、彼らにとって彼女はレグルスのエリザベス・レオーネでしかないはずである。
「不可侵の掟、か。あんなの暗黙の了解みたいになっているが、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。昨日みたいに〈ロイヤル・スター〉が集まって決めたわけじゃない。昔は、そんなものなかったし、俺みたいに自分の領地も守れない方が悪い」
笑い飛ばすトールは〈ロイヤル・スター〉の中でもかなり力を持っている方なのだろう。
単なる自信家や怖い者知らずではなく、裏付けるものがあるに違いない。
その誠実さにアルドは安心感を覚えていた。
「この街の組織の収入源は案外健全な商売だ。賭博、売春、麻薬の類は禁じられている。レナードはワイナリー持ってるし、アパレルとかにも手を出してるし、表向きは完璧に美形青年実業家だ。いずれ裏社会の帝王になる男って感じはまるでない」
「南に行けばレグルスの人間や関係者がやっているホテルとかレストランとかもゴロゴロある」
「あ、危なくないんですか?」
エルザやエドが語らなかった組織の現状は本当に健全なようである。それでも関係者ということはやはり組織の人間や関係者となれば殺し屋が絡む。それは本当に健全な店なのか、アルドとしては甚だ疑問である。
「健全な商売だって言ったろ? 自分の聖域を汚すようなことは絶対にしない。なんなら一回行ってみるといい。裏道に入らなきゃ見なくていいものを見ることもない。サービスの良さは街で一番かもしれない」
危険はないとトールは言うが、行く勇気がアルドにあるはずもない。
「トールさんは行ったことがあるんですか?」
東の支配者も南に行くものなのか。アルドにとって素朴な疑問だったが、トールにとっては変な質問だったのかもしれない。
「昔の話だけどな。別に領土の外に出ちゃいけないってこともないし、そもそも、領土ってのも妙な言い方だ。内部では侵略って概念が本来ありえないことだ。商売敵ってのはあるかもしれないが」
一般人の間で語られてきた組織と実際の組織は激しく食い違うものがある。だが、まだ彼らの感覚を理解しきることはアルドにはできない。
「この辺には自警団的なチームがいくつかあるが、組織も最初はそうやってできたんだ」
「え?」
「法が守ってくれないから自分達の法を作った。弱者を守り、そして、警察が捕まえられないような凶悪な奴らを自分達で裁いてきた」
自警団、つい午前中に聞いたばかりのことだ。街が好きなのだと感心したほどである。それらこそが組織のルーツだとしても、やはり犯罪者なのだという思いはアルドの中で決して消えはしない。
弱者でいる限りは守られるとして、どこまで心を許していいのかわからなくなる。それでも、壁を作るには遅すぎた。
「あんまり喋ると怒られそうだけどな、彼女は昔のレグルスを体現しているような気がする。一番、この掃き溜めの街を愛している」
トールは肩を竦め、ちらりと周りを見る。今日はもうエルザが現れる心配はないだろうが、やはり噂話をすると気になるものなのか。アダムもそうだった。
エルザが秘密主義だということはアルドも知っている。だから、エドやアダムから組織や彼女自身のことを聞いたのだ。
街を愛しているのも本当だろう。そうでなければ年中無休で働きはしないだろう。
アルドには気になっていたことがあった。彼ならば、その答えをくれるだろうか。
「エルザは今日、西に行くって言ってました」
言ってしまってから、アルドははっとした。こうも容易くエルザの情報を漏らしていいものか。否、トールは味方なのだから問題ないだろうと思うことにした。
すると、トール眉間に皺を寄せ、真剣な眼差しでアルドを見る。
「何しに行くかは聞いたか?」
「いいえ……でも、西に踏み込んだら……」
ただじゃおかないとカーマインは言った。
エルザは卑怯な真似はしないはずだが、どんな事情があるかなどアルドにはわからない。何もかもわからせてもらえなかった。
「北の話はどこまで聞いた?」
「守っていたって、それだけです。不届き者を掃除しに行ってるってことぐらいしか知らないんです。エルザ本人が話してくれることって凄く少なくて……」
思い返したところで、言葉少なな星海の一言しか記憶にない。
トールは視線を落とし、コーヒーカップを口に運び、何か考えている様子だ。
「――この場合、俺は黙っておくべきなのかもしれないな」
「俺自身、最近は知りたいのか、知りたくないのかわからないんです……でも、やっぱり知りたいと思ってしまうんです」
知りたい、けれど、知れば後戻りできなくなる。
自分もウェーズリーのようになってしまうかもしれない。そんな恐怖がないとは言えない。
それでも、アルドは自分がこの物語の部外者だとは思いたくなかった。自分は当事者なのだから何も知らないのは不自然だと思うのだ。
そして、トールが視線をアルドに戻す。
「口止めされたわけじゃないし、自分の命を預ける相手のことをよく知らないってのはフェアじゃないと俺は思う。だから、おそらく彼女は武勇伝にしたくないんだと俺は解釈することにする」
「それじゃあ……」
トールは公平であることを重んじるようだ。それはエルザとは違う。
エルザは味方を全力で守る。行き過ぎることがあるほどに。それは公平であるとは言えない。
秘密主義で、何をしているのかを全て話してはくれない。身内に甘いというのは本当なのかもしれないが、その優しさはあまりに残酷だ。
「簡単な話でよければ話す。ただ、俺の情報が正しいとも限らない。それでもいいか?」
「ええ、何もわからないよりは、きっと、もやもやが晴れる気がするんです」
自分の胸の内にあるその靄が何かアルドにはわからないが、少しでも聞けば晴れると信じていた。
「北はこの前まで人身売買がどうとかで騒いでいたが、急に壊滅したって話になっている。だが、フィリップが動いたとは思えない」
トールはそこまで言ってから、迷うように視線を落とした。
「……いや、正直に言おう。フィリップが動けるはずがないんだ。北は平和主義に溺れて力を手放した。あの代行の兄さんは相当やるだろうが、かなりフィリップに毒されている。まるで闘争心が見えない」
北が動かない以上、動ける人間は限られてくる。警察は野放しにし続けてきたし、他に動く組織もない。
「そう言えば、エルザ、最近、凄く疲れてるみたいで、面倒なことに関わってるって言ってました。いくつかは片付けたって……」
「西はドラッグの売人が入って来ているって噂だ。カーマインはあんなんだしな。いくらリブラっていう爪があっても万能じゃない。動いてないわけじゃないだろうが、下手に刺せない状況だろう」
「ど、ドラッグ……」
「西は一番若者の街って感じだからな、堕落しやすい」
「そんなに違うんですか? 中央の方が都会って感じしますけど……」
アルドは大海を知らない蛙も同然だった。自分の信じてきたものが悉く崩れ去っても、まだ真実は残っていると思いたかった。
「やっぱり緩みってのは見えなくても出るところには顕著に出る。若い奴はそういうのに敏感なんだろうな。組織の拘束力が弱い分危険が多い西を自由の地だと思っている。そういう奴が餌にされるのに」
そう語るトールは、アルドにはどこか悔しそうに見えた。実際、そうなのだろう。
いくら街を愛し、守りたいと思っても彼は東のボスとしてエルザのように自由には動けない。
「うちも他人のことどうこう言えるほど状況が良くないんだけどな」
「東にもエルザが?」
東の状況を少しでも知っていたら気の利いたことが言えたかもしれないが、アルドにわかることはない。
「いや、東は北の奴もびっくりなぐらい静かだ。ドラッグも人身売買も、その他やばい商売も入り込んで来てない。あくまで俺の目が届く範囲の話だが……でも、それは平和ってことじゃない」
「え?」
エルザが現れる理由がないということは平和なのだとアルドは安易に考えてしまう。
けれど、トールは見透かしたかのようだ。
「うちはアンタレスのリブラ、ガニュメデスのアクイラほど外部の組織の繋がりが強くない。そっちを崩されるとやばいから彼女の力が必要なんだ。レグルスは外にも強い権力があるからな」
彼らはこの街の中だけで生きているわけではない。ヘルクレスがそうであるように外の世界を見ている。街の外、国内、国外にも彼らのような組織はいくらでもあるのだから。
「今のレグルスは他の組織の監査をしたり調停をしたりする。特に彼女はそうやって外と強い繋がりを築いてきた。外にはレグルスと同盟組んでいる組織がゴロゴロある」
「そうだったんですか……」
カーマインはレグルスを非難したが、トールは高く評価している。単に武力を振りかざすのではなく様々な交渉によって良好な関係は作り上げられているらしい。
アルドにもエルザが重要な役割を担っていたらしいということはわかった。
「だから、彼女と組めば恐れるものは何もない。裏切らなければ裏切られることもない」
ヘルクレスさえ倒せると言っているのだとアルドは思うことにした。希望的観測に過ぎないのかもしれないが、それでもエルザを信じていたかった。
ウェーズリーがそうしていたように、目の前の男がそうであるように。
「トールさんはエルザを信じてるんですね」
「レグルスを信じるのは当然のことだ。その信念が彼女にある限りは信じる」
顔を合わせたのが初めてだとしても、〈ロイヤル・スター〉であるからこそ彼らの間には絆が存在するらしい。不思議なことだが、それが彼らの世界であって、矜持を重んじるというのは嘘ではないのだろう。
「まあ、今日はここまでにするか」
最後の一口を飲み干して、トールはカップを置く。そんな仕草にさえアルドは見取れてしまう。
「――また来る」
「ありがとうございました!」
会計を済ませ、何から何までスマートだったその男の背をアルドは満面の笑みで見送った。




