掃き溜めの街 004
闖入者は前触れもなくやってきた。
乱暴にドアを開けて店内に入り込み、銃身を切り詰めたショットガンを掲げる。
アルドが休業を知らない客かと構える間もなかった。
「ペンダントを返せ!」
薄汚いコートを纏った男は大声を上げる。
「ヘルクレスの奴かよ……!」
「てめぇらが持ってるんだろ!? 渡せぇっ!!」
アルドはペンダントを握り締めていた。自分を庇うように小さく動いたエドの様子からもそうするべきだと思ったのだ。
向けられる銃口への恐怖よりもウェーズリーが遺した物を守らなければならないという使命感の方が少しだけ強かった。
「渡さねぇとこいつの頭が吹っ飛ぶぞ!」
男は入り口の近くにいたベティーの腕を掴み、盾にするように前に立たせるとその頭に銃口を突き付ける。
彼女の不幸は入り口近くのいつもの席に座っていたことだ。その方が落ち着くらしかったが、今日ばかりはそうするべきではなかった。
しかしながら、中央の店に暴漢が入り込み、人質に取られるなどと誰が予測できただろうか。
けれど、アルドは同時にひどい違和感を覚えていた。
彼女は一切表情を変えなかった。恐怖で固まっているわけではないようだ。決して揺るがない仮面がその顔に貼り付いていた。
男にとっての不幸は彼女を人質にしてしまったことだった。そもそも、この場所にやってきたことが大きな間違いであった。
「離して」
鋭い声が男の耳を掠める。恐慌の色の見えない、ひどく落ち着いた声は確かに彼が拘束している少女のものであった。
「あ?」
「この薄汚い手を離せって言ってるのよ、英雄様の家畜野郎。いいえ、それ以下の糞かしら」
今度はもっとはっきりと響いた。とても清楚な少女のものとは思えない言葉だ。恐れもなく凛としている。
「てめぇ、殺されてぇのか! あぁっ!?」
男は最も人質にしてはいけない人間を捕まえてしまったことに気付いていなかった。まだ自分が主導権を握っていると思っていた。
だが、そうではない。始めから彼に主導権などなかった。
「哀れだわ」
「なんだと?」
「殺されたがってるのが自分だってことに気付かないなんて」
「てめぇっ!」
少女がクスリと笑い、男が頭に血を上らせた瞬間、勝敗は決していた。
アルド達もマジックを見ているのではないかという気になるほど一瞬のことだった。
「アタシの前ではアナタもビッグなベイビーに過ぎないわ。その首をへし折るのも容易い。さあ、どうする?」
少女は挑発的に笑む。
今、彼女は男の腕の中にはいない。向かい合い、男の手の中にあったはずのショットガンを手にしている。
主導権は間違いなく彼女にあった。しかし、男の理解もまだ追いついていなかった。
「ねぇ、本当に殺されたいの? ベイビー」
確かな殺気に男はじりと後退する。大の男を怯えさせるほどの迫力が今の彼女にはある。
見ていることしかできないアルドでさえ彼女に恐怖を覚えていた。これは本当にベティーなのか。組織のことはわからないと言った少女なのか。
「手は頭の後ろ、背を向けてドアまで歩きなさい」
男は素直に言うことを聞く。そうするしかない。
漸く理解したのだ。彼女が自分と同じ世界の人間であるのだと。
幼い少女の皮を被った化け物がここにいるのだと。
「殺さないであげる。ここで殺生はしたくないから」
「んだと?」
生かすも殺すも自分次第であると思い知らせるような少女の言葉に男は眉を顰めた。
そして、確信した。彼女は単なるプロ気取りであると。背を向けているのをいいことに男はニヤリと笑い、好機を待つことにした。
「開けて」
男は扉を開け、一歩前に踏み出す。
その瞬間、彼女の警戒が緩み、男はコートのポケットから武器を抜こうとした。だが、突き付けることは叶わなかった。
「ダメよ、ベイビー。汚いブツはしまっておかないと」
グリッと彼女は男の頭に銃口を押し付ける。男の手からナイフが滑り落ちる。
それから彼女は右足で男を思いっきり蹴り出した。
「帰ってボスに伝えなさい――獅子の眠りを妨げるな、ってね」
それが最後だった。男は全てを理解した。彼女こそ本物、深淵の住人、最も関わってはいけない人種なのだと。
男が逃げ去り、静寂が訪れた。少女はナイフを拾い上げ、アルド達の方へと向き直る。
清楚な少女とはまるで違う気迫を持った彼女はゆっくりとカウンターへと歩く。
彼女が何も言わずに出て行ったならば彼らも全てが悪い夢だったと思えたかもしれない。
何も見聞きしなかったことにしただろう。誰に何を聞かれても言い張る。それこそ、本来正しい一般人のあり方だ。
けれど、そうするにはもう手遅れだった。
「マスター、カプチーノお願い」
カウンターに座って彼女は言う。
この場に不似合いなほど明るくはっきりした声はベティーの声とも先程の声とも違った。
手にしたソードオフ・ショットガンをカウンターに置いてニコニコと笑っている。
「うちは現金払いだ」
「護身用にいかが? 今ならタダだよ。弾がほしけりゃ、サービスしちゃう。定期宅配サービスもあるよ」
フレディは渋い顔をしたが、彼女は楽しそうにしている。
「ここを戦場にする気はないんだろ?」
「どうかな? 他所者に法はないから」
彼女は矛盾していた。先程の彼女とさえ別人に思える彼女は最早ベティーではない。
そのさばさばした性格の女性を彼らは確実に知っていた。
「ヴィ、ヴィオレッタ、さん……?」
ぽつりとアルドがその名を口にすれば彼女は首を傾げる。
「リリー、と名乗らなかったっけ?」
ヴィオレッタとは彼らが勝手に付けた呼び名だ。彼女を連れてきたウェーズリーから名前さえ聞かされていなかった。
「どうして……」
「そりゃあ同一人物じゃあ会うこともねぇよなぁ」
呆然とするアルドに対してジムは納得した様子でカウンターの側まで来ていた。
確かにベティーがリリーに会ったことがないと言うのも当然だ。会えるはずがない。
「だが、正体はどっちでもない。そうだよな? ベイビー」
側に立ったエドの問いに彼女はニッコリと笑んで頷く。
彼女に第三の顔があることはその場の全員が理解していたが、誰もがエドのように本物を言い当てる勇気を持ち合わせていなかった。
「アタシはエリザベス。でも、そう呼ばれるのは嫌い。みんなにはエルザって呼ばせてるし、そうとしか名乗らないこともある」
「エルザさん……?」
ベティーでもリリーでもなくエリザベス、通称エルザ、それが彼女の本来の名であるのだろう。そうとわかってもアルドはその意味をわかっていなかった。
「〈黒死蝶〉って言った方がいい?」
ベティーの姿のままリリーでもない声で放たれる名は衝撃を生む。
それが本当なら、彼女は先程噂していた最も危険な存在だということになる。
「ベティーにリリー、エルザ……そういうことか」
真っ先に気付いたのは、またしてもエドだった。
「ど、どういうことですか?」
「全部、エリザベスの愛称だ」
アルドは必死に理解しようとした。
誰かに化けているわけでもなく、彼女は確かにずっと前からここにいたということになるだろうか。
「正解。でも、アタシはただのエルザ。そういうことにしておいてくれる?」
偽名の溢れた街では本名など意味はない。彼女がエルザだと言えば彼女はエルザ、そういうことになってしまう。
彼女がエリザベスと呼ばれることを厭うのなら、わざわざ刺激するべきではない。殺し屋の機嫌を損ねるような馬鹿な真似ができるはずもない。
「まさか、目の前にいたとはなぁ……」
ジムは不思議そうにエルザを見ている。
姿はベティーでありながら、まるで別人が変装しているかのように放たれるオーラが違う。どこかに本物のベティーがいるのではないかと思うほどに完璧に演じられていた。
アルドの記憶ではリリーはもっと背が高かったはずだが、彼女は転ばないか心配になるほどのハイヒールを履いていた。今はローヒールのシューズである。
「中央にお忍びとはいい度胸じゃねぇか。いや、中央の犯罪が少ねぇっていうのは……こういうことか」
彼女は確かに彼らを守った。
その事実は身内意識の強いジムを認めさせるには十分であった。先程までの自分の発言も忘れたようにすっかり納得してしまっている。
残念なことにアルドはそうはなれなかった。ジムを単純だと責めるつもりもない。
だが、ウェーズリーの恋人が殺し屋だったということがアルドを苛んだ。小さな疑念は集まり、抑え切れないうねりとなる。
エドにとっては都合が良いのかもしれない。彼は初めから彼女を必要として、肯定的だったと言える。
けれども、ジムやフレディまでもが彼女の存在を容認していることがアルドには信じられなかった。
「どうして! どうして、人殺しがウェズと……!」
アルドはカウンターに置かれたままの銃を取り、一仕事の後の一杯とばかりに優雅にカプチーノを飲むエルザの眉間に銃口を向ける。
どう見てもただの少女にしか見えないが、彼女は平気で人を騙し、殺す。そういう冷酷な人間なのだ。
「やめろ! アルド」
エドはアルドを止めようとするが、エルザは首を横に振って制する。
「どんな謗りを受けても構わない。アタシが彼を死なせた。それは事実」
エルザは落ち着いた様子でカップを置く。
「でも、ダメよ、ベイビー。その引き金を引いたらアナタはアタシと同じドブネズミになる」
エルザのブラウンの瞳が真っ直ぐとアルドを射貫いてくる。
深いブラウン、その奥にあるものにアルドは飲まれそうになる。そして、その手から銃を取り上げたのはエドだった。




