愛と悲しみの街 007
朝、エルザは物音で目覚めた。部屋に入ってくる気配に気付く。
目を開ければカーマインがいた。
「チッ、目覚めのチューをしてやろうと思ったのに」
舌打ちした彼の顔面にエルザは反射的にパンチを入れていた。
「何? 新手の嫌がらせ?」
身体を起こしてエルザは問う。
とんでもない朝の挨拶だ。つい殴ってしまったが、彼が悪い。
「一晩寝て考えた」
鼻を押さえながらも真摯な態度でカーマインは切り出す。
「冷静になってくれたわけ?」
一晩寝て考えがまた変わったのではないか。エルザは期待を抱いて彼を見た。
「やっぱり、これも運命だ! 今すぐ結婚してくれとは言わねぇが、絶対、惚れさせるからな!」
カーマインは空いている方の拳を握り締めて宣言する。
本当に朝から迷惑な男だ。一晩でまた修正不可能になったようだ。どうして、こうもおかしな軌道で暴走するのか。
フィリップも面倒だが、この男もどうにもならない。昨夜の頭痛がぶり返してくるようだ。
「誰のモノにもならない。それがアタシの掟、絶対に覆ることはない」
愛や恋などエルザには必要ない。しかし、カーマインはいきなり肩を掴んでくる。
「その言葉、忘れさせてやるよ」
近付いてくる顔、その暑苦しさの中でエルザの中でスイッチが入る音がした。
「朝から盛ってんじゃないわよ!」
カーマインの肩を掴んだエルザは今度は思いっきり腹を蹴り飛ばしてやった。
相手が相手ならば多少の荒事は致し方ない。躊躇も後悔もない。
その時、バンと扉が勢いよく開け放たれる。
「グッモーニンっス!」
元気良く入ってくるのはレサトと呼ばれていた少年だ。
パーマのかかった茶髪にバンダナはトレードマークらしい。
「レサト! てめぇ、空気読めよ! 入ってくんじゃねぇ!」
腹を摩りながらカーマインは怒鳴るが、レサトは無視してエルザへと歩み寄ってくる。
「自分、カーマイン兄貴の子分のレサトっス」
「エリザベス・レオーネ、エルザって呼んで」
「エリザベス? あ、ああ、そうでしたっスね」
レサトは一瞬怪訝な顔をしたが、カーマインは気付かなかったようだ。レサトが訝しんだことがエルザの思う通りならば部下はかなり優秀であるのかもしれない。
「シャワーはどうっスか? お着替え一式用意してもらったっスよ」
「本当?」
レサトは腕に抱えた紙袋を差し出してくる。服に下着、ソックス、トラベルセットと妙に用意のいいことだ。
この組織には若い女性でもいるのか。エルザが問おうとしたところでカーマインが顔を顰めた。
「そんなもん誰が用意できんだよ? 俺らしかいねぇのに」
服の趣味は良さそうで、タグを見れば下着のサイズもぴったりである。誰が手配できるというのか。
しかし、首を傾げたのはレサトの方だった。
「あれ? 会ってないっスか? 例のあの人、来てるっスけど」
「また、あいつ、勝手に!」
そうしてカーマインは弾丸のように部屋を飛び出して行った。
「あ、バスルームはその扉なんで」
レサトが示す扉をエルザも見る。
「あー。シャワー浴びたら食堂に来てくださいっス」
レサトが差し出してくるのは見取り図だった。きちんと印刷されたもので、丁寧に現在地がマークされている。カーマインの部屋であることは知りたくなかった。昨日は見る余裕もなかったが、意外に片付いた部屋である。
「では、念のために鍵はかけておいてくださいっス」
そうしてビシッと敬礼をしてレサトは出て行った。
カーマインは彼が支えていると言ってもいいのかもしれない。
*
シャワーを浴び、すっきりしたエルザは朝食にコーヒーだけをもらって落ち着いた。
エルザの分の食事は朝から食欲旺盛なカーマインが食べていた。
向かいにはカーマインに睨まれながらも微笑を湛える青年の姿がある。
アッシュブラウンに染めた髪はふんわりと自然にセットされ、大きめのブラウンの瞳が小動物のような印象だ。今時どこにでもいるような若者だが、身なりはきちんとし、礼儀正しい様子だ。
「お会いできて光栄です。エリザベス・レオーネさん」
彼もまたコーヒーを飲みながら丁寧に挨拶をする。
「エルザでいい」
彼は初めましてとは言わなかった。もう既に彼とは何度も会っている。
「服、お似合いですけど、サイズはどうですか?」
人当たりの良い笑みを見せ、青年は問いかけてくる。
「サイズ、なんでわかったの?」
数回合った程度、見ただけでサイズを当てるとはただ者でない。
けれど、彼はなんでもないように笑う。
「勘ってことにしておいてください。知人に無理を言って用意してもらって良かったです。流石に非常識な時間だって怒られちゃいましたけどね」
カーマインとは大違いだ。しかし、この気の利く青年は何者なのか。
「アナタは?」
「申し遅れました。アンタレス付属リブラ代表イシュタルと申します」
大方見当がついていた通りではある。アンタレスを支える存在である彼もまた若かった。
「アナタがあの義理堅いっていう?」
トール・ブラックバーンは確かにそう言った。彼らがいる限り西は心配ないだろう、と。
「僕らは爪、アンタレスの一部であると考えていますから。たとえ、本体がハリボテであろうと、楯突くものは容赦なく刺します」
その眼差しに鋭利な輝きが宿る。忠誠か、プライドか。彼は穏やかさと厳しさを持ち合わせている。
しかし、それでエルザも納得できた。
「それで、あの店に潜入を?」
確信だった。彼は間違いなく〈ポイズン・キス〉にいた。雰囲気こそ違うが、その顔つき、その声を覚えている。
「ええ、カーマインさんがやらないなら僕らがやるしかないじゃないですか。でも、あなたが来て、助かりました。最後まで気付けませんでしたけど」
「お前、いたのかよ?」
まるで気付いていなかった様子のカーマインにエルザは彼の将来が不安になった。
エルザは変装に自信があるつもりだったが、イシュタルの場合は変装と言うほどのものではなかった。知った仲ならわかるのではないか。
「さすがに、カーマインさんが来た時は僕も焦りましたよ? カーマインさんがドラッグの取り締まりなんかできるとは思ってなかったですし。でも、遊んでいる上に、女性のお尻追っかけ回しているなんて、結構本気で背信も考えました」
イシュタルは苦笑する。
アンタレスの代わりに西方を守ってきた彼としては今回ほどカーマインを不甲斐なく思ったことはないだろう。プライドがあるからこそ、背信は冗談ではないのだとエルザは感じた。
「夜はセクシーだったのに、今は好青年なのね」
「お互い様ですよ。まあ、お望みならば、色気たっぷりに誘惑してみせますけど」
あの妖艶なバーテンダーこそイシュタルだった。だが、今の彼にそんな雰囲気はない。どこからあの色気が出てきたのか不思議になるほどだ。
「色気勝負ならもっと凄い人知ってるし」
彼が色気を出したところでエルザは惑わされない。煩わしいだけだ。
「ファルコンさんですね?」
「知ってるの?」
それほどエルザは驚かなかった。その名が出ることはさほど不思議なことではない。相手はかなりの有名人だと言える。
「ええ、今回、参考にさせていただいたので」
「だから、出来の悪いコピーみたいな気がしたのね」
初めて会った時に似ているとは感じていた。厄介ではあるが、ファルコン以上にはならないと察していた。
「イーグルさんも凄いですけどね」
イシュタルはニコッと笑う。
「会ったことは?」
問いに彼は寂しげに笑って首を横に振った。
「いつも一方的に見ているだけです。前はレッド・デビル・ライのライヴにはかかさずに行っていたんです」
レッド・デビル・ライはバンド、ファルコンとイーグルはそのメンバーだ。
彼は憧れているようだったが、エルザはその二人の本質を知っている。
「実際に会ったら幻滅するかも。ステージの上なら色気で済むけど、実際は強烈な変態よ?」
「増々会ってみたくなりました。本当にファンなんですよ? 昔は僕もバンドもやっていたので」
にこにことイシュタルは楽しそうに語った。ファンだということに偽りはないらしい。真似するほど好きだと言うことか。
「史上最悪の双子なのに?」
「エルザさんが相手だからですよ、きっと」
邪気があるわけではないようだが、エルザの口からは思わず溜め息が零れる。
「それって、アタシから変態を引き寄せるフェロモンが出ているって言いたいの?」
自分の周りには変態が多すぎる。それぞれの顔を思い浮かべればエルザは認めなければならなくなる。
エルザの視線に肩を竦めながら、イシュタルはカーマインを指さした。
「だって、ここにもいるじゃないですか」
自分が属する組織のボスを変態扱いである。
「さっきから二人で盛り上がりやがって! 俺を差し置くとは十年も百年も千年も早ぇ」
カーマインは憤慨した。だが、イシュタルは退くわけでもなく、意地の悪い笑みを浮かべる。
「あれ? カーマインさん、一昨日の夜凄く愚痴っていたらしいじゃないですか。『レグルスの小娘がむかつく!』とか『アルデバランの優男が気に食わない!』とか」
〈ロイヤル・スター〉召集の時のことだろう。去った後に、まるでチンピラだなどと言われたと知ったら、彼の怒りは再燃するだろうか。
「む、昔のことだ」
「いや、つい数時間前の話ですけど。ね、レサトさん」
「それが、今じゃデレデレです。ただでさえ、兄貴がシャウラ嬢に電撃的な一目惚れしたせいで監視カメラハッキングさせられたりで寝不足気味だったって言うのに」
イシュタルに同意を求められたレサトは大きく頷く。彼もひどく苦労をさせられていたようだ。
ばつが悪そうに頭を掻くカーマインの味方はいないらしい。
「もうストーカーですよ。かつらを被っただけの僕にも全く気付かないくらいどっぷりの。まあ、わかりますけどね」
「凄く迷惑な話だわ」
「まあ、エルザさんにとっては罵声浴びせられた方が楽なんでしょうけど」
イシュタルはお見通しだとばかりにエルザを見る。
カーマインの奇行が本当に愛ならばこれほど厄介なことはない。正に恋は盲目だと思い知らされる。
「でも、実際、許すって言われても、どこまで許されたのかわからないんだけど」
「全部に決まってんだろうが。会談で言ったことも全部取り消す」
たった一言、許すと彼は言った。確かでありながら、あまりに曖昧な言葉だ。
「西に踏み込むことも?」
「今回は助けられたからな」
「そういうことなら僕らも安心です。さすがにカーマインさんがここまで奔放だと僕らもなかなか全部は守りきれなくて」
カーマインが頷いたのを確認して、イシュタルは安堵の表情を見せる。そうして、エルザへと右手を差し出してくる。
それを見たカーマインは不快げだ。
「なんだ? その手は」
彼は握手を求めるイシュタルが気に食わないようだったが、イシュタルはそれが理解できないとばかりに首を傾げる。
「だって、エルザさんが西に介入するってことは僕らと手を組むってことですよね?」
「てめぇなんかもう必要ねぇ! 外に帰りやがれ! 西は俺とこいつで守るからな!」
イシュタルの考えは間違いではない。カーマインが言うのは無茶なことだ。
「そんなの、無理に決まってるでしょ?」
「愛があればなんだってできる」
「アナタに愛なんてないし、アタシの体は一つしかないし、リブラにはこれからも頑張ってもらわないと困るんだけど」
馬鹿には付き合いきれない。エルザは心の底から思う。
愛などという不確かなもので、どれほどのものが救えると言うのか。カーマインに力がない以上、アンタレスでなくその爪であるリブラを支援していかなければならない。
「僕は歓迎ですよ? エルザさんと組めば効率いいのは間違いないですし、外的な意味でもサポートしてくれますよね?」
リブラは内にあればアンタレスの爪であり、外にあれば一つの勢力である。外交を続けてきたエルザにとって、求められれば断る理由はない。
「それはリブラが外的な意味でアタシに協力できるってこと?」
一つの組織として時に力を貸してくれると言うならば尚更協力を惜しむ理由はない。
イシュタルはにこやかに大きく頷く。
「ええ、もちろん。常々、あなたと組みたいと思っていました。こちらも曲者揃いなので、ご迷惑をかけることもあるかと思いますが、よろしくお願いします」
エルザはイシュタルと握手を交わすが、その手はすぐにカーマインによって引き離された。
「認めねぇ! 俺は認めねぇからな! こいつはうちの寄生虫だ! つーか、そんな簡単に決めてんじゃねぇ!」
「き、寄生虫ってひどいですね」
カーマインの言い草はまるで子供のようだ。
エルザは深く溜め息を吐いて、じっとカーマインを見た。
「だって、アナタが信頼してるんでしょ? アタシが疑う理由がある? それとも、リブラはそんなに信用ならない組織なの?」
「ぐっ……うぐぐぐぐ」
カーマインは言葉を詰まらせ、妙な呻き声を上げたかと思えば押し黙って自らの席に戻っていく。すごすごという表現がしっくりくる様子だ。
「では、改めて」
カーマインの態度を容認ととり、イシュタルは再び手を差し出してくる。
そうしてエルザとイシュタルはもう一度、今度は固く握手を交わす。今度は妨害されなかった。
こうして、ここにエルザと西方の同盟が成立した。




