愛と悲しみの街 006
エルザは仰臥したまま黙り込むカーマインの横顔を盗み見た。
今の彼の感情を窺い知ることはできない。引き結ばれた唇は何かを語ろうとしない。
「安心しなさいよ。アナタのこと、助けたとか守ったとか思ってないから。知り合いに元ヤク中がいて、もう一度手を出されると色々損害を受けるってだけ。だから、この仕事を受けた。そもそも、拒否権なんてなかったけど」
天井を見上げ、エルザは呟いた。カーマインはエルザを見るわけでもなく何も言わない。何かを考えているのか。
「それに、アタシは兄さんのためならどんなことだってできる。死んだっていい。けれど、まだそれが許されないなら、アタシが存在したことによって生まれた全ての歪みを消し去ってみせる。自分がどれだけ許されない存在なのかはわかってる。でも、そのために生かされてると思わなければ消えてしまいたくなるから」
エルザは独り言を続ける。わかってほしいと思ったわけではない。吐き出さなければどうにかなってしまいそうだった。
「でもね、カーマイン・スコルピウス。確かにアタシは汚れているわ。災厄をもたらす呪われた雌ライオンだから。だけど、兄さんは違う。レナード・レオーネはいずれ初代と同じ〈絶対王者〉の名を冠する人、それだけは信じてほしい」
カーマインは黙れとは言わなかった。
エルザは彼が自分を信じないことで〈ロイヤル・スター〉から孤立してしまうような気がしていた。信じてくれれば絶対に裏切らないが、彼には信じろと言えない。
だが、せめてレナード・レオーネのことは信じてほしかった。レグルスは過ちを起こしたが、それは今のボスの下ではない。
「……ローエングリンって呼んだのはアナタの本当の名前を聞いてはいけないと思ったから。そして、アナタがアタシの本当の名前を聞いてはいけないと思ったから」
ローエングリン、伝説の英雄の名だ。公女エルザを救い、結婚するが、彼女が禁を破って彼の名前を尋ねたために去る。
その禁問の誓いを破ったエルザと自身を重ねることで自分を戒めようとしたのだ。
出会いは破滅を呼ぶ。そうして既に二人の男を失っているからこそ、彼を巻き込みたくなかった。
暫くカーマインは沈黙を続けた。エルザももう何も言わずに待つことにした。
ふと、カーマインが息を吐く。エルザは裁きが下るのだとほっとする。
「許す」
漸く吐き出された言葉はあまりにも短く、呆気ないものだった。
「え?」
彼は今何と言ったか。エルザは聞き返さずにはいられなかった。
「間抜けな声出すなよ」
くつくつとカーマインが笑う。エルザはムッとするよりも、その意図がわからなくて混乱していた。
「今、なんて、言ったの?」
聞き間違いに違いない。エルザは問い返してみるものの、またしてもカーマインに笑われてしまった。
「その歳で難聴はねぇだろ」
「アタシ、耳は良いの。理解不能だっただけ」
本当に聞き間違いでないのなら、あまりにありえない言葉だった。
どうしたら、その結論に達したのかまるで理解ができない。
「許す、それだけだ」
もう一度、今度ははっきり、ゆっくりとカーマインが言う。
「……アナタがわからない」
エルザは深く溜め息を吐いた。
馬鹿の考えることはわからない。しかし、今はそうやって笑うこともできない。ただただ困惑している。
「信じてやるって言ってんだ。素直に感謝しやがれ」
カーマインはぶっきらぼうに言ってぷいっと顔を背ける。その顔が赤いのは怒りではないらしい。まさか照れているのか。
「話が飛び過ぎてる」
エルザは自分の意識がところどころ飛んでいるのではないかと思うほどだった。それほどまでにカーマインの思考回路はエルザにとって未知のものであった。どこをどうしてそう繋がったのかまるでプロセスが不明だ。
「考えても仕方ねぇだろ」
「まあ、アナタ、馬鹿だものね」
諦めたようなカーマインをエルザは挑発してみたが、彼は乗ってこない。
「そうだ。馬鹿だから考えねぇ」
「馬鹿だからって考えなさいよ!」
開き直った笑顔を見せるカーマインにエルザは一喝するように叫んだ。
大きな声を出したことで、身体が軋んだが、そんな痛みなど大したものではない。
「だって、シャウラなんて初めからいなかったんだろ?」
「変装する時、自分のニックネームの一つをその人格に与える。彼女はリズ、アタシであってアタシでない」
頷き、エルザは思い返す。
彼にシャウラという名を貰ったリズは他人であって自身である。だけど、もう終わった人格でもある。使い捨てでしかないのだ。
彼はエルザがシャウラのフリをしているとは初めから疑わなかったようである。
「シャウラといると楽しいってことは、てめぇといても楽しいってことだろ?」
「それ、全然違うと思うけど」
あまりに楽観的なカーマインにエルザは頭痛を覚えた。どうしたらそこに結び着くのか、やはり皆目見当がつかない。
「んで、シャウラが好きってことはてめぇが好きってことだ」
「絶対、違うから」
ニカッとカーマインが笑う。あまりに飛躍した発想に目眩さえする。
「まあまあ、照れるな」
「照れてない」
ベッドに手をつき、カーマインがエルザを見下ろす。
「ほら、やっぱりシャウラのノリじゃねぇか」
即答したエルザを見てカーマインは憎らしいほど楽しげである。
「アナタはアタシが嫌いだったじゃない」
騙し返されているのではないか。エルザは注意深くカーマインを観察してみる。
彼に罵声を浴びせられたのはつい昨日のことだった。
「嫌いとは言ってねぇだろ。単に実物を知らなかったってだけだ」
確かに彼の口から『嫌い』などという言葉は出ていないかもしれない。
だが、実物がどうという問題ではない。彼は本質を知っていたのだ。
「どこまで単純なの?」
「俺は人を見る目はある」
「そういうこと言う時点で、ない。絶対にない」
彼はどうなってしまったのか。昨日の態度の方がまだいい。
「てめぇのことはまだよく知らねぇが、シャウラのことは知ってる。真っ直ぐな女だ」
「アタシは歪んでる」
彼は何か勘違いしているのではないか。彼の頭は処理限界を超えて暴走しているのではないか。考えれば考えるほどエルザはわからなくなる。
彼がシャウラと呼ぶリズは間違いなくエルザの一部ではある。それが真っ直ぐに思えたとしても根本はねじ曲がっている。
「まあ、難しいことは言わねぇ。せいぜい、覚悟しとけよ。俺は本気だ」
眩しいほどの笑みを浮かべてカーマインはポンポンとエルザの頭を叩く。
馬鹿になるおまじないではないか。そう疑うほど今はエルザの方が彼より冷静でなかったのかもしれない。
そして、カーマインは布団をめくってベッドに乗り上げ、エルザの隣に入り込もうとした。
「な、なんで、入ってくるのよ!?」
「俺のベッドだから」
柵に体をもたれさせ、エルザを見下ろしたカーマインは当然のように言い放つ。
「今、アタシが寝てるのよ」
「添い寝してやろうと思って」
「要らない、っていうか、もう帰る!」
何を思って寝かせたかは知らないが、一件落着したとあればエルザも久しぶりにゆっくり休みたいものだった。だが、添い寝のオプションは願い下げというものだ。
身を起してベッドから出ようとするものの、優しくも強い力で押し戻されてエルザは動けない。
「安心しろ、寝てるだけじゃガキはできねぇ」
「最悪。一人で寂しくおねんねしてなさいよ」
エルザも子供ではないが、この状況はあまりにも落ち着かない。昨日とは別人のように優しいカーマインなど気持ち悪いにもほどがある。
「強がってんじゃねぇ。もう少し休んでろ」
「じゃあ、出て行きなさいよ」
休めと言われて休めないのは彼のせいである。やせませたいのか、休ませたくないのか。やはり嫌がらせではないかと勘繰ってしまうのは仕方がないことだ。
「やっぱり俺はシャウラの方が好きだな。いや、でも、その冷たい感じもなかなか……」
ニヤニヤし始めたカーマインの顔を見て、エルザは体が石になったように重くなるのを感じた。
正義と悪をはっきりさせたがるのが彼の性格だ。シャウラは正義かもしれないが、エルザは悪だ。それを拒絶すればいいだけの簡単な話だ。
だが、エルザは知っていた。根は優しい男なのだ。彼は冷酷になることができない。
「せいぜい休めよ」
笑って、カーマインはベッドから出て行く。そして、やっと、からかわれていたのだと気付く。
「やっぱ、お前、面白い」
「アタシは全然、面白くない。むしろ、不快」
「そう照れるな」
「やっぱり、アナタって馬鹿だわ」
カーマインはからからと子供のように笑う。癪に障るところはあるものの、彼はそうしている方が良い。
それでも、彼の行動は予測不能だった。
カーマインは急に目を細めたかと思えば、壊れ物に触れるようにそっとエルザの髪に触れる。
「何、この手?」
エルザが眉根を寄せればカーマインはじっとその目を覗き込んでくる。
「いやあ、こうして見るとお前ってガキだと思ってよ。いくつだ?」
「十六」
「マジかよ? ……まあ、ヤってもいい歳か」
「何、安心してんのよ? 変態」
「ちなみに俺は二十五だ。いい歳の差だろ?」
「やっぱりおっさんじゃない」
大人びてはいると言われても、エルザには歳相応の幼さもまだ残っている。だが、カーマインはそれこそ外見は大人として完成していても中身はまるで子供でもあった。
「せいぜい、いい夢見ろよ」
優しい声で囁いて、カーマインはエルザの額に口付けた。
エルザは一瞬呆然としてから思わず額を押さえた。
「な、何するのよ!?」
彼の奇行は心臓に悪い。ドキドキすると言えばそうだが、恋愛的な感情によるものではない。何もかも危なっかしく思えるだけだ。
「あー、おまじない? つーか、お前でも赤くなるんだな。可愛いぜ」
カーマインは何事もなかったかのように平然と答えると、「おやすみ」と手を振って部屋を出て行ってしまった。
部屋に一人残され、エルザは扉の閉まる音と同時に思わず「げぇっ」と口にする。
いい夢など見られそうにない。だが、これこそが不快な夢だと思えば、どんな夢もこれ以上の悪夢にはなりえない気がした。
何より疲労感が大群をなして押し寄せて来ている。珍しく、夢を見ないほど深く眠れそうだった。




