愛と悲しみの街 003
この日の〈ポイズン・キス〉は〈王子〉が来るからか、随分と活気があるようだった。
〈王子〉が何者であるのかはエルザにもわからない。エルザの経験上そう呼ばれた人間がまともだったことはない。ドラッグ王子などまず正常な人間であるはずがない。
十分にエルザはリズを売り込んだ。これでダメならば強行突破しかない。
だが、その前にやはり三度目というものはあるらしかった。
目が合って、うんざりするほどの笑顔をリズは見てしまった。
同一人物でありながら〈ロイヤル・スター〉としての彼とは全く違う印象を持っている。彼はカーマイン・スコルピウスとローエングリンを演じ分けているわけではあるまい。
おそらくこちらこそが彼の素顔だ。本来彼は〈ロイヤル・スター〉になるべき人間ではなかったのだろう。彼自身を否定するつもりはないが、冷酷になれない人種だ。
優しさだけでは〈ロイヤル・スター〉はやっていけない。冷酷さだけでもまた然りだ。だからこそ、エルザはすぐにでもその役目を返上したかった。
「よお、シャウラ。また会えたな。もうこりゃ運命だな、認めろよ」
ひどく楽しげに言うカーマインにエルザの口から思わず「げっ」と声が漏れる。
今、彼が自分の正体を知ったらどうなるのだろうかとエルザはふと考えた。今はエルザではなくリズだが、境界はあまりに曖昧だ。気を抜けば崩壊するほどに脆い。
きっと、彼ならば気付かない。気付いてしまったら、と考えるのはエルザらしくないことだが、恐れていた。
「げっ、とか言うなよ。可愛い顔が台無しだぜ?」
「うぇっ、気持ち悪っ……」
昨日の彼を思い出すほどエルザは妙な気分になる。
あのエリザベス・レオーネであると知っていたら言わないだろうに。
心の中で呟きながらもリズのプログラムはまだ正常だった。
「それは歓迎ととってもいいのか?」
「そんなわけないでしょ。あんたって本当にバカだね」
どうにかして彼を引き離さなければならない。
そう上手くいく相手でないことはわかっていても今日だけは失敗できない。彼がその気ならば任せても良いのだが、どう見ても〈王子〉を狙っているようではない。
カーマインは人を騙せるようなタイプではない。狡猾なタイプではなく、どうしようもない正直者だ。馬鹿正直としか言いようがない。
「そう邪険にすんなよ。今日の俺はハートが壊れそうなんだ。誰か聞いてくれなきゃどうにかなりそうだ」
確かに今までとは様子が違うが、同情している暇はリズにはない。
「ほんと、気持ち悪い」
「まあ、いけ好かねぇ女がいたんだよ」
リズには聞く気などないのに、カーマインは勝手に話し出す。
本当に、どうしてこの男はこんなにも空気が読めないのか。
「ああ、そう」
「冷てぇなぁ」
「だって、関係ないもん」
「まあ、あれだ。そのいけ好かねぇ女を見て思ったわけだ」
彼は更に続けるが、本当に聞いている暇などありはしない。
彼が側にいれば接触してくる可能性も減ってしまう。
そして、そのいけ好かない女はおそらく自分なのである。本人が目の前にいることに全く気付いていないことにエルザは不安も感じる。
これが本当に〈ロイヤル・スター〉なのか、彼はこれでいいのか、と。
「ねぇ、その話聞かなきゃダメ?」
「お前、俺んとこにこねぇか?」
意思を無視して勝手に話し始めたあげくに思いも寄らないことを言い出すのだから、リズは驚くばかりだ。
「やだよ」
「おいおい、もっと考えろよ。別に嫁に来いって言ってんじゃねぇんだからよ」
「だって、あんたって下心丸出しじゃん」
一体、何を考えているのか。カーマイン・スコルピウスとしての姿を見たからこそ余計にエルザはわからなくなる。彼はまるで理解できない。
「なんかよ、お前といるとすげぇ楽しいって思ったわけだ」
「それっておじさんが遊んでくれる友達もいないような寂しー男だってことでしょ?」
かもな、と認めるのだから今日の彼はやはり先日までとは様子が違った。
たった三度の出会いで何を言っているのか。あまりに単純すぎる。運命など残酷なものでしかないというのに。
「でも、残念だね。あたし、もうあんたとは会えないよ」
彼が何と言おうと今日で終わりにしなければならなかった。どちらにしろ、もう二度とこの姿で彼に会うことはできない。
「なんだ、そりゃ」
「この街出てくの」
「なんでだよ?」
「退屈だから」
もう存在しなくなるのなら、それもまた嘘ではなくなる。〈ロイヤル・スター〉である以上、彼がこの街から出ることはできない。
「そりゃあ随分な言いようだな。こんなに楽しませる男がここにいるってのに」
「それ、本気で言ってるの?」
「もちろん本気だぜ?」
「そう言えば、あんた、いっつも本気でバカだった」
「この際、褒め言葉として受け止めておくぜ」
何が楽しいと言うのか。彼は自然だが、それが問題だった。
「なぁ、俺と一緒に行かねぇか?」
「行かない」
それもまたエルザには想定外だった。
エリザベス・レオーネをどこまでも嫌悪したカーマイン・スコルピウスがその別人格とも言えるリズを気に入っている。あまりに滑稽なことでもある。
「地獄の果てまで追っかけるって言ってもか?」
「バカには付き合い切れないよ」
悲しいことにカーマインは本気らしかった。彼の背景に何があるのかはエルザにもわからないが、こんな形で聞き出したいとは思わない。
これ以上彼といるのはチャンスを捨てることになる。
「バイバイ」
言い放てば腕を掴まれるが、これ以上大人しく彼に捕まっている気は更々ない。
「おい、待てよ」
「……トイレにまで付いて来る気なの?」
吐き捨てれば、ぱっと腕が離れた。いざとなれば簡単なものであるが、そう何度も使える手ではない。一度それで逃げられれば彼もさすがに学習するのだろう。
一旦、リズはトイレの方に逃げ込む。ここから先、どうするべきか短時間で決断する必要がある。
そこにやってきたのはあのバーテンダーだ。
「まさか、もう帰るなんて言わないよね?」
妖麗に彼は笑う。
彼は〈王子〉と〈生贄〉の橋渡しをする役目を請け負っているのだろう。美しいが、性悪な男だ。それなりの恩恵を受けていることは間違いない。
「変な男に付き纏われてて」
「〈王子〉が君に会いたいって言ってくれたのに?」
「本当に?」
審査は合格か。待った甲斐があったというものだが、厄介な男がいることが問題だ。
「その変な男には俺がうまく言ってあげる。〈王子〉は気まぐれだから機嫌を損ねない内に連れて行かないといけないからね」
ニコリと笑う彼にエルザは素直に騙されてやることにした。このチャンスを逃すわけにはいかない。
リズが通されたのはVIPルームだった。四人の男達に囲まれ、ソファーの中央にはいかにもパーティーボーイといった感じの男が偉そうに座っている。
彼が〈王子〉なのだろうが、エルザにはひどく薄汚い男に見えた。ドラッグを捌く男なのだから無理もない。しかし、誰が言ったか、これほどまでに気高さの欠片もない男が〈王子〉などとは笑わせてくれるものだ。
彼は何も知らずに笑い、無防備に隣へと誘う。目の前には真っ赤なオリジナルカクテル〈ブラッディー・キス〉が置かれる。血まみれのキスとは趣味の悪いことだ。
勧められ、煽ったそれは堕落の味がした。アルコールで思考を奪うつもりか、どちらにしてもこの腐った空間に長居するつもりなどエルザにはない。
〈王子〉はいかにも薄っぺらだった。自分の話ばかりをしたがる、そういう男だ。
ドラッグをちらつかせ、誇らしげに笑う彼はこの後に崩壊劇が待ち受けていることなどまるで気付いていない。
そして、当然のように腰へと伸ばしてきた手を掴んで捻り上げる。
「あたしね、まどろっこしいのが嫌いなんだ。だから、これ以上温いことはしないことにする」
視線を合わせてニコリと悪魔の笑みを見せれば、彼はまるで状況が理解できないというように目を白黒させた。だが、周りの反応は早かった。
男達はそれぞれナイフを取り出すが、エルザにとって脅威ではない。
この瞬間、エルザはリズであって、そうではなかった。リズは喧嘩などできるタイプではない。
「それってファッションのつもりなの? 素人のくせに」
すぐ隣の男がナイフを向けてきたが、即座にそれを奪い取り、腹部に強烈な膝蹴りを数度叩き込んで失神させる。すぐにまた別の男が襲いかかってくる。
「そんな動き遅くてさ、よく喧嘩なんてできるよね」
「こ、このアマ!」
「それもさ、凄く月並み、冴えないよね」
男が繰り出す拳を難なく避け、エルザは顔面にパンチを放つ。
大した興奮もなく、準備運動にも満たないものだった。
本人達は喧嘩慣れしているつもりなのだろうが、もっと喧嘩ができる人間ならこの街にはいくらでもいる。
「あのさ、逃げても無駄だって、わかんない?」
残りの男二人は〈王子〉を連れ、扉の方へ逃げようとしていたが、エルザは奪い取ったナイフを顔の近くを狙って投げてやった。
「て、てめっ、さっ、サツか!?」
震える声で問う〈王子〉は、なぜ、こんなことになってしまったのかわかっていないようだった。心の中であのバーテンダーを呪っているのかもしれない。
そもそもこの街で悪事を働くことが間違いなのだと彼は思い知るべきだった。
「まさか、もっと質が悪い種類の人間だよ。知らない方が幸せってヤツ。まあ、あなたの街のお掃除屋さん、ってことにでもしておいてよ。面倒臭いから」
エルザは安易に名乗らない。今はリズである。
「ほ、ほら、これ、ただでやるから、見逃してくれよ!」
〈王子〉が差し出すのは持ち合わせているドラッグの全てか。それで逃げられると思う方が間違いである。
「頭悪いね、お兄さん。あたしはそれをこの街から排除するために動いてるんだよ?」
リズは笑う。見逃してやる気など初めから微塵もない。
その瞬間、彼の隣にいた二人が動くが、ボディーガードとしては全く役に立たないものだった。二人を容易く気絶させ、エルザは改めて〈王子〉を見た。
「な、なんなんだよ! てめぇっ!?」
「あのさ、ちゃんと人の話聞いてた?」
ひどく混乱した様子の〈王子〉の顔をエルザは殴る。一番罪深いはずの彼が、一人だけ無傷というのもフェアではない。
「別に尋問して吐かせてあげてもいいけど、あんた達を痛め付けて商売できないようにしたら、もっと偉い人達が出てくるんじゃないかって思ってさ。きっと、その方が性に合ってると思うんだ」
尋問したところで、これだけ頭の悪い男がアジトを知っているかは怪しいところだ。
それならば彼を潰して打撃を与えてやった方が簡単だった。
「まあ、せいぜい、情けない声で親分に助け求めなよ」
ずるずると座り込んだ男に冷たく吐き捨て、リズはVIPルームを後にした。
そして、すぐにあのバーテンダーと目が合った。
「随分、早いね」
彼は訝しんでいるようだったが、それで構わなかった。
「もう甘い蜜は吸えないね」
リズが微笑めば彼は眉を顰め、すぐにVIPルームの方に目を向け、落ち着きながらも早足で向かっていった。




