愛と悲しみの街 002
西の空気は北とは違う。もちろん、南とも違う。
一番荒んでいる場所をあげるとすれば西だとエルザは思っている。良い意味でも悪い意味でも一番都会的だと言えるのかもしれない。
それは組織の存在が希薄ということだ。街との結び付きの強さはそのまま組織の勢力に比例するとも言える。
締めるものがなければ街はどうしようもなく緩んで堕落するだけだ。
アンタレスに組織としての力は最早ないとトール・ブラックバーンは言った。アルデバランも規模の大きい組織ではないが、彼はエルザ以上に街の組織の事情に詳しいらしい。今後、エルザがレグルス代表として〈ロイヤル・スター〉と関わるならば彼の力は確実に必要になる。彼もまたエルザの力を必要としている。
だが、北方の力も必要であり、アンタレスの力も必要ないわけではない。
〈ロイヤル・スター〉は四方が揃ってこそ、輝くのである。
そのためには解決しなければならない問題がある。カーマイン・スコルピウスとの奇妙な縁に向き合わなければならない。
今日で終わらせなければならない。
歩けば腐った目とぶつかる。まるでヘッドホンから流れる音楽に洗脳されているかのような若者、皆と同じ流行のファッション。
見る度に、西は最も見えない束縛の緩い場所だと思い知らされる。最も自由で、最も危険な場所、破れた網のように悪意の入り口になる。
ウェーブのかかった茶髪のウィッグ、ブラウンのカラーコンタクト、流行のファッションはエルザの好みではなかったが、軽い女に見せるには必要なことだった。細部にまでこだわって、小物はピンク色の物を選んだ。
そうしてエルザはいかにも遊んでいる女になりきった。その人格にリズという名を与えた。
***
パーティーガールの行き先は決まっている。エルザは見るからに怪しげなクラブを行き来した。目的は西のドラッグのルートを断ち切ることだ。それもアル・ディバインがもたらした情報であったのだが。
アル・ディバインも全てを教えてくれるわけではない。入口へ辿り着いたら、そこから先は自分の手足で出口を見つけなければならない。
その日も入口となるクラブを教えられただけだったが、リズとしてエルザは躊躇せずに踏み込んだ。
西のドラッグルートに関しては多少別の人間からの情報も持っていた。
餌として飛び込んだところで大物がすぐにかかるなどとは思っていない。不躾に絡む視線に耐え、ひたすらに待たなければならない。
だが、その男はすぐに寄ってきた。先行きの長さを感じさせないほど末端は容易いものだ。
ショートパンツから出る太ももに視線が絡み、腰に回される手に耐える。これで第一段階は完了だとエルザが思った矢先、予期せぬことが起きた。
「わりぃな、そいつ、俺のツレなんだ」
男の肩を掴んで彼は言う。赤毛の大柄の男、後に〈ロイヤル・スター〉アンタレスのカーマイン・スコルピウスであるとわかる人物である。
「遅れてわりぃな」
彼は馴れ馴れしくリズの肩を抱いて、何か言いたげな男を追い払ってしまった。
作戦は大失敗、振り出しに戻ったというわけだ。
「邪魔しないでよ」
邪魔者を追い払ったつもりの真の邪魔者は勝手に恋人のフリを続けていたが、リズは睨んでその腕を振り払う。
「ここがどんなとこか知ってるのか?」
低い声で彼は問う。わかって飛び込んでいるのだ。彼に付き合う暇などない。
「あんたの説教なんか聞きたくないよ」
「お前、名前は?」
「あんたに教える名前なんかない」
エルザの気など知らずに問う彼は本当にとんでもなく空気が読めない男であった。
「じゃあ、シャウラな」
彼はニカッと笑う。どこか憎めなかったが、状況が悪かった。
「わけわかんない」
リズとしての演技よりもエルザは本気で呆れていた。
「俺が気に入ったから名前をやったんだ」
「ほしいなんて一言も言ってない」
「細かいことは気にすんな」
「全然、細かくない」
お節介で大雑把、面倒臭い男に捕まったものだ。これは大問題だった。
「新手のナンパのつもりなの?」
ここに何がいるか知っているとしても誰も助けを求めてはいない。なのに、彼は自分を助けて名前まで与えた。
それが新たな手口であるとは思えない。
きっと、彼は場違いの馬鹿なのだとエルザは判断した。そして、まるで肯定するように彼は豪快に笑う。
「かもな。今の俺はサイコーの気分だ」
「あたしはサイテーの気分、おじさんと遊んでる暇なんかないの」
「そう言うな。俺はまだ二十五だ」
「十分おじさんだよ」
いくら街のためとは言ってもエルザはあまり気長な方ではない。いきなり躓いたとなるとアル・ディバインに笑われているような気さえしてくる。
「そうだ。俺の名前は」
彼は名乗ろうとしたが、リズは遮る。彼の名前を聞いてはいけない気がした。
「ローエングリン」
「何だ?」
咄嗟に思いついた名前は何とも皮肉なものだった。
「あんたはローエングリン。長いからロウ」
「お、なんか、かっけぇな!」
彼は真意など気付かずに、まるで二人だけの秘密ができたかのように無邪気に笑った。
もし、この時、この男の正体を知っていれば未来は変わっていただろうか。
*
後日、同じクラブに行くのはエルザでも躊躇われた。
またあの男に捕まってチャンスを無駄にする気はない。幸い西は店には困らない。
面倒臭い知り合いに貸しを作ってまで突き止めた次の店では失敗するわけにいかなかった。
しかしながら、希望とは裏切られるものである。
「よお、奇遇だな。シャウラ」
獲物がかかる前に面倒なものがかかってしまった。
「あんたって運命とか信じちゃうタイプ?」
自分の運の悪さを内心呪いながらリズは問いかけてみた。
「まあ、前は占いも見なかったが、今は信じてるぜ? 赤い糸とかな。占いもこれからは見ることにする」
「うざい、本当にうざい」
リズの口から零れた言葉は紛れもなくエルザの本心であった。
彼とこうして話している時が一番リズらしくいられるとは認めたくないことだった。
「照れるな、照れるな。お前も俺との再会が嬉しいんだろ?」
本当にどうしようもない邪魔者、笑うことなどできるはずもなかった。上手くいかなければ焦りも生まれる。
「馬鹿じゃないの?」
吐き捨てて、立ち去り、エルザは次のプランを考えた。
二度あることは三度ある。そんなことは冗談じゃないと思いながら。
漸く獲物を捕まえたのは狭い路地だった。運が良かったと言うべきか、ナンパをしてきた男がそれを持っていた。
「これがほしいんだろ?」
男がケースをちらつかせるが、中身を確認してリズは首を横に振った。
「悪いけど、あたし、こんなのじゃ満足できないの」
ニコリと笑ってみせれば彼は察したらしかった。
「だから、もっと、イイのがほしいの」
吐き気のする台詞、口角を吊り上げる男が不快で仕方がないが、全ては出口へ向かうためだ。
「お金ならいっぱいある。そういうオトモダチだっていっぱいいる。みんな、薬漬けにできるよ」
若い女に人気のブランド物の財布を見せて、ラインストーンでデコレーションされた携帯電話をちらつかせれば、男の思考は単純に結論を出したようだ。
「悪魔みたいな女だな」
「よく言われる。褒め言葉でしょ?」
快楽のためにドラッグに手を染め、そのために金を持っていて頭の軽い友を地獄へ送る。そういう人間だと理解されたらしかった。
エルザは仕事のためならば汚れた女になることだって躊躇わない。そもそも、自分を清い女だなどとは思ってもいないのだから。
「だったら、〈ポイズン・キス〉って店に行ってみな。運が良けりゃあ天国行きの切符をくれる。血まみれのキスと一緒にな」
「ありがと」
氷の笑みを浮かべてリズはその男の胸に札束を押し付けた。情報料の代わりに体を要求されるなど冗談ではなかった。
〈ポイズン・キス〉は初めから怪しい場所だとエルザも睨んでいた。ドラッグのことに詳しい知人からもまず間違いないだろうと言われていた。けれど、通行証とも言うべきものを持ち合わせていなかった。
中に入ったところで取り立てて異様な空気があるわけでもない。実に巧妙に隠されているようだ。
「血まみれのキスが欲しいの」
黒髪のバーテンダーに言えば彼は申し訳なさそうに微笑む。
「初めての子には出さないんだ、ごめんね」
どこか影のある妖艶な男、女を惑わせる男だと直感が告げる。
もっと厄介な男を知るエルザにとっては敵ではない。彼はその男に似ているが、それ以上にはならない。
「じゃあ、お兄さんのオススメでいいよ」
合い言葉は間違いないようだ。
簡単に辿り着けるものでないことは初めからわかっていた。あとは、審査に通るだけだ。
*
それからリズは何度も〈ポイズン・キス〉に通い、ようやく今日、〈王子〉と呼ばれる男に会える可能性が出てきた。
そして、二度までが偶然だとしてもローエングリンのロウことカーマイン・スコルピウスもドラッグについて追っているのなら今日もまた現れる確率が高かった。〈ポイズン・キス〉に通った間はあっていないが、彼が真に〈ロイヤル・スター〉であるならばその二度も必然であるのかもしれないのだ。
そうなれば、既にマークされている可能性もあるが、エルザはやらなければならなかった。




