王の星 006
何も気にせず落ち着いて静かに話せる場所はそうそうない。
結局、エルザが選んだのは自分の隠れ家である。星海からも同意を得ることができた。
星海をリビングのソファへ案内し、エルザはコーヒーを用意していた。
「お風呂とトイレはあっち、寝るなら、そこで寝ていいわよ。背もたれ倒せばベッドになるから」
「しかし……」
「アタシにはベッドがある。そっち貸してあげてもいいけど、どうせ、アナタ、女人のベッドで眠るのは気が引けるとか言うでしょ?」
エルザなりに今日は帰ってくるなと言われた星海を心配しているつもりだった。彼はしっかりしているようで危うい部分がある。特に今日の彼は隙があった。
エルザはコーヒーを彼の前に置いて、途中で買ったチョコレートを添える。同じく彼のために買ったスティックシュガーも置いたのだが、手を付けようとせず、コーヒーをフーフーと冷まし始めた。
「ほら、シン。お砂糖あるわよ?」
「必要ない」
まさかわからないはずはないとエルザも思ったが、今の彼は挙動不審だった。
「だって、アナタ、甘党でしょ?」
「な、なぜ、それを……!?」
秘密を暴かれたかのように星海は明らかに動揺している。
「そりゃあ、目の前でお砂糖ドバドバ入れられたら普通気付くと思うけど……」
「え、エルザ殿、このことはくれぐれも内密に」
内密も何もあったことか。
彼ほどの男があれで隠していたつもりとは呆れたくもなるものだ。甘い物を前にした時の彼は恐ろしいほどに隙がある。
「秘密にしてたつもりなの? それとも、無意識? アルドだって気付いてたと思うけど……」
本人は人目を盗んで砂糖を放り込んでいたつもりにでもなっていたのか。気付かないとはよほどの馬鹿である。
「じ、自分は甘党なのではない」
「甘いコーヒーが好きなだけ、とか?」
「そうではない」
「砂糖いっぱい入れないとコーヒーは飲めない、とか? むしろ、お茶が好きとか?」
「そうでもない」
星海は否定するものの、エルザはこればかりは信じなかった。
元々か、フィリップに付き合わされてそうなったのか、どちらにしても普通のレベルというには無理があった。
「そう言えば、この前チョコレートケーキ食べてたわよね?」
「あれはアルド殿が……」
フィリップとの面会が許されたあの日、彼はエルザを待つ間、アダム特製のチョコレートケーキを食べていた。
確かにアルドは勧めたかもしれないが、それだけとは限らない。
「それだけ?」
エルザはじっと見詰めてみる。人によってはまるで自白剤だと嫌がられることも多い。そうやってエルザは何人もの男を白状させてきた。卑怯だとは思うが、それもまた武器である。利用できるものはなんでも利用すべきなのである。
「……チョコレートも好きだ。だが、自分でもよくわからないのだ」
星海も観念したようであるが、どうやら彼にとっても謎であるらしい。
「理由はどうであっても、好きなら、それは悪いことじゃない。何かを好きって言えるって素敵なことだと思うから」
たとえ、わからなくとも好きならば恥ずかしがる必要などないだろう。特にカニス・マイヨールに彼を笑う者はいない。
それ以上触れられたくなかったか、あるいは最初から機会を窺っていたか。星海の表情は硬くなるのがわかった。
「エルザ殿、貴殿の過去の話だが……」
過去、エルザには自分の体が冷たくなったように感じられた。
いずれ、その問いがやってくることはわかっていた。それでも平静を保つことなどできない。
「レグルスの最も暗い部分、人間兵器を養成するための組織、アタシは最後の殺人人形、だから、全てを消し去るために生きてる」
それらは断片にすぎない。エルザも全てを覚えているわけでもなく、誰にでも簡単に話せることではない。
彼には話しても良いと思ったのは、話すべきだったからだ。
「なぜ、それを自分に明かした?」
「もしも、何かあった時にアナタはアタシを殺せると思ったから」
エルザにとって、それらは今の礎であり、諸悪の根源である。今は閉ざされた記憶が開かれた時に御し切れる自信はない。わからないからこそ恐れている。
だから、エルザは常に自分を殺せる男を探していた。
「ねぇ、髪、下ろさないのはどうして?」
星海は沈黙していたが、エルザは話題を変えた。
「気が引き締まるからだ」
「でも、アタシは下ろしてる方が素敵だと思うわ」
そうしなくとも、星海はいつでも引き締まっているようだったが、彼が髪を下ろした時をエルザは知っている。あの酒場では彼はいつもそうしていた。
星海は今までそんなことを言われたことがなかったのか、困惑していたが、エルザは笑ってみせる。
「ねぇ、今日だけでも下ろしててよ」
張り詰めたものはない方がいい。無理に何かを押し殺す必要などない。そう思ってエルザは言ってみた。
「貴殿がそう望むのなら」
エルザには星海が柔らかく笑ったように見えた。
はらりと解かれた髪が落ちる。やはり、彼にはその方が似合っている気がした。
暫くはお互いに何も話さなかった。
星海はエルザが暇潰しに買った音楽雑誌に興味を示し、熱心に目を通していたが、趣味が合うとは思えなかった。彼はハードロックやヘヴィーメタルの類いとはまるで縁がなさそうだ。だからこそ、未知の世界が見たかったのか。
彼がそうしている間、エルザはメールをチェックしながら色々な情報を整理していた。
メールの中にはアル・ディバインからのものもあった。彼は今回の〈ロイヤル・スター〉召集に関して、『見事だ』と称賛したが、皮肉だとわかっていた。彼は案外近くにいるのかもしれなかった。
不意に星海の携帯電話が鳴り、彼の表情強張ったのがわかったが、エルザは見なかったことにした。通話中、耳を澄ませるわけでもない。
話は簡単なものらしかった。星海は数度、電話越しに頷いただけで、すぐに切った。
「フィリップ様の手術は無事に成功したそうだ」
「あら、良かったわね」
どこかほっとしたような星海はエルザの皮肉にも気付かない様子だった。
「貴殿の予言とやらが当たったのだ」
「予言……?」
予言、誰がそんなものを信じると言うのか。星海は案外騙され易い質なのかもしれない。
「貴殿がフィリップ殿に言ったのだろう?」
「あー、あまりにあのおっさんがむかつくから適当に言っただけ。アタシ、いくら呪われてるとか言われてても、そういうオカルト的な力は持ってないし、信じなきゃ何も始まらない。そうでしょう?」
「……フィリップ様には黙っておこう」
一瞬、彼は硬直したが、非難する気はないようだった。
「信じる者は救われる、それがあの人の思想でしょう? でも、アタシに神への冒涜だとかなんだとか言っておきながら自分の命に関してだけは信じることから逃げた」
エルザは自分と反対であるというだけでフィリップにむかついているわけではない。彼がそれを貫き通さないからだ。
「貴殿はフィリップ様のことを信じていたのだな」
星海は本気でそう思っていたようだが、エルザは取り繕いもせず「全然」と言い放つ。
「アタシが信じていたのはアタシの主治医」
「……あの医者、やはり貴殿の差し金だったか」
「うちの〈藪医者〉、天才だけど、ちょっとエキセントリックなのが玉に瑕。それでも、ちゃんした人紹介してくれたでしょ? その道の権威みたいなの」
けしかけてしまった手前、申し訳なくなったというわけではない。
徹底的にやるのが主義であるからこそ、エルザは後日フィリップに追い打ちをかけていた。自らが最も信頼する医者を派遣することで、脅しをかけたつもりだった。
何せ、その男はとても医者には見えないほどパンクな男であり、本業は殺し屋でもある。フィリップには逆効果だったのかもしれない。
「貴殿には感謝してもしきれない」
「やめてよ、そういうの苦手だから」
感謝されることよりも非難されることの方が多い。感謝されればむず痒くもなる。特に純粋な感謝には戸惑いが生まれる。
「まあ、あのいけすかないおっさんのためにアタシは余計な代償を払わされたし、せいぜい利用させてもらうわ」
「代償?」
「見てよ、これ。 軟骨には開けないつもりだったのに、無理矢理あのイカレ針マニアに開けられたのよ? すでにある穴拡張されるよりはいいけど、痛いし」
エルザは髪を掻き上げ、左耳を見せる。マリアにも見せたが、その時よりも軟骨に一つ増えている。
エルザの依頼の報酬として針を得意とする〈藪医者〉が開けたものだ。
星海は何も言わない。言えなくなってしまったのだろう。
〈藪医者〉は見た目こそいかがわしい男だが、法外な紹介料をふっかけることもない。後が恐ろしいわけでもない。
「アタシ、本気でフォーマルハウトをぶっ壊そうと思ってるから覚悟しろって伝えておいて、って言うつもりだったけど、無駄ね」
「三人で貴殿に恥じぬような新しいフォーマルハウトを作るのだそうだ」
今のフォーマルハウトは昔のフォーマルハウトとは異なる。フィリップが自らの死を悟り、余生を平穏無事に過ごそうとしたからでもあった。
だが、彼は前へと踏み出し、大きな決断を次々にしていった。仕えながら主人のやり方に疑問を抱いていていた星海も今ならば迷うことなくついていくことができえるのだろう。その男に仕えたことを誇りとして。
「あのアクイラは恥の上塗りだと思うけど」
まるで問題がなくなったわけではない。厄介な存在が介入することになってしまった。強烈なインパクトの二人は星海のトラウマになってしまったらしい。
「エルザ殿なら変えられる」
「ロメオとファウストのことはよく知ってる。誠実になったつもりなのか、それとも、豪華なゲームだとでも思ってるのか、どちらにしても会わなければいけないわね」
エルザとしては、できることならば会いたくはなかった。これまで会ったのも外側でのことだ。内側でとなると話は別である。
だが、今、その話をするのは不毛に思えた。エルザも星海も憂鬱になるだけだ。
ふとエルザは思い出して立ち上がる。くるりと星海を振り返る。
「ねぇ、パンは嫌いじゃない?」
「嫌いではない」
好きでもないのか、余計なことをエルザは問わずにキッチンへと向かった。
キッチンで用意して、トレイを手にエルザはリビングへ戻る。
「アダムからの差し入れ。ベーグルサンド」
アダムはパンと中身を別にしていた。エルザはパンを温め、中身を詰め込んだだけだ。
「見た目は軽いけど、これが結構ヘビーな食べ物なのよ。アタシがあんまりに不健康だからって昔よく食べさせられた」
サイズは同じはずなのに、星海が持っていると自分のものより少し大きく見える。あまりこういったものを食べる印象のない彼だが、少しずつ食べる様は小動物のようだ。エルザもまた大きく口を開けるのではなくちびちびと食べるせいでやたらと時間がかかるのだが。
だから、二人はただ黙々と食べた。
「彼、元レグルスの料理人なの。自称お菓子職人なんだけど、よくパンも焼いてくれてね。気の利く子なの」
「レグルスは料理人がいたのか」
「そっちは、あの年増メイド?」
「彼女の料理にはむらがある。総じて味がないが、稀に刺激的な味がすることもある。見た目はまともなのだが……」
「うちは人数も多いから一応当番制なんだけど、まあ、一人くらいいてもいいと思って」
組織と一言で言ってもレグルスとフォーマルハウトではあらゆることに差がある。
自主性を重んじるのが現レグルスボスの方針だが、他人に頼るなということではない。それを一番理解していながら一番理解していないのがエルザである。
「エルザ殿は優しいのだな」
「本当にそう思う?」
「ああ、自分は嘘が嫌いだ」
「アタシは嘘吐きよ、知ってるでしょ?」
全ては偽りの上にある。今のエルザの人格でさえリゼットと同じように作られたものに過ぎない。本物は心の奥で眠っている。
星海は口を開こうとしたが、エルザはこれ以上話をすべきではないと判断して立ち上がる。
「アタシは部屋にいるから、好きにしてて。冷蔵庫の中は大したものはないけど、勝手に食べたり飲んだりしていいから」
逃げであったのかもしれない。彼が引き留めるのなら応じる気がないわけでもなかった。
けれど、帰れない彼にせめて一人の時間を与えてやろうというのは口実であるのかもしれなかった。
翌朝、リビングに彼の姿はなかった。彼は夜明けと共に出て行った。その音が自室のベッドの上で情報を整理していたエルザにも聞こえた。彼は何も言わずに出て行ったのだ。律儀に『世話になった』とだけ書置きを残して。




