掃き溜めの街 003
ペンダントをじっと見詰めるエドの表情は険しい。
それから眉根を寄せ、言おうか言うまいか逡巡しているような間があった。彼にはこの形見の意味がわかるのか、アルドはその様子を窺う。
ジムの方はと言えば、ただ無精髭の生えた顎に手を当て、首を傾げている。
「……これはヘラクレスじゃねぇか?」
顔を上げたエドは混乱を呼ぶ言葉を吐き出す。
疑問系でありながら彼は確信している様子だった。断言しないのは彼自身否定して欲しかったのかもしれない。
「ここらの組織の名前は星座から来てるものが多い。ヘルクレスもそうだ。だが、元はヘラクレス……これは奴らのマークだ」
組織のことを知るからこそ彼は恐ろしい答えを導き出してしまった。
「どうして、あいつがそんなものを……」
アルドはペンダントを落としそうになるほど動揺していた。今、エドの言ったことが正しければ自分の震える手の中にあるものが、ここに存在してはならないものだからだ。
「単にプレゼントじゃねぇのか?」
ジムは認めようとしない。アルドだって同じだ。単なる恋人へのプレゼントであってほしい。そうだとしたら、なぜ包装されていないのか。女性向けとも思えないデザインだ。
「よく見せてくれるか?」
「は、はい……」
アルドはエドへとペンダントを差し出す。彼には証明してほしかった。確信が何かの間違いであったと。
受け取ったエドはペンダントトップを更にじっと見る。顔が整っているだけに、そういう表情をしているとアルドとしては怖く感じる。
「見ろ、アルド」
言われて今度はアルドがエドの手の中のペンダントを見る。アルド自身はよく見ることをどこかで避けていた。
小さいが、描かれているのは棍棒を持った男が描かれている。英雄ヘラクレス、アルドにはとても恐ろしいものに思える。
四角いトップはプレートにしては厚みがあり、左側には蝶番が見える。ロケットペンダントだ。
エドは爪を引っ掛けてそれを開けてみせる。
中に入っていたのは写真ではなかった。小さなメモリーカードだ。彼らの顔を強張らせるには十分すぎる代物だった。
「これって……」
「本格的にやべぇ匂いがしてきた……」
パンドラの箱が開けられたような、そんな気分だった。
組織のマーク入りのペンダントから出てきたとなれば危険なデータが入っていることが想定される。ウェーズリーが命と引き替えに手にしたものであるとすれば尚更だ。
そっと蓋が閉ざされ、ペンダントはアルドの手に戻ってくる。アルドは爆弾を手にしてしまったようで気が気でない。
「アルド、すぐに捨てろ! こんなもん持ってたら、おめぇも危ねぇよ!」
ジムの言葉でアルドは漠然とした闇に飲まれていくのを感じる。何もわからないまま物事は急速に進みすぎている。
「でも……」
自分が捨ててやるとばかりに手を伸ばすジムを制するのはエドだ。
「いや、捨てるべきじゃねぇ。たとえ、手放したとしても狙われねぇとは限らねぇんだ。アルドだけじゃねぇ。今、この場にいる俺らも」
「だったら、どうすりゃいいんだよ! 殺されるのを待つのか!?」
悲鳴じみた声をあげるジムは普段の彼からは想像できない。アルドは完全に自分が現実から切り離されてしまった気分だった。
「こうなったらレグルスに守ってもらうしかねぇ」
エドが冗談で言っているのでないことはアルドにもわかった。しかし、受け入れ難い物だ。
「待てよ! レグルスが取り合うと思うのか!?」
すぐさまジムは反論する。
中央に住む彼らには自らの身を組織の毒牙から守る力はない。だからといって組織から身を守るために組織に頼めるはずもない。
組織の人間は彼らにとって別世界の住人だ。決して交わることもなく、一度そちらに踏み込んでしまえば戻ることもできない。
「……〈黒死蝶〉なら」
「おいおい、冗談はやめろよ! 〈黒死蝶〉って言ったらレグルス最強の殺し屋だろ!? この世で最も危険な女だってことは俺でも知ってる」
ジムには軽々しく感じられたのだろう。
中央にいる人間にとって組織のことはタブーであり、殺し屋の名を出すなど言語道断というものだ。アルドのように無関係でいる人間の方が多く、『触らぬ神に祟りなし』というのが長生きの秘訣だと誰もが思っている。
たとえ、殺し屋がいようと知らんぷりをするのが、この街での一般人の生き方だと言える。彼らは厚かましく公然と存在する。
「〈黒死蝶〉は身内には甘い」
怒りを露わにするジムに臆するわけでもなくエドは言い放つ。
一体、どこでそれだけの情報を仕入れるのかアルドには甚だ疑問だ。だが、問うことができるはずもない。
「身内? 笑わせるなよ、俺らは奴らの身内じゃねぇだろうが!」
ジムの言うことは尤もだ。どう考えても彼らはレグルスの身内には該当しない。身内とは組織の人間、殺し屋に違いないのだから。
「レグルスにはヘルクレスとやり合う理由がある」
「けど、それは俺らを守る理由にならねぇだろうが! 奴らにとっちゃ、俺らはただの虫けらだ。踏み潰したってなんとも思わねぇんだよ!」
ジムとエドは険悪な空気を醸し出し、話は進んでいく。アルドは二人についていくことができなかった。取り残されておろおろするばかりだ。助けを求めるようにフレディを見ても首を横に振るばかりだ。自分達にはどうすることもできないと言うかのように。
「もし、あれが奴らにとって重要な物なら、取引できる。交渉によってはこちらに有利な形で」
真剣な表情でエドは言うが、誰も同意することはできない。中身のわからない物に命を託せない。しかし、見ようという話にはならない。見てしまえば本当に後戻りできないのではないかという恐怖感が勇気を奪っていた。
「てめぇ、正気か!? 相手は殺し屋だぜ?」
「落ち着けよ」
涼しげにエドは言うが、決して落ち着ける状況ではない。
「落ち着けるか、馬鹿野郎! おめぇが落ち着け馬鹿野郎!」
ジムの言う通りだった。アルドとしてはエドが落ち着いていられるのが不思議だった。ジムは彼が冷静なようで頭がどうかしてしまったと思っているのかもしれない。いや、彼が取り乱したら、それこそパニックになっていただろう。
「レグルスはずっと南の秩序を守ってきた。中央の犯罪が少ねぇのもレグルスのおかげだって話だ」
結局のところ、エドが何を言おうと彼らにとっては噂に過ぎない。どこかで脚色され、歪み、真実から遠離ったものでしかない。
彼が考えていることは危険すぎる賭け、縋るにはあまりに頼りない藁だ。
「東、西、北、どの組織だって中央の秩序だけは頑なに守ってやがる。他に侵略もしねぇ。それはわかる。だが、南だけはやべぇ。レグルスは絶対に信用できねぇ」
街で最も治安が悪いとされるのは南であり、全てレグルスのせいだとジムは考えていた。ヘルクレスに縄張りを荒らされるのもその悪行故になのだと。
なぜなら、東のアルデバラン、西のアンタレス、北のフォーマルハウト、その全てはレグルスに比べれば平和に思えるからだ。
エドは不意にくるりと振り返る。その視線の先にいるのは一人カフェ・ラッテを飲む少女だ。彼女はアルドと同じように会話に入れずにいた。元々、いつもここへ来る時は一人で誰かと話すわけでもない。
妙な空気になってしまったこと、何より恐ろしい話に発展していることにアルドは彼女を連れてきたことを後悔していた。アルドが半ば強引に誘ったようなものだった。
「お前はどう思う?」
「私は……」
エドに問われ、困ったように少女は俯く。アルドは初めて注文以外で彼女の声を聞いた気がした。
「つーか、おめぇ、なんて名前だ?」
些か不躾にジムは問う。
常連客という仲間意識はあるものの、彼らは彼女の名前を知らなかった。いつも赤い服だからローズ、彼らのネーミングセンスはその程度である。
「ベティーです」
「俺はエド、この怖いオヤジはジム、ベビーフェイスはアルド。で、マスターのフレディさん」
エドは順に紹介していったが、意図がわからずにアルドはジムと顔を見合わせた。
「今更なんだよ?」
「俺らはもう運命共同体だってことだ」
「運命共同体……?」
「全員レグルスの保護を受けるべきだってことだ」
顔を顰めるジムに対してエドに迷いはなかった。
非現実的な出来事としてしか考えられない彼らの中でエドだけが現実を見ているのかもしれない。全員の安全を考えた結果、レグルスの名前が出てきたのだろう。
「ベティー、おめぇもなんか言ってやれ」
話を進めていくエドについていけないとばかりにジムはベティーを見る。しかし、少女は助け船として期待するにはあまりに頼りない。
「私はヴィオレッタさんにもお会いしたことないですし、なんとも……」
注目が集まる中、ベティーはゆっくりと口を開くが、救いにはならなかった。
赤の美少女と紫の美女は出会ったことがない。彼らが考えてもいなかった。二人ともよく店に顔を出すのだから一度や二度、顔を合わせているはずだと当然のように思い込んでいた。
「そうだっけか?」
「そう言えば……二人が揃ったのを見たことがない気がします」
アルドの記憶を辿っても二人が同時に存在した覚えがない。元々、女性客の少ない店で少女の存在は目立つ。それぞれ色の名前で命名された二人が揃えば記憶に残るはずである。
「それに、組織のことも……」
そう言って俯いたベティーがアルドには気の毒でならなかった。
彼女のような少女が組織のことを考えられるはずもない。アルド自身がそうだ。
「っていうか、警察に言えばいいんじゃないですか?」
そもそも、自分達でどうにかしようとすることが問題なのだ。どうして、そう単純なことをエドが提案しないのか。彼もやはり混乱しているのか。アルドには不思議でならなかった。
死者に託されたものが危険な物かもしれないと知ってしまった今となっては、そうすることが至極当然であるはずだ。
「今日までに警察が何かしてくれたか?」
エドの声音は冷たく、まるで罪を問い詰めるかのようである。その目は決して警察など信用しないと言っているかのようだ。
「それは……」
アルドには答えることができなかった。
心は未だに現実を受け入れることを拒んでいる。ウェーズリーの死も、ヘルクレスの影も、レグルスという組織の存在さえも。
「いいか、これは警察如きにどうにかできる問題じゃねぇ。あの武力に対抗できるのはレグルスしかいねぇんだよ!」
遂に痺れを切らしたのかエドはいつになく感情的になっていた。だが、ジムも冷静ではない。
「おめぇがレグルス贔屓なのはよくわかった。だが、冗談じゃねぇ。犯罪者の世話になんかなれるかってんだ!」
いつもは気の合う二人も今は互いに譲れないものがある。だから、その衝突は激しいものとなるだろう。
「二人とも! 落ち着いてください!」
今にも掴み合いそうな二人をアルドは必死に宥めようとしたが、その声は届いていなかった。




