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24/7 - Twenty Four/Seven -  作者:
第三章
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静穏の檻 010

 元の部屋に戻ったエルザは手早く自分の服に着替えた。

 やはり、黒の方が落ち着く。彼が死んだ時にはもう一度これを着て葬儀で笑ってやろうかと思いながらもワンピースをゴミ箱に投げ捨てた。

 〈ロイヤル・スター〉と呼ばれたのは昔のことである。お伽話と化している。それでも、その意思が引き継がれていることをエルザは信じたかった。

 星海では駄目なのだ。彼はフォーマルハウトを体現できるような男ではない。彼がその座に就けばエルザは彼を連れて行くことができなくなる。また、マリアもいつまでもここにいさせるわけにはいかない。

 これほどまでに苛立ったのはエルザにとっても久しぶりだった。兄と決別した時でさえ、悲しみの方が強かった。今はただ悔しくて仕方がなかった。


 廊下に出れば、眉根を寄せた星海が立っていた。

「帰る」

「しかし……」

 エルザが不機嫌を露わに言えば、星海は些か困惑した顔を見せる。彼の中でまだ命令は続いているのだろう。

 彼はよくも悪くも実直な男だ。

「アナタの主人はお許しになるわよ。きっとね」

 たとえ、星海が立ちはだかってもエルザは倒してでも進んだ。今はここから出ることが優先だ。

 だが、フィリップはもうあの馬鹿げた命令を続ける気はないだろう。

 そして、マリアが現れるが、もうエルザが喧嘩腰になる必要はなかった。

 マリアは険しい表情で星海を見る。

「星海、エルザお嬢様をお送りなさいませ、フィリップ様のご命令で御座います」

 軟禁命令の解除である。これ以上留めておく意味もない。

「御意」

 星海は頷く。彼は疑うわけでもない。

「くれぐれも狼になどなりませんように」

 マリアは釘を刺したつもりらしかったが、星海は狼になれるような男ではない。

「アナタの方がよほど節操がないと思うけど?」

「あらあら、わたくしは合意でしか致しませんわ」

 マリアは怪しげな笑みを浮かべるが、エルザは冷たくあしらう。そういう冗談は本当に嫌いなのだが、彼女は半ば本気だから質が悪い。

「年増が何を言ってるのよ」

「まだまだわたくしは若いですわ」

「今、三十五だっけ?」

「わたくしは二十五歳のピチピチで御座います」

「大嘘を吐くんじゃないわよ。ふざけるのは格好だけにしてくださる?」

 張りのある褐色の肌にウェーブのかかったボリュームのある黒髪、若々しく見えるが、彼女の実年齢をエルザは知っている。

 知らなければ彼女の自己申告を信じたかもしれないが、そもそも彼女のメイド服姿が悪い冗談なのだ。

「ねぇ、シン。知ってる? この女、実は」

 エルザは当て付けに彼女にとって不都合な真実を明かしてやろうとしたが、遮られた。

「あらあら、エルザお嬢様。お喋りはほどほどになさってお帰りになりませんとお肌に悪いですわよ」

 マリアはどこからともなくトンファーを取り出し、ビュンビュンと回して威嚇しながら微笑んでいる。

「お肌を気にするのはアナタの方でしょ? 三十五歳」

 耳障りな音を聞きながらエルザは冷めた目でマリアを見た。低レベルな争いだが、散々タブーを口にされた仕返しでもある。

「お帰りになりたくないのならわたくしのお部屋にお泊まりなさいませ。レディーらしさというものを一晩で教えて差し上げますわ」

 吐き気がするほどの笑みを浮かべてマリアは言う。

「もう間に合ってるわ。アンドレアに教えてもらったから」

 ピタリと風を切る音が止まった。マリアが硬直している。

「……わたくし、アンドレアは殿方の名前だと思っておりましたが、女性で御座いますわよね?」

 名前にあまり意味があるような土地でもないが、マリアはどこか恐る恐ると言った様子だった。

「今はね。当時は男だったけど」

 エルザは彼女の希望をあっさりと裏切る。それが事実なのだからどうしようもない。

「あぁっ、なんてこと! いけません! わたくしが再教育して差し上げますわ!」

「黙りなさいよ、アバズレ。少なくともあの人はアナタよりはずっと気高い女よ」

 この世の終わりとばかりにマリアは叫ぶが、エルザは一蹴して、星海の腕を引いた。

 彼が戸惑うのも気にせず、出口を目指した。



 外はすっかり暗くなっている。

 星海には申し訳なさを感じる。全ての責任はフィリップにあるのだとエルザは思おうとした。

 今日の自分はどうかしているのかもしれない。それでも、冷静さを欠く要因がここにはあり過ぎた。

 このフォーマルハウトにおいておそらくもっとも良識であるはずの星海でさえその一つであった。


 星海の車の助手席に乗り込み、エルザは来た時と同じようにポケットに手を突っ込む。

 違うのは今度は思い出すためでも確かめるためでもないということだ。

 引っ張り出し、キーを差し込もうとしていた星海に差し出す。

「ずっと、返そうと思ってた。どうやったら返せるかわからなかったけどね」

「これは……」

 エルザの掌には青い石が輝くペンダント、彼が歌姫リゼットに与えたものだった。

 今、言わなければもう機会はないかもしれない。だからこそ、エルザは自分がリゼットであったことを明かそうとした。

「ゴメン、騙すつもりはなかったなんて言っても信じてもらえないかもしれないけれど」

「否……」

 あの時のエルザは彼がフォーマルハウトの人間だとは知らなかった。

 否、本当はどこかではわかっていたのかもしれない。

 彼がただ者ではないとはわかっていたのだ。それでも、自分のプライドを守るために、本当は〈黒死蝶〉で人身売買組織を追っていたのだと明かすのは賢明ではないと考えていた。

「アナタのこと、知らなかった。近付くつもりなんてなかった。知っていたら、多分、近付かなかった」

 それは弁解なのか、とエルザは心の中で自分自身に問いかける。真実を口にしたところで信じてもらえないことには慣れていた。

「偶然だ。自分があの店に行ったのは誰の導きでもない」

 星海は断言する。

 彼はあまりに誠実だった。その生い立ちがいかなるものであっても彼はこの世界には似合わない。

 それがアル・ディバインの関与によるものではなく、本当に偶然ならばあまりに残酷なものだ。

「彼女はアタシであってアタシでない。だから、返すわ」

 エルザはペンダントを差出す。これを返せば彼との繋がりさえ切れるように錯覚している。

 それでも、どこかで自身を苛む物から解放されたかったのかもしれなかった。

「自分は彼女の歌に惹かれた。そこに嘘も偽りもないだろう」

 首を振り、星海は頑なに受け取ろうとしない。いっそ、ポケットに放り込んでやろうとした手は掴まれ、より強く握り込まされるだけだった。

「いい人ね、本当に」

 苦笑を漏らしてエルザは返すことを諦めた。彼もなかなか頑固だ。


「あれから、またあの店に行った。店主はひどく困っていた。前の歌姫が戻ってきたそうだが、ピアニストも辞めたそうだ」

「あの人、その前の歌姫を散々雌豚って言ってたもの」

「彼女の家も訪ねたが……」

(もぬけ)の殻だった、でしょ?」

 エルザはすぐに隠れ家を引き払った。店への連絡もアル・ディバインが済ませていた。

 カリナが辞めたことまではエルザも把握していなかった。あれからあの店へは一度も行っていない。近付く理由もない。リゼットはアル・ディバインの駒でしかなかった。

「だが、今は、彼女が貴殿であって良かったと思う」

 どうして、そんなことが言えるのか。じっとその顔を見ても窺い知ることはできない。

「幻の女がガラガラ音を立てて崩れ去って喜ぶ男なんていないと思うけど」

「崩れ去ってなどいない」

 エルザは星海の怒りというものを知っている。研ぎ澄まされた刃のような静かでありながら冷えた感情をリゼットとして見ている。

 今の彼からはそれが感じ取れなかった。

「アタシは多分、アナタが思ってるような人間じゃない。結構、アナタの主に酷いこと言ったのよ?」

「自分は死期を知ったフィリップ様を前に何も言うことができなかった……自分は浅ましい男なのだ。忠誠を誓いながら、いつからかフィリップ様の言葉に疑問を持つようになっていた。この街はフィリップ様が言うように本当に平和なのだろうかと」

 北が平和に見えるのは間違いない。それが見せかけであるのもまた然りである。

 どこも一見すればそれほど治安が悪いようには見えないが、深い部分に目を向ければ確実に悪はいる。ここは間違いなく掃き溜めの街なのである。捨てられた者、自らを捨てる者が集う場所だ。

「人身売買の事実を目の当たりにした時、自分はフィリップ様に進言するつもりだった。だが、迷う内にギルバート殿からの呼び出しがあった。そして、貴殿の話を聞き、偽りがないことを知った時、フィリップ様も心を動かしてくれると思ったのだ」

 星海の告白は続いた。彼がこれほど喋るとはエルザとしても意外だった。しかし、何を言えばいいのかは考えてもわからなかった。

「それでも貴殿が負い目を感じると言うならば、自分のために一曲だけ歌ってくれないか?」

「……あの場所に連れてって」

 自分にとっても救いになるだろうか。考えながらエルザは星海の申し出を受けることにした。

 定まらなかった行き先も決まった。二人だけにわかる場所、そこで、やっと終わるのかもしれない。

「了解した」

 問い返すわけでもない。彼は微笑むわけでもないが、わかっているのだろう。



 目的地に向かう間はどちらも何も喋らなかった。

 星海は来た時と同じようにクラシックをかけ、エルザはペンダントを握り締めながら窓の外を見ていた。


 やがて到着したのはあの倉庫だ。何事もなかったかのようだったが、確かにあの時の光景がそこにあった。

「ねぇ、サイモンはどうなったの?」

 今なら聞いてもいいだろう。エルザは問いかけてみるものの、星海は首を横に振った。

「自分にはわからない。あの後、戻った時には既にこの状態だった」

「そう……なら、きっと、あの人の仕業ね」

 フォーマルハウトが関与していないとなれば可能性は一つしかなかった。サイモン達が逃げたわけではない。妙に連絡が早かったのも、上出来だと言ったのも最終的には自分で持っていったからなのだろう。


「リクエストは?」

 中へと進み、立ち止まるとエルザはくるりと星海を振り返り、問いかける。

「貴殿に任せる」

「アタシ、形から入るタイプだから同じようには歌えないかもしれないわよ?」

「ならば、貴殿の歌を聞かせてほしい」

 エルザは彼の好みを考えて途中でやめた。

 今、自分が歌いたい歌を歌おうと決めた。それこそが彼の望みのような気がした。

 人身売買組織に使われていた倉庫はコンサート会場と言うには情緒がないが、今の二人に十分すぎる空間だった。たくさんの観客も歓声も拍手もいらない。彼だけがその歌を聞いていれば良かったのだから。

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