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24/7 - Twenty Four/Seven -  作者:
第二十六章
244/245

天使を知る者 001

 誰かの腕に抱かれている。その腕は力強くも優しい男のものだ。時折、髪を撫でられるのが心地良い。誰も与えてくれなかった愛を惜しみなく与えられている気がする。

 彼の腕の中でだけは眠ることができない。

 幸せというものが理解できない。彼の腕の中にあるとも思えない。自分と同じかそれ以上に血に染まった腕にこそあり得ないものである。

 これは兄である。けれど、兄ではない。

 彼は兄の代わりだった。否、兄こそが彼の代わりであったのかもしれない。

 その顔が見えない。思い出せない。名前も。思い出すことができさえすれば大事な部分にアクセスできる。どうにかその顔を見ることができないかとしたところで拒絶するかのように夢は終わってしまった。


 目が覚めて、身を捩ろうとして痛みが走る。全身が怠く、重い。最悪の目覚めだった。

 痛む頭を押さえたところで室内に動く気配があった。自室ではない。そして、いつものように周囲を探る余裕もなかった。

「やっと、起きたな」

 声が聞こえた。男の声である。部屋の隅に彼はいるのだろう。聞き覚えのある声だが、聞こえるはずもないものである。敵意は感じられない。

 だからこそ、エルザは体を動かそうとするが言うことを聞かない。痛む頭のせいで吐き気さえ催す。

「やめとけ、医者を呼んでくるから寝てろ」

 制する声ははっきりとして、結局、またエルザはベッドに体を預ける。どうやら、ここは本家ではないらしい。

 しかし、どこかはわかる。〈藪医者〉のところに送り込まれたのだろう。彼が出向けば良いだけのことだ。元々、彼は本家に出入りしていた。だからこそ、理由はあるのだろうが、今、ここで彼に問うことではあるまい。

「リッキー……?」

 その名は極自然にエルザの口から漏れた。

 このまま彼を行かせてしまえば消えてなくなってしまう気がした。

 だが、どこかではわかっている。彼は幻影ではない。ひどい怠さが生きている実感をくれる。

「……ううん、違うわね。同じ場所に逝けるはずがないもの」

 もし、あの世だとしたら、彼と同じ世であるはずがない。彼は天国に行けるだろうが、エルザは違う。

「同じ穴の何とかだと思うけどな……」

 その呟きにどんな意味が込められていたか、エルザにはわからない。ただ、彼が近付いてきたことはわかった。

「調子は?」

 見下ろしてくる顔はやはり動悸がするほどリッキーことエリック・アストンを思わせる。

 けれど、彼ではあり得ない。彼の死を受け入れていると言えば語弊がある。

 しかしながら、彼だと思い込むほどエルザの脳は馬鹿ではない。よく見なくとも目の前の男とエリック・アストンは瓜二つでもない。どこか似ている、面影を感じさせる、その程度でしかない。

 何より彼はエリック・アストンのように笑っていない。同じように笑っていたなら、また違っていただろう。

「だるい」

 エルザはそれだけを答える。説明するのは面倒であり、彼にすることでもない。

 嘘でも元気だと言ってやるほどの間柄でもない。ここにいる以上、彼も状況はわかっているのだろう。どういう事情で彼がここにいるのか、エルザにはまるでわからないが。

「まあ、少しぐらい話はできるか」

 いいよな、と彼は呟く。それはエルザに許可を求めるというよりも自身を納得させるためなのようだった。それでも、エルザは頷く。

 彼と話をしたかった。このまま〈藪医者〉を呼びに行かせてしまえば機会を失うかもしれない。目覚めてしまったのだからエルザにはやらねばならないことがある。それこそ、山を成しているかもしれない。

 それでも、せめて今はまだ夢の中でいたいのかもしれなかった。

「目覚めないかと思った。三日も眠ってたんだ」

 三日、考えてしまえば気が遠くなりそうになる。

「まあ、理由はわかってるよな」

 死に損ない、眠り続けた。無茶に無茶を重ねた結果、高熱が出たことまではわかっている。それが三日も眠るはめになるとは思いもしなかった。

「みんな、交代で見張ってたが、なかなか起きねぇし、仕事やら心労やら……」

 彼は逡巡するようにしてからエルザを見た。言わなくてもわかるだろ、と言いたげだ。確かにわかるのだ。脳裏に何人かの顔が浮かんで消えた。

 あれから三日、考えれば頭が痛むが、レナードは戻っていないだろう。戻るはずがない。レグルスは今やエルザのものだ。そういうことにされているだろう。

 偽りの王座を手にして、エルザが沈黙しようと元々は家出をしていた。中でのことを部下に任せ、自身は外で活動を続けていようと不思議ではない。

 きっと、ロレンツィオがうまくやっているだろう。エルザが倒れたからと言って漁夫の利を得ようとするような男でもあるまい。今回のことでわかったのだ。彼は信用できる。黙っていない男達もいるはずだ。

 何より問題はすぐ目先にある。レグルスの状況を彼に問うても無駄なことであるし、彼のことが知りたかった。

「それで、アナタは死神?」

「ちげーよ。天使でも悪魔でもない。多分、な」

 後半は彼自身もわからないと言いたげであった。その陰りの意味を問うことはできないだろう。

「名前、教えてくれる?」

 彼はエリックではない。誰かも見当がついている。それでも、彼自身から聞くことに意味があった。

「フレッド、フレッド・アストン。リッキー……エリック・アストンの弟だ」

「フレッド……」

「遅くなったが、初めまして」

 彼はエリックのように人懐っこい笑みを浮かべるわけではない。

 そして、エルザも「初めまして」と笑みを返してやれるわけではない。確認したいことがあった。

「前に遠くからアタシを見てたわよね?」

 ヴィットリオが訪ねて来た時、エルザは彼を見た。一瞬のことだった。彼は物言いたげにエルザを見ていた。

「幽霊でも見たような顔だった」

 からかうような口調ではない。どこか何かを悔いるような表情に見えたのは気のせいか。

 あの時は確かにそう思ったのだ。〈亡霊〉が現れた、と。

「届いて良かったよ」

 これ、と彼はサイドテーブルから取った物をエルザへと見せる。

 誰が持ってきたか。まるで供え物のように色々な物が置かれている。その中にそれはあった。

 ご丁寧にフレームに入れられているのは写真だ。それこそ本物のエリック・アストンと偽物のエルザ--カルミナが並んで映っている。

「お節介な死神が届けてくれた」

 ラブレターなどと称して渡してきたのはオルクスだった。

 元々、彼が持っていたものなのかもしれないが、どこがどう繋がっているかなどエルザにもわからないものだ。それを問うつもりもない。何もかも明らかにすれば良いということではない。

「そっか……」

 間があった。彼の表情を窺い知ることはできない。逡巡しているかのようだった。

「それを渡したかった。話をしたかった……」

 フレッドは言い淀む。これで彼の目的は果たされただろうか。否、彼の中には複雑な思いがあるだろう。

 彼もわかっているはずだ。目の前に兄の仇がいる、と。

「アタシはまだ死ぬわけにはいかないから」

 エルザは先に言ってやることにした。彼を見ることはできない。

 今ならば、彼でもエルザを手に掛けることができる。眠っている間にそうしなかったのは言いたいことがあったからなのかもしれない。卑劣な行為だと思っただろうか。

 尤も、エルザも今死ぬわけにはいかない。やり始めてしまった戦いがある。始まったばかりのそれを投げ出すわけにはいかない。だから、彼に殺されてやることは今のエルザにはできない。

「だから、この戦いが終わった時にまだ生きていたらアナタがトドメを刺して良いわ。まだ終わっちゃいないんだし」

「何だ、それ」

 フレッドは一笑に付す。その意味を正確に読み取ることはできない。エルザは悪い方向にしか考えられない。

「アタシがリッキーを殺した」

「殺してねぇし、死なせてもいねぇよ」

 彼はどこまで知っていると言うのだろうか。強い否定の言葉にエルザは何も言えなくなる。

「……兄弟がいるなんて知らなかった」

 知っていたら、もっと打つ手があった。償いはしなければならない。

「俺の中で兄貴はとっくに死んだ人間だったよ」

 ぽつりとこぼれた言葉は独り言だったのか。拾い上げることはエルザにはできなかった。聞いてしまうことが怖かったのかもしれない。

 罪ならば数え切れないほど犯したのにエリック・アストンのことはエルザの中で大罪に分類される。忘れることなどできるはずのない罪だ。

「償いはする」

「必要ねぇよ」

 突き放すような言葉だった。悪い方向にしか考えられず、エルザは彼を窺うこともできず、ただ天井を見上げる。

「兄貴が死んだことにあんたは関係ねぇとまでは言えねぇが、あいつが自分で選んだことなんだよ」

 そっとフレッドはフレームを元に戻す。彼もその裏のメッセージを知っているのかもしれない。

「アタシは彼を騙してた」

「わかってたよ、最初から」

「最初からアタシは彼のことがわからなかった」

「俺もわからねぇよ」

 わかってる風な口振りの次は否定をする。

 エリックとエルザは他人だが、フレッドは血の繋がった兄弟だ。わからないはずがない、とは言えない。エルザも兄のことがわからない。

「彼を殺すために近づいた」

「死んだことにするためにだろ?」

 言われてエルザはドキリとした。なぜ、彼がそれを知っているのか。エルザの言う「殺す」には二種類あると言われる。どちらにしてもエルザは殺すとしか言わないが、聡い者は気付いている。

 アダムもそうだった。彼の入れ知恵によってアルドでさえ知っている。

 ならば、誰がこの男に教えたと言うのか。

「俺、ヴァレンティノ兄弟に会ったよ。別々に、だけどさ」

 その名が出た瞬間、エルザは納得した。

 イグナツィオ・ヴァレンティノとヴィットリオ、どちらもエルザの部下である。イグナツィオはエリックが死んだ日も運転手として側にいた共犯者だと言える。彼はエルザのやり方をよく知っているだろう。

 ヴィットリオにも入れ知恵をするような人物ならば何人か心当たりがある。

「……兄弟揃ってお喋りで嫌になるわ」

 何を語ったかは知らない。聞こうとは思わない。組織の人間でないからと言って漏らして良いことだと思っているのか。

「まあ、責めてやるなよ。どっちもあんたのこと、思ってるのは間違いねぇ」

 本当にそうだろうか。この男のためではないのか。弟を持つ兄として、兄を持つ弟として、それぞれ何か思うところがあったのかもしれない。エルザにはわからないことだった。

「兄貴の方は正直こえぇけどな」

 フレッドは笑ったようだった。

「ただの陰気な髭じゃない」

「そりゃあ、あんたに絶対の忠誠を誓ってるんだから背くこともねぇだろ」

 エルザには決して向けられることのない怖さだとでも言いたいのか。

「とりあえず、そろそろ医者呼んで来ないとな」

 彼はエルザが目を覚ました時、すぐに〈藪医者〉を呼べるように見張りをしていた。けれど、すぐにそうしなかったのはエルザが引き留めたようなものだ。いつまでもそうしていられるわけでもない。

「いなくならない?」

 彼の目を見ることができたなら、もっと強く引き留められたかもしれない。けれど、エルザの中にある恐怖心がそれを拒み、フレッドもまた躊躇っているようでもある。

「いなくなった方がいいんじゃないか?」

「そんなことない」

「でも、あんたに俺とお喋りする暇があるかな?」

 あれから三日も経っている。彼も嘘は吐くまい。これからエルザはその時間を取り戻さなければならない。彼のために裂ける時間は限られている。

 〈藪医者〉が来てしまったら仕事の始まりだ。

「連絡先、教えていくよ。デートしたくなったら、いつでも誘ってくれ。俺はフリーだ」

 どこか兄エリックを思わせる言い方にエルザは笑えない。

「ただし、施しは受け付けねぇ」

 ひどく強くはっきりと彼は言う。エルザのやり方を知っていて言っているのだろう。

「兄貴は何の罪もなく殺されたわけじゃねぇ。たとえ、手を下したのが違うやつでも、罰は受けた。それについて俺があんたを責めるのは違う。あんたの罪の念によって俺が援助を受けるのは間違いだ」

 フレッドの意志は固いらしい。目を見ずともわかることだった。

「どんな手回しも必要ない。そんなことしやがったら、俺はあんたを殺すくらいのつもりで金を返しにくるからな」

 ギシリとスプリングが軋む。フレッドが顔の横に手を突いたからだと気付くまでに少し時間を要した。

 彼の顔がすぐ目の前にある。けれど、色っぽさなどない。射抜くような目に込められた意味は脅迫であるだろう。

 裏社会にその名を轟かせ、大人の男達さえ震えさせたエルザでさえ一瞬恐怖を覚えるような気迫に満ちている。だから、エルザは寝たまま肩を竦めて両手を上げるのだ。

「オーケー、わかった、降参。絶対にしないって約束する」

「わかればよろしい」

 満足げに笑んでフレッドはベッドから手を離す。そうして、今度こそ〈藪医者〉を呼ぶために部屋から出て行った。

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