悪の華は咲き誇る 007
シャワーを浴び、エルザはヴェナンツィオが用意した服に着替える。
彼が何を意図したかなんとなく察しながら。
防弾コルセットに特殊繊維で作られたフィッシュテールのスカート、ロンググローブ、上着、いつもとは違う。
獅子のバックルの白いベルトはいくつものポーチがついている。今まで使っていたものではない。〈狂犬〉との戦いの時だってそうだった。けれど、何も聞けずにいた。
エルザのオーダーは常に黒だ。ベルトとコルセット以外はその通りである。今までは黒いコルセットが用意されてきた。
否、青いコルセットのせいで全てがおかしなように感じるのだ。ベルトは問題ではない。
レグルスにおいて青は特別な意味を持つことがある。
エルザやレナードの瞳の色、レグルスの象徴である獅子も青い目で描かれる。初代レオポルド・レオーネもまたそうであった。
それとは別に『セレナブルー』という言葉がある。エルザの母セレナが好んで青いドレスを着たことに由来する。
つまり、そういうことなのだとエルザは思う。
長い金髪のウィッグも用意されている。被って見ればまるで紛い物の〈聖母〉である。
〈聖母〉になれと言っているのか、その偶像を壊せと言われているのかはわからない。
預かり期間は終了だとばかりに巾着も返されていた。彼が中身を見たかは知らない。エルザも見るなとは言わなかった。
以前に星海から貰った青いペンダントである。それを首にかけて、完成された気がした。
病室に戻ればイゾルデとヴェナンツィオが待っている。
「すぐに出撃しても構わない?」
問えば、イゾルデがさっと挙手した。
「私、エルザさんの足になります!」
エルザにはありがたくない申し出である。
自ら志願したとは言っても黒獅会の連絡係のおまけのおまけを運び屋に使うというのも間違っているとエルザは思うのだ。
「トランクに死体を入れても?」
「えっ……」
「見せしめだろ? さっき、入れてきた。鍵、返す」
エルザはイゾルデに断らせるつもりだったが、物事は既に進行していた。ヴェナンツィオが車のキーをイゾルデに投げる。さすがに抜かりのない男である。
「しょ、しょんなぁぁっ! いつの間にとったんですかっ!?」
見事にキャッチしながらもイゾルデはパニックを起こしている。死体はエルザの冗談である。尋問したヴェナンツィオもまさか殺してはいないだろう。
こうなれば、うるさいこの女をエルザは運転手として使うしかないのである。
「死体遺棄とか嫌ですよぉぉぉぉぉっ! 共犯になりたくないですぅぅぅぅぅっ!」
エルザは運転手の叫びを無視してその腕を掴んで歩き出した。
無理矢理、イゾルデを引っ張って車まで案内させたエルザは愕然とした。
期待はしていなかったが、それ以上に彼女の車はエルザを失望させた。
可愛らしいフォルムの水色の車である。
戦地に向かうならばもっと良い車が良かった。そんな我が儘を言いたくもなる。
イグナツィオの高級車ならば文句はなかったが、彼はジュガと共にあちらに拘束されてしまったらしかった。
「で、でも、トランクの中にはし、死体が……ぐすっ」
トランクの方にをちらりと見て、イゾルデはガックリと項垂れた。
「そうよ。下手な運転すると動き出す死体が入ってるんだからね」
「ぞ、ゾンビですかぁっ!? うわぁん! こんなことなら大人しく姉さんのパシリをしているんでした……」
しょんぼりしながらも自らの役目はわかっているのかイゾルデは運転席に乗り込む。
イゾルデの車のシートに体を預け、エルザはやはりイグナツィオの車を思い浮かべる。あれこそ地獄へのドライブに相応しい。
所有者も運転手も関係ない。高級で乗り心地が良いからでもない。単純に美しいからだ。
だが、そんなことを思ったのも一瞬、すぐに冷たい感情がエルザを支配していく。怒りが血管を通り、身体の隅々まで行き渡る。
イゾルデは何も言わなかった。それだけ運転に集中しているということだ。
平和だが、平和ではない。気の抜ける出陣、文句の言える立ち場ではないが、味気ない。
いつだってそうだ。何かが確実に足りない。その血を熱く滾らせてくれるような何かが。
あるいは、それを感じられない自分の方に欠陥があるのかもしれないとエルザは思うようになっていた。
本部周辺は静まり返っていた。
嵐の前の静けさ、全ては自分が壊すのだとエルザは知っていた。
全てを敵に回す気でここにいるのだ。そして、エルザは覚悟を決めて上着を脱ぎ、車から降りる。
「死体、出して」
ドアを開けて、エルザが言えばイゾルデの顔は明らかにひきつった。
「ま、マジですか……?」
イゾルデは忘れたかったのかもしれないが、そんなことはエルザが許さない。
それはこれからエルザが起こす反乱には必要であった。
そして、イゾルデは渋々トランクを開ける。
「こ、これって本当に……?」
悪い冗談であることを期待していただろうか。彼女の期待とは違うが、本当に悪い冗談である。
「そうよ。死体袋よ。それ以外に何に見えるのよ?」
些か窮屈そうにボディバッグがトランクに収まっていた。
「人でなし!」
「組織の連絡係のおまけのおまけが殺し屋に何を言うのよ?」
わかりきったことにエルザの心が痛むわけでもない。彼女もまた人でなしの子かは知らない。けれど、関わっているのだ。
「さあ、担いで。行くわよ」
エルザはそれを一瞥すると、くるりと背を向ける。一見すればただの日傘にしか見えない黒いレースの傘を開いて歩き出す。
その場所は今が争いの時であることを忘れるほど美しい庭園だった。とりわけ薔薇園は別世界を思わせる。
今日は庭師のジークフリートの姿もなく、静寂に包まれている。
しかし、そこに悪魔はいた。花を愛でる趣味などあるはずもない、そう思いながら本物の悪魔はゆっくりと近付くのである。
「シモーネ、シモーネ・デ・サンティス」
呼びかければ彼が身を堅くしたのがわかる。未だ彼の闘争本能は消えていないらしい。
あるいは、いつもと違うエルザの声音に故人の面影でも感じたか。
「随分と好きにやってくれたわね」
エルザはニコリともせずに言った。見ていようといまいと今は笑えない。仮面の顔を張り付けている。
「貴様は……!」
振り返ったシモーネの顔に驚愕の色が浮かぶ。死者は蘇らない。どちらにしても彼は幻想を抱いたということだ。
そして、シモーネの目がイゾルデへと移る。彼女が重そうに担ぐ物に気付き、想像を巡らせているだろうか。その中身こそ彼が全てを託した愛しい孫娘ならば、この現実は悪夢以外の何物でもないだろう。
本来ならば、そうなるのはエルザの方であったはずなのだから。
「葬られたはず? やはり、お前は浅はかだわ」
はっとしたようにシモーネは仕込み杖に手をかけた。だからこそ、エルザは傘を下ろして閉じ、柄を回す。先端から現れるのは刃である。
彼が常に仕込み杖を携帯していることはわかっている。それで何度も殴打されたこともある。だからこそ、エルザも仕込みで対抗したわけだ。
普段は隠した殺気を放ち、エルザが一歩を踏み出すとシモーネが後ずさる。逃がすつもりはない。
エルザは一気に間合いを詰め、傘を振るう。だが、シモーネには届かなかった。彼が刀によって受け止めていた。
そうでなければ面白くない。エルザは口元に笑みを浮かべる。彼が刀を抜くのをエルザは初めて見た。ちらつかされたことはある。だが、それがそういったものであると知っていた程度だ。
エルザは一度距離を取り、傘を構え直す。
「葬られるのはお前の方よ、シモーネ・デ・サンティス!」
相手が老人であろうとエルザは躊躇しない。こうなった今、彼ら〈上〉の前で大人しくしている必要はない。
彼と全力でやり合ってみたかった。全力で倒したかった。
そして、今度こそエルザは彼の喉を裂いてやるくらいのつもりだった。
しかし、殺気はまるで別方向からやってきた。銃声が響き、エルザは振り返る。
「イゾルデ!」
ドサッと重い音が響く。イゾルデの肩からボディバッグが滑り落ち、彼女も膝を付く。
彼女の白いスーツの胸に大輪の薔薇のように真紅が咲く。その向こうにシモーネの腹心の姿がある。それに気付いてかシモーネは刀を納め、去って行く。どちらにもエルザとやり合う覚悟はないようだ。
だから、エルザも追わない。どうせ、すぐにまた彼らと対面することになる。
二人の姿が消え、他に誰もやってこないことを確認するとエルザは倒れるイゾルデの側に立ち、爪先で脇腹を軽く蹴る。
「ぐえっ!」
まるで蛙が潰れたような声だが、彼女が元気だということがわかる。
エキセントリックな不良医師〈藪医者〉、あの男こそ千里眼なのではないか。そうエルザに思わせるほどに。
「寝てる暇はないわよ?」
エルザが言えば、イゾルデは不思議そうな顔をした。
「知ってたんですか?」
「卑怯な奴がやることはわかってる。だから、あの〈薮医者〉もアナタに血糊入り防弾ベストを着せたんでしょ?」
エルザがヴェナンツィオのことを理解しているように逆もまた然りだ。そして、互いに〈膿〉の汚いやり口を知っている。彼の方がより長く深く知っているのかもしれない。
要するにヴェナンツィオは彼女を的にしたのだが、そこまではエルザも言わなかった。良心の問題ではなく、単に面倒だからだ。
「せっかくのスーツが台なしです」
そもそも何を考えて着てきたかエルザには理解できない純白のスーツはすっかり汚れてしまっている。
「さあ、立って。餌は撒いた。次はおびき寄せて追い詰める番よ」
「いくら防弾だからって、ダメージはあるんですけど」
起き上がろうにも衝撃までは防げないことはエルザもわかっているが、待っていることはできない。
「じゃあ、もう帰って。ここから先は一人でいいから」
エルザはイゾルデに背を向け、そのままボディバッグを引きずって歩き出す。




