静穏の檻 009
開かれる扉の向こうにフィリップはいた。
エルザが促されるままに彼の向かいの席に座れば、マリアが食事を運んでくる。
野菜中心の見るからに健康的な料理だ。見た目だけはまともに見える。
やがてフィリップは優雅に食事を始めたが、エルザは手をつける気にはなれなかった。先程の睡眠薬のことがあったからではない。単に食べたくない。彼と食事をしたくないだけだ。
フォーマルハウトという誇り高い組織のボスでありながら卑怯な真似をした彼をエルザは許したくはなかった。裏切りなどと言うつもりはないが、真意を知る必要はある。
「よく眠れたかな?」
白々しいものだ。
エルザは問いには答えなかった。薬は効かないし、眠れもしない。
「どういうつもりなの?」
エルザは尋問するように彼を見る。
これが彼の主義ならば最早期待は捨てるしかない。自力で〈ロイヤル・スター〉を召集するまでだ。兄に迷惑がかかるかもしれないが、フィリップのせいで何をしているかは既に筒抜けになってしまったはずだ。
「私の命はもう長くはない。その間、君にはどうか私の妻になってもらおうと思ってね」
フィリップは穏やかなまま言うが、エルザの心に不穏な影をもたらすものだった。
「答えがノーだとわかっているから鳥籠に入れたの?」
病に侵されていると彼は言った。
紅茶に溶かされた彼の意図がわかった時にエルザは言いたいことを後にとっておくことにした。
今がエルザの攻撃の時である。こうなれば容赦するつもりはない。
「上辺だけで構わない。書類にサインする必要はないし、式もするつもりはないし、肉体も求めない。ただ隣にいてくれるだけで構わないんだ。そうしたら、生きている限り君の望みを叶えてあげよう。見返りは他に何もいらない」
側にいれさえすれば彼は〈ロイヤル・スター〉を動かすのだろう。
エルザには全く魅力的には思えない。彼の隣にいることこそがエルザにとって犠牲に見合わない代償だ。ほんの数年の束縛さえ永遠の呪縛のように感じる。彼が長くないと言おうとあとどれほど生きるのかは数値では表されない。
その間、きっと彼は真実に辿り着くことさえ許さないだろう。
平和な手段をとろうと思わなければ、他にやり方がないわけでもない。彼の不快な娯楽に付き合うくらいならばその方がましというものだった。彼の力というよりも肩書きを必要としているだけに過ぎない。
「言葉だけの幻想によって救われるというのなら、それほどお幸せなことはないわね」
あまりに不確かで脆いものが一体何を救うというのか。
エルザは神を信じない。無償の愛も信じない。全てはまやかし、心を毒するものでしかない。真実の愛は一つだけでいい、他には何もいらない。
「それだけが唯一の薬なんだよ。安らぎを与えてくれる」
「安らぎ、ね……アナタはアタシとは合わないわね」
フィリップの思想とエルザの思想は全く噛み合わない。
幻想によって死の恐怖を和らげようとする彼はエルザにとって逃避した者でしかない。
「約束された死だけがアタシに安らぎをくれる。なかなか訪れないそれを渇望しながらアタシは生きている」
死は生まれたときから約束されている。それだけがエルザにとって救いだった。自分でも死ぬ権利はあるのだと思えば救われた。死を目指すことは逃避ではない。
「まだ君は若い。死を望むには早すぎる」
「いいえ、遅すぎるぐらいよ」
フィリップの眼差しが厳しいものとなるが、彼に自分を非難する資格はないとエルザは思う。
「けれど、君は生きている」
「恐れはない。ただ、何も終わらせられていない今はまだ逝けないってだけ」
死を望みながら生きることは矛盾しているのかもしれない。
彼のようにその訪れを恐れながら待っているわけではない。
生きていることの方がずっと恐ろしいことだ。
「命の期限を自ら決めるというのは神への冒涜だよ」
「神なんて天上にはいないわ。冥界にはいるけどね」
咎めるフィリップに対してもエルザは全く引かなかった。折れるつもりはない。
神などエルザは信じない。それ以上にエルザは神というものを嫌悪している。
既にそこから二人は理解し合うことが不可能なほどに食い違っている。
「君は神になれるとでも?」
「所詮、人は人の枠組みから抜け出すことはできない。神になれると思い上がるのはあまりに滑稽なこと。だけど、アタシには神のオルタナティヴがいる。それだけで十分だわ」
フィリップは問うが、エルザは笑い飛ばした。唯一無二の愛だけがエルザの神だった。
「足掻きなさい。這い蹲ってでも生きるのよ。惨めでも、どんなことをしても生に縋り付くの。それは決して浅ましいってことじゃない。生きているってこと」
エルザは思うままに吐き出す。彼の立場も年齢も何もかも関係なかった。
「そうして誰もが救われると思っているのかい?」
フィリップの目が細められる。
「手術、すれば生きられるんでしょ?」
エルザとて確証があったわけではない。彼が冒されている病の名を知らない。車椅子と関係があるかも知らない。検討はついていない。
外れてもエルザが困ることはないが、フィリップはおもむろに頷いた。
「……だけど、百パーセント成功するわけじゃない」
「アナタが自分の命で賭け事ができないほど臆病だとは知らなかったわ。アタシはいつだって賭けてるのに」
エルザは挑発するように笑った。もう彼を〈ロイヤル・スター〉一人として扱うつもりはない。
いくら年月が経ち、人が変わろうとも受け継がれた誇りは決して汚されてはならない。彼が真なる星であるならば女を鳥籠に入れるような真似はしない。できるはずがない。
だから、エルザは徹底的に攻撃することに決めたのだ。
「私は君とは違う!」
終始穏やかであったフィリップもさすがに堪え切れなくなったかのように声を荒らげた。「アナタはまだ若い。ただ忍び寄ってくる死を待つことの方が希望に賭けるよりも怖くないって言うの? まだ終わらないことが終わらせることより、それほどいいことなの?」
エルザは更に挑発を続ける。エルザはまず相手を怒らせることから始めるからだ。
「君は随分とギャンブルが好きみたいだね。だが、我々は賭博の類には手を出さない」
フィリップは大人として自分が折れるべきと判断したか、肩を竦める。
確かに正調の組織であるほどカジノを運営するようなことは嫌う傾向が強い。
レグルスが特にそうだ。今は古き時代の組織のままを保っている。しかしながら、エルザが問題にしているのはそんなことではない。
「人生はギャンブルに似ている。だって、そう思わない?」
エルザとて人生を楽しんではいない。許されることではないからだ。
けれど、常に前に進むために賭けをしてきている。勝ち続けているとは言えないが、負けた分は取り返してきたつもりだ。
「予言するわ、フィリップ。アナタはまだ死なない、手術は絶対に成功する」
エルザはじっと彼を見詰めて宣言した。
「ってことで、悪いけど、アタシは帰らせてもらうわ。アナタが卑怯な真似をするなら、アタシはアナタに敬意を払ってやる必要はない。道を塞ぐならぶち破るから」
立ち上がり、放つのは宣戦布告だ。
フィリップが〈ロイヤル・スター〉として侮辱だと言えば、エルザは謝罪せざるを得ないだろう。裏社会で大物扱いされようと〈ロイヤル・スター〉とは格が違う。
だが、今の彼にはそう言えるだけの力などありはしないだろう。先に誇りを汚したのは彼だ。
「お待ちなさい!」
部屋の隅に控えていたマリアは叫ぶ。
今まで口を挟まずに堪えたことは称賛に値するだろうが、エルザは無視して力任せに扉を開け放った。
早足で部屋を出るエルザをマリアは追ってくる。
「いつから貴方様は予言者になったので御座いますの?」
マリアの口調はきついが、主人の侮辱に怒り狂って襲いかかってくるわけでもない。
「信じてないわよ、そんなもの。アタシはサイキックじゃないし、信じない。ただ一人を除いてはね」
予言者になったつもりも、なるつもりも微塵もない。超能力も霊能力も基本的には信じない。一人を信じるのはその力を見せ付けられたからだ。そして信頼している。
「なら、どうして、あんなことを!?」
マリアは亡霊であろうと今の主人を侮辱されて黙っていられるような女ではないだろう。ポーズなのかもしれないが、どうでもいいことだ。
エルザは映画の悪役にでもなった気分で笑みを浮かべて見せた。
「種も仕掛けもある。それをアナタなんかに言ったって信じないと思うけど、まあ、あんな腐った男でも死なれちゃ困るのよ。ここをぶっ壊せなくなるから。尤も、このアタシにあんな真似をした時点であの人は既に死者なのよ。せいぜい、生き返らせなさい」
あれでも〈ロイヤル・スター〉である。やってもらわなければならないこともある。それには星海では力不足である。
誰のモノにもならない。その掟を蔑ろにされた腹いせでもある。
彼が腐っていては自分がしていることが馬鹿らしく思えてくるというところでもある。
「アナタだってそう。地獄から逃げ出した亡霊さん、早くお帰りになったら?」
発言を撤回しろ、と言いたいのかもいれない。
今のエルザには何を言っても無駄だ。フィリップが支配者のしてのあり方を示さない限り引き下がるつもりはない。
もうマリアは追ってこなかった。




