静穏の檻 008
体を横たえたところでぐっすりと眠れるわけではない。目を閉じても睡魔は訪れてはくれない。
エルザは元々あまり眠らない。荒野に生き、外敵の脅威に曝されながら眠る獣のように、浅く短い眠りをとる。どこまでも自分は獣染みているのだと思いながら変えることはできなかった。
一杯の紅茶で深い眠りに落ちることができたならばどれほど良かっただろうか。薬が効くような身体ならばどれほど良かったか。
最近は疲れているようだとよく言われるようになったが、眠らないことが原因ではない。ずっと昔から続くことだ。
焦燥なのかもしれない。精神的に疲れることが続いていた。
疲労を隠しきれないのは環境の変化かもしれない。部下に囲まれていた頃は自然と張り詰めていた。彼らに無様な姿は見せられない。信用や士気に関わる。
だが、今も決して緩んでいるつもりはない。
カニス・マイヨールはエルザにとって唯一と言ってもいいほど落ち着ける場所だった。
しかし、彼らを見る度に守らなければならないという思いが重くのしかかってくる。責任感とでも言えばいいのか。
一人ではない。けれど、本当に彼らを守れるのは自分だけなのだとエルザは感じていた。早く彼らを守るための盾を完成させ、その不安を取り除かなければならない。
サイモンの件が済んだとは言っても、また時間のかかる潜入の仕事をしている。だからこそ、ずっとあの場所にいられるわけでもない。そちらもまた想定外の男の存在でややこしくなっている。
足掻いても、思い知らされるのは運命という揺り籠の中でまどろみ続ける無力な赤子でしかないということだ。どれほど必死にピースを掻き集め、はめていっても巨大なパズルの絵柄はまだ想像もつかない。
窓の向こうが闇に支配された頃、エルザは足音で閉じていた目を開け、体を起こす。
控え目に扉がノックされる。
どうせ、返事などしなくとも勝手に入ってくるのはわかっていた。鍵は外側からかけられているのだから。
そもそも、相手はまだエルザが眠っていると思っているかもしれない。
エルザは一瞬、鍵を開けた隙を強襲しようかと考えてやめておくことにした。荒事は得意で好きだが、星海ならば穏便に済ませることを望むだろう。
尤も、エルザが彼に約束したのはフィリップに危害を加えないことだけだ。
扉を開けて入ってきたのはマリアだ。彼女は起きているエルザを見たところでそれほど動かなかった。
「あら、残念。もうお目覚めで御座いましたか。折角、お目覚めのキスを、と考えておりましたのに」
笑顔でおぞましいことを言うマリアをエルザは睨む。エルザはその手の冗談を同性から聞くことを嫌っていた。組織で同性愛を禁じる風潮にあってもエルザ自身に偏見はない。
自身に向けられる恋愛感情にはいつも戸惑うが、そもそも女の扱いには常々難儀している。男ならばまだ馬鹿な男だと笑うことができたというのに。
「アタシの寝込みを襲おうなんて、男なら不能にしてやったところだけど、アナタはそうね……ここにはいられないようにしてやろうかしら?」
エルザにとって何よりも許せないのは彼女が生きていることだった。彼女は死んだはずの人間である。それは間違いなかった。
「残念ながら、今、貴女様と議論している時間は御座いません。フィリップ様がお待ちで御座います。直ちにお着替えなさいませ」
マリアは平静を保っているつもりだろうか。エルザには何もかもがわざとらしかった。
そして、ベッドの上に置かれたものを一瞥してうんざりした。
「それ、フィリップの趣味?」
「ええ、フィリップ様のご趣味で御座いますわ」
置かれたのは水色のワンピース、レースやリボンがあしらわれた少女趣味なものだ。吐き気さえ覚えながらエルザが問えば、マリアはニコリと微笑んだ。
「アナタの趣味なら破いてやろうかと思った」
フィリップの趣味であっても大人しく受け入れられるような代物ではない。ロリコンと罵りたくもなる。
彼女の趣味となれば嫌がらせ以外の何物でもない。エルザにとって不愉快な意図が込められている。
「物は大切になさいませ」
「本当はセレナ様のようなドレスをご用意したかったのですが、いくら似ていらっしゃってもまだまだ貴女様には早いで御座いますわね」
彼女は懲りずにその名を紡ぐ。それはエルザにとって最初の大罪、母親の名だ。
「似てない」
〈聖母〉と慕われたその人を殺しながら、その面影を持っていた。だからこそ。命を奪われることはなかったが、待っていたのは地獄だ。生きても死んでも地獄ならば生きていない方がまだ良かった。
罪を責め立てられるよりにも似ていると言われることの方がエルザにとっては苦痛であった。
特に彼女のように、わかっていて何度も言うような人間には殺意を覚えるくらいに。
「わたくし、セレナ様には大変お世話になりましたのよ。だから、貴女様のことはまるで妹のように……」
「着替えてほしいなら、さっさと出て行って!」
これ以上、その名前を聞かされればエルザも平静を保っていられる自信がない。
彼女がただのメイドならば抑えられたが、そうでないことをエルザは知っている。その顔を見た時にすぐに彼女が〈亡霊〉であることに気付いてしまった。
死んだはずの女、死んだことにされている忌々しい女の顔だ。本気でやり合えばお互いただでは済まない。
「あらあら、禁句で御座いますの?」
「わざとらしいのよ、アナタは。何もかもね」
クスクスとマリアは自分が優位に立っているとでも思っているのか。禁句であることは初めからわかっていたはずなのだ。
「わたくし、身内に甘いエルザお譲様はもっと人情味のあるお方だと思っておりましたが、口を開けば体に余計な穴を開けられてしまいそうですわね。まっく、嘆かわしいことで御座いますわ」
〈黒死蝶〉は身内に甘いと言われる。エルザは自分では優しい人間になったつもりなどなかった。身内に甘いというのは家風だから従っているだけのことだ。尊敬する兄がそうするからこそ倣っているにすぎない。
マリアにかけるべき情などありはしない。それこそ彼女の体に余計な穴の一つや二つ開けてやりたいが、気が晴れるとは思えなかった。
彼女の正体はエルザとそういう因縁のある人間なのだから。だが、今は彼女の問題に触れているほど暇ではない。
「命拾いしたわね。今日のアタシは丸腰なの」
取り上げられるまでもなくエルザは武器を携帯していなかった。
丸腰だからと言って、戦う術がないわけではない。丸腰である方がエルザ自身も何をするかわからない分、より危険であったのかもしれない。
「これ以上、貴女様と不毛なお話をしているとフィリップ様がお怒りになってしまいますわね」
「そう思うなら初めから口を閉じておきなさいよ。なんなら、その顎割って、鼻チューブ生活を体験させてあげてもいいのよ? そうしたら、うるさい口も閉じられて良いわね。空豆一つで鳩が二匹捕れる。素晴らしいアイデアだ」
マリアは肩を竦めたが、エルザが口を閉じる理由はなかった。そもそも、マリアに問題があるのだとエルザは思っているからこそ、自分から折れるつもりはなかった。
「どうかお着替えくださいませ」
そう言ってマリアは部屋から出て行く。エルザはとても勝ち誇った気分にはなれなかった。ただ嫌なものが心の底に澱のように溜まっていくだけだ。
渋々、用意されたワンピースを纏えば気分は更に悪くなる。少女趣味なワンピースはまるで似合わないのに笑えない。
部屋の外に出れば、マリアの舐めるような不快な視線が待っていた。
男のそういう目には慣れているが、やはり女というものはどうにも苦手だ。
男社会に身を投じていれば自然とそうなるものなのかもしれないが、どうにも嫌悪感があるのだ。
「髪はやはり伸ばすべきですわね」
エルザをフィリップの元へ導きながらマリアは言う。
確かにほんの数か月前のエルザの髪は腰に届くほど長かった。少なくとも今よりはこのワンピース姿も様になったかもしれない。
「重たくてやってられない」
またあの長さまで伸ばしたいとは思わない。本当はもっと早く切り落としてしまいたかったくらいだ。
どうやらそれを気に入っているらしい兄の手前、揃える程度にしか切ることができなかっただけだ。
「短くても、アレンジはできますわね。きっと、耳を出した方が可愛らしいですわよ」
「……これでも可愛らしいと言えるの?」
微笑を湛え続けるマリアにうんざりしながら、エルザは左の耳にかかる髪を掻き上げて見せやった。
五つのピアスは可愛らしいワンピースには不似合いだろう。エルザの心は可愛らしい少女ではない。可愛さも清楚さも求めていない。全て台無しにするだけだ。
「なっ……なんてことをなさるので御座いますの!?」
「別にいいじゃない。醜い傷があるわけじゃあるまいし」
あまりに大袈裟に驚くマリアにエルザはうんざりさせられた。
「悪いお兄様の真似をするのはおやめになさいませ!」
「兄さんの真似をしたかったわけじゃないわ。やりたいようにやっただけ」
レナードは穏やかそうに見えるが、今のエルザよりも長かった髪の下にやはりたくさんのピアスが隠れていた。エルザもあまり見せてもらえなかったせいで正確な数は把握していない。
「大体、そのメイクも……!」
今の服に普段のゴシックメイクがきつすぎるだろう。けれど、化粧を直せとは言わなかったのはマリアだ。
「あんまりうるさいこと言うなら暴れるけど?」
脅しの意味を込めれば、マリアは溜め息を吐く。目の前には扉が見えている。そもそも、エルザの相手をするのは彼女ではない。
この先にボスが待ち構えているのだから。




