十七番目の狂犬 008
パーティーなどに使われる多目的ホールに入ったところで、〈死天使〉は足を止める。
「あれがお前を雇った者か」
「ああ、そうだ」
この対面をずっと望んでいたのだと実感しながら凍牙は答える。
明かりのない薄暗い室内の前方にはソファーに座る影が一つ、彼女は静かに探っていた。それが癖であり、彼女なりに確かめようというのだろう。
「よっ」
彼女がゆっくりと歩を進めればふんぞり返って座っていた男が手を挙げる。知人に接するような気軽さである。
「久しぶりってほどじゃねーか。だからまた会えるって言ったんだ」
男は笑っている。いかにも軽薄そうに。
「なぁ、〈黒死蝶〉エルザ」
「〈死天使〉」
彼女は訂正する。
最早〈黒死蝶〉ではない。エルザの名も組織にいた頃には使われることのなかった名だ。意味などない。
レグルスのボス――エドアルドの長女などという背景は大して関係のないことだった。優遇されるわけでもなく、全てが完成した時に初めて意味を持つというだけのことだ。
結局、彼女に残されたのはナンバーとコードだけで、頂点に上り詰めた頃にはナンバーで呼ぶ人間などいなかった。
「おー、こわっ。折角の再会にそれはないでしょ」
彼は大げさにおどけて見せる。だが、その再会は〈死天使〉とではあるまい。〈黒死蝶〉との関係など〈死天使〉には関係ない。
名を使わないのが組織の掟である。元より名前のない子供もいる。だからこそ、コードこそが唯一の名であり、組織の人間にとって大きな意味を持つのだ。
「これをお前が認めたのか、〈狂犬〉」
振り返らずに問いかけてくる彼女に凍牙は見えないとわかっていて肩を竦める。
「チャラいけど、契約関係はしっかりした人だ」
確かに表面的な性格では凍牙も彼を信用できるとは言い難い。だが、内に秘めたものを知ればわかるはずである。
「それに、これからは『君』がエルザだ。違う?」
〈死天使〉の視線を受けているだろうに彼の態度は変わらない。そういうところもまた海龍の怖い部分であると凍牙は感じている。ヘラヘラ笑っているくせに内側には憎悪が渦巻いている。それこそ凍牙がついていこうと思う程度には尋常ではない。
それを察したか、単に面倒だと諦めたか。〈死天使〉の警戒も緩んだように凍牙には感じられた。
「……好きにすれば良い。狂犬が認めた男ならば私も異論はないということにしておく」
組織は既に崩壊し、掟は消え去った。いつまでも過去のものに縛られる理由も二人にはない。新しい主が望むなら、それに従うだけのことだ。今は雇われる立場であるのだから。
尤も、凍牙が認めた理由は厳密には彼ではないのだが、今、本人の前で言うことではない。
どうせ、彼女ならばいつでも相手を殺せるのだ。〈死天使〉でなければ躊躇いはしない。
「俺は海龍。海の龍。かっこいいっしょ?」
同意を求めても彼女は反応しない。凍牙もまたそうだった。
本名なのかは知らない。意味がないからだ。
「求めるものが同じである限りは命令に従うと誓おう」
「じゃあ、こっちへおいで。エルザ」
海龍に誘われるまま彼女はゆっくりと歩き出す。その表情はわからないが、彼女は〈死天使〉なのだと凍牙は信じていた。
しかし、一歩、また一歩と近付いていく、その様子を見守りながら、何か妙な感覚が背を這うのを感じた。
だが、その正体は彼にはわからなかった。
エルザは海龍の側まで行くと、差し出された手を取らずに素早い動作でその首元を掴んでソファーに押し付けた。
「何が望みなの?」
問う声は先程よりも高い。口調も〈死天使〉とは違う。それは紛れもなく〈黒死蝶〉であった。つい先ほどまでは〈死天使〉だったはずだった。今、また這い上がって来たのか。
海龍は一瞬眉を顰めるが、それ以上の驚きはなかった。
「チッ……死に損ないめ!」
凍牙は駆け寄り、エルザを海龍から引きはがし、腹部に二発の蹴りを叩き込む。彼女が〈死天使〉でないならば躊躇いなど何もない。殺すことにさえ迷わない。
だが、まだ切り札がある以上は痛め付けて思い知らせる必要があった。
「二度とこの身体を受け渡しはしない。必ず天使を殺す」
腹部を抑え、それでもエルザは憎々しげに凍牙を睨む。
その足元は覚束なくもあったし、彼女もまた己の内に在る別の自分〈死天使〉から攻撃を受けているのだろう。
自身こそが敵、簡単に殺すことは出来ない。そんな状態でよく二度と明け渡さないなどと言えるものだと凍牙は嘲笑した。
記憶の封印、それは〈死天使〉という人格の封印であったのだ。しかし、今更気付いたところでもう遅い。「お前を縛るワードが使えなくとも、手段はまだある。何度だって、呼んでやるさ。今のお前の心を崩すのは容易い」
凍牙はポケットに片手を突っ込み、指先に触れる冷たい感触を弄ぶ。チャリチャリと音を立てるそれは天使を繋ぎ止める鎖になるだろう。
エルザにとって〈死天使〉の記憶は最も脆い部分なのだから、そこを突けば防ぐ術はない。
そこにあった秘密に飲み込まれたように、すぐに死ぬことはないにしても、記憶という名の深海のそこで死に似た苦痛に喘いで消えていけば良いのだ。
「見くびらないで。たとえ、何度天使を呼ぼうと、アタシは必ず戻る。全てのノーヴァ的なモノを消し去るために。そのためだけに生きているのだから」
エルザが言うことは凍牙にはわからない部分もある。しかし、気にする必要はない。彼女は間違っているのだ。
多くの〈死天使〉を知らない人間は〈黒死蝶〉をレグルス最強と謳う。
だが、彼女の全ては〈死天使〉の上に構築されているのだから、そんなものは純粋な彼女の強さではないと凍牙は思うのだ。
〈死天使〉にはなかった自己犠牲的な生き方も、人間ぶっているようでひどく滑稽だ。それが本当に自分の意志ではないことに彼女は気付くべきなのだ。利用するために植え付けられたものに過ぎないのだと。弱らせて制御するための鎖に過ぎないのだと。
「戻れるものか。結局、お前は生かされているに過ぎない。お前の生を認めなかった穢れた獅子に利用されているだけだ。奴らはいずれお前を狩りに来る」
揺るがない瞳に苛立って、凍牙は踏み込んだ。
エルザが袖口から抜いて投げ放ったシークレットナイフは凍牙の肩に刺さるが大した効果はなかった。
元々、骨が折れようが、手足が千切れようが動ける限りは止まらないように教育を受けている。
彼女もその意志を持ってはいるが、全力で相手を殺す執念が欠落していることが問題なのだ。ただ自分を保つだけの激情があるだけでそんな彼女は強いとは思えない。
凍牙はエルザの胸倉を掴み上げ、強引に押し倒すと馬乗りになって殴りつける。この際、細かい気遣いなどしてはいられなかった。
口元に血を滲ませ、それでも自分を睨む瞳が憎かった。
衝動的に首を絞めれば、指先にドクドクと血の流れを感じる。苦痛に歪む顔、思えば、組織にはそういう趣味を持った人間がいたかと思い出す。
いつも自分の手の中で生命の鼓動が弱まり、その瞳から光が消えていくのを見るのが好きだと語っていた。 そして、彼女を殺すことが望みではないと凍牙は手を離す。
「悪しき慣習はもう要らない。この存在が死者に過ぎないのだとしても、その狂気を滅ぼすまでは眠れない。いつか裁かれるその時まで」
咳き込み、呼吸を整え、エルザは早口に捲し立てる。時間がないと感じているのかもしれない。その顔が歪むのは何も絞首の影響だけではないだろう。
今、自分を保たなければ、自分に負けることになるのだと感じているに違いなかった。
「無駄なことだって」
海龍はヒラヒラと右手を振って笑っている。
凍牙はエルザの髪を乱暴に掴んで起こすと腕を後ろ手に拘束して海龍の方を向かせる。
「アナタには関係のないこと。魂を売り渡してやるつもりなんかない」
「利害が一致する以上は関係ないなんて言わせねぇよ? 俺にだって手段はある」
一瞬、凍牙は怯みそうになった自分に気付いた。海龍の恐ろしい部分が出てしまった。
普段かけているサングラスを今は外し、その怒りが目に現れている。
彼はレグルスを、〈黒死蝶〉を憎んでいる。しかし、同一人物でありながら同一の人格ではない〈死天使〉レグルスへの憎悪でできている。だから、海龍は彼女を求めた。
〈黒死蝶〉であれば彼にとっては殺せば良いだけのことである。〈死天使〉ならば彼の復讐のための強力な刃になる。
「何が望みなの? アナタは何がしたいの?」
「君がいなきゃレグルスはお終いだよねー」
残酷に海龍は告げる。その言葉には彼女がレグルスを滅ぼすことになるという含みが込められていた。
「本当にそう思う?」
エルザは挑戦的に問い返す。
「君がいなきゃ獅子は生きていけない。君がいたからレグルスは」
「アナタは何も知らないのね、愚かな誤解だわ。あの人はアタシがいなくても生きていける。アナタが思うような弱い人間じゃない」
「美しい信頼関係だねー、そりゃあ。尚更、ぶっ壊したくなる」
軽薄さよりも残忍な面が表に出た海龍ほど面倒なものはない。凍牙はそう思っている。今はこの男の手綱を密やかに握っている男もこの場にいない。
「アルファルド」
エルザが口にするのもまた海龍の名だ。どちらが本当なのかは凍牙も知らないし、両方とも違うのかもしれない。
「あの時、アナタは敢えてそう名乗った。違う?」
二人に面識があるのは先の会話からわかっていたことだ。その話を海龍は凍牙にはしていなかったが。
海龍は答えない。
「それとも、コル・ヒュドラエって呼んでほしいの?」
尚も黙るつもりか。ソファーに座り続ける海龍を凍牙は盗み見る。
海龍、またの名をアルファルド、彼はヒュドラという組織のボスである。
「いつからわかってた?」
海龍は身を乗り出すようにしてエルザを見る。その目を覗き込むことで真実を見抜こうとするように。
「アナタがアルファルドと名乗ったから」
海龍の行動の真意は凍牙にはわからない。一緒に連れて行かれることなど少ない。暴力を禁じられ、置き去りにされるばかりだった。そもそも、遊び歩いているようにしか見えないこともあった。
「こんな状況で言うことじゃないかもしれないけど、協力してほしい」
言うべきではなかった。
心の中で凍牙は〈黒死蝶〉の愚かさをあざ笑うしかなかった。そして、海龍から目で合図を受け、彼女を解放する。
海龍は立ち上がり、エルザの襟首を掴み上げ、見下ろす。チャラついた男のようで暴力的である様をDVと称したのは凍牙ではない。だが、実際、海龍のそれは癇癪である。
だが、〈死天使〉に手をあげるのでなければ凍牙も静観するだけだ。
「俺はレグルスを潰してそれからヘルクレスに復讐する」
「レグルスと組んだ方が賢明よ」
エルザの口振りは海龍の事情をわかっているとばかりだ。凍牙にとってはヒュドラとレグルスの間に何かあったという程度の認識である。海龍の復讐心はレグルスに裏切られたことから来ているらしいが、凍牙には興味のないことだった。
「終わったら、あたしのことは好きにすればいい。あたしを殺したがってるヤツはいっぱいいるから相談すればいい。あと、左の手首から先だけは綺麗に遺しておいて、あげなきゃいけない契約だから」
「君のせいで……!」
沸騰するように海龍が激高したのを感じた凍牙は咄嗟に動いていた。
やはり他の男が手をあげるのを見たくなかったのかは自身でもわからないことだ。
「お前が何と言おうと勝手だ。あの男を崇めるのも好きにすればいい。だが、結局のところ、お前は死天使として生きていくしかねぇんだよ。全ての幻想を断ち切って飛び立て、〈死天使〉」
凍牙はエルザの手に先程までポケットの中で触れていたものを握らせる。
邪魔をしたことで海龍の動きは止まっている。その隙にエルザはちらりと確認し、硬直した。
「これ……!」
銀色のドッグタグは凍牙の首に輝くものと同じものだ。
否、二枚のプレートに印字されている文字が違う。十七番目の狂犬に対し、彼女は零番目の死天使だった
「もう一度、眠りに就くがいい。今度は永遠に」
「許さない、これで終わりなんて絶対に許さない。アタシは戻るわ、必ず戻る。そして、お前達を討つ。震えて待つが良いわ……!」
それは体裁を握り潰した執念のままの叫びであった。
仮面を脱ぎ捨ててもまだ彼女は弱さを捨てられないからこそ消えていくのだと凍牙は思う。
そして、海龍に掴まれたまま彼女の体は糸の切れたマリオネットのようにガクリと落ちた。




