南から来た男達 005
いつも通りコーヒーを飲みに来たエルザの様子がおかしい。それはアルドでさえも感じ取れるような異変だった。
まるで悩みがあるような、思い詰めた表情に見えなくもない。らしくもなく何度も溜め息を吐いていた。
だから、何か良からぬことがあるのではないかとアルドは考えて注意深く視線を送っていた。
エルザの手がぴたりと止まり、カップがコトリと置かれ、アルドは身構える。
*
エルザが立ち上がると同時にドアベルが鳴った。
スタスタと入ってくるのはどうにも場違いな格好の女である。
黒いワンピースに白いエプロン――所謂メイド服を着ている。
だが、その女はかつて〈血塗れの聖母〉と呼ばれ、ヴァルゴのボス候補〈レッド・デビル〉と呼ばれたフォーマルハウトの武装メイドだ。
「お久しぶりで御座います。エルザおじょっ……!」
マリアは笑みを真っ直ぐとエルザに向かってくる。
エルザは眉を顰め、容赦なくその顔を狙って蹴る。
店内だろうと周りに被害を出さなければ良いのである。エルザは店を思うからこそ、即座に非情な判断を下した。彼女が抵抗しないことは計算済みだった。相手に理由はない。
だが、エルザには顔面を踏み付けてもまだ足りないだけの怒りがある。
アルドには先日の戦いを見られてしまってもいる。そのせいでエルザも悪い意味で吹っ切れていた。
「エルザお嬢様、いきなり野蛮で御座いますわ!」
顔面で靴底を受け止めてもマリアは鼻血を滴らせることもなく平然としている。
だからこそ被害もないが、憎らしくもなるものだ。
「なんでアナタが来るのよ? しかも、イカレた格好で。ここはコスプレカフェじゃないのよ、おばさん。実弾ぶち込まれなかっただけラッキーと思いなさいよ」
ここではエルザは丸腰であり、ゴム弾さえ持っていない。だから、先日のように問答無用で撃てないだけだ。
「わたくし、フォーマルハウトをクビになってしまいまして、どうか、家政婦として雇ってくださいませ。いえいえ、わたくし、エルザお嬢様と一緒にいられるならばお給料なんて要りませんわ」
反論もせずマリアは早口で経緯を話す。何を言われても気にならないほど切実な状況らしい。
エルザにとっては迷惑極まりないことであり、これがロレンツィオの言った客人であるならばその悪意を如何にして倍返しにするのかを考えなければならなかった。
「帰って。アナタなんか大嫌いよ」
エリックの件はエルザに少なからずショックを与えた。どうしていいかわからずにコーヒーを飲んで、押し掛けてくるのがマリアでは心が晴れない。むしろ、曇天だ。
「そうおっしゃらずに! フォーマルハウトをクビになってはフィリップ様のお世話もできませんし、レナード様にも拒否され、ガニュメデスにもお断りされ、最早貴女様の権力に縋るしかありません」
嘘か本当か。ガニュメデスはまだしもレグルスに入り込もうとするとはエルザにとって許し難いことだった。尤も、拒否などと言うぬるい対応ではなかっただろう。レナードが取り合うはずもない。
「寝言は寝て言いなさいよ。帰っておねんねして涎垂らしながら言うのよ。あー、ベッドどころかお家がもうない? アタシはアナタが公園のベンチで新聞を毛布代わりにして、その果てにどうなろうと全く心は痛まない。物好きな男に暴行されても朝には冷たくなって犬に食われてもね。アタシの世話係は既にいるし、教育係も足りてる。三十五のおばさんには無理。年齢制限に引っかかるからお帰りになってくださる?」
アルドは立ち尽くしてショックを受けた顔をしている。エルザの暴言に対してか、マリアの実年齢に対してかはわからない。
問題はマリアがこの程度で引き下がるはずがないということだ。
「わたくし、お裁縫が得意で御座いますのよ? 将来は仕立屋になってレディーに可愛い服を作って差し上げたかったほど! エルザお嬢様にもたくさん作って差し上げますわ!」
「黙りなさいよ。サイテーのセンスしてるくせに。ああ、もうあれはヴァルゴの伝統だから仕方ないわよね」
「そもそも、エルザお嬢様はもっとカラーに関心をお持ちになりなさいませ。病人のような肌の色もどうにかしませんと! 美しいブロンズ肌にカラフルな服! そして、高級ランジェリー!! それこそ真の女ですわ! 美のセンスとは若い内から磨かなくてはなりません!」
「病んでて悪かったわね。アタシは紫外線なんて大嫌いだし、派手な色で目立つ気はない。アナタのイカれた美学には付き合いきれない。大体、アナタがお世話になったっていうあの人だって肌は白かったらしいじゃない。自分がブロンズ肌の女しか愛せないからってあの人に言えなかった理想を押し付けないでよ」
不毛な言い争いは続く。アルドはどうしたものかと、フレディを振り返っているが、彼は肩を竦めるだけだ。
幸運なのは客が少ないことか。しかも、その数少ない客も二人の言い争いを楽しんでいる様子だ。
「ならば、力で得るしか御座いませんわね」
諦めたようにマリアは溜め息を吐き、バサリとスカートを翻す。
次の瞬間、手には黒いトンファーが握られている。威嚇するように彼女はビュンビュンと回す。
エルザにとってはうるさい蠅でしかなかった。蠅たたきを持ち出す気力さえない。
「まったく面倒臭い女ね……やり合う価値もないわ。今まで解雇されなかったのが不思議じゃない?」
「わたくし、路頭に迷わないために必死で御座いますのよ!」
「じゃあ、次に会う時には物乞いになってなさいよ」
「嫌味な金持ちに憧れてはいけませんわよ!」
エルザはどうしようもなく、苛立っていた。けれど、視線を感じてしまった。アルドが「助けてあげてよ」とでも言っているかのようだ。子犬が女狐を庇う様は実に滑稽だった。
エルザはこれまで彼女に散々振り回されている。彼女のせいでヴァルゴとの関係全てがおかしくなったと言えるくらいに。
それこそ責任をとってもらわなければならない。そう、責任をとらせば良いのだ。
「……わかった。アタシの権力を最大限に使ってあなたの再就職先を決めて差し上げるわ」
「本当で御座いますか!?」
マリアはピタリと動きを止め、目を輝かせた。トンファーもしまうのだから単純なものだ。一体、何を期待しているか。
「今から手配してあげる」
エルザは笑みを浮かべ、歩み寄る。
「エルザお嬢様……一体、何をお考えになっていらっしゃいますの?」
マリアはじりじりと後退るが、エルザは距離を詰める。
「しばらくお眠りなさい、マリア。きっとこれが最後になるわ」
一瞬の犯行だった。エルザはマリアを気絶させる。
足下に崩れ落ちた彼女を一瞥し、エルザは携帯電話を取り出す。
用件は手短に済ませ、アルドに向き直る。
「いや、あのさ、えっと……」
アルドははっきり言えば挙動不審だった。彼の許容量を軽く越えてしまったらしい。
客達が妙に落ち着いているのも原因の一つかもしれない。アルドだけがパニックになっている。それを認識して余計にひどくなる。
エルザが何をしようと自分は何も見なかった、聞かなかった。だから、何も言わない。
この〈カニス・マイヨール〉はそれが徹底される数少ない場所である。
アルドは知らないが、〈ロイヤル・スター〉を集める前から店には組織関係者しかいなかった。まだしばらくは秘密にしておいた方が良いに違いないとエルザは判断する。女性の客がいないのも関係しているし、客同士の繋がりに触れるのは避けておきたい。彼らもここへはコーヒーを楽しみに来ているのだから。
「ふざけたことに巻き込んで悪かったわね」
「ど、どうするつもりなの……?」
「結局、このアバズレの行き場なんて一つしかない。やっと思い通りになるわ」
そうなることをフィリップ・アールストレムも望んでいるとエルザは思うことにした。今になって解雇したのはそういうことだろう。
死んだことになっていても生きてここにいるのだ。彼女が以前放棄した彼女にしかできないことを今やってもらうしかない。来る戦いのために街の守りを盤石にしておきたいエルザにとっては極めて重要なことだった。
「……じゃあ、報告はまた後日。裏から出させてもらうわね」
エルザはズルズルとマリアの体を引きずる。
鍛えていても華奢な方であるエルザに比べてマリアは太っているわけではないが、豊かな体つきをしている。それを荷物のように扱うのはなかなか難しい。
「あ、俺、手伝うよ」
アルドの申し出にエルザは彼をじっと見る。
困っている人間を見るとアルドは放っておけない質だろう。だからこそ咄嗟に言ってしまったのだろうが、彼はそのせいで見落としていることがある。
「共犯になるけど、それでも?」
「うっ……きょ、共犯……」
アルドの中で葛藤が始まったようだが、先に動く人間がいた。
「じゃあ、僕がお手伝いしますよ。元々、共犯みたいなものですからね」
「ありがとう、アダム」
童顔でありながらアルドよりもずっと長身のアダムは軽々とマリアを運ぶ。
そうしてエルザは裏口から店を後にした。