女達の聖戦 009
マリア達が帰ってもそう簡単にエルザに平和が訪れるはずもなかった。
「よっ、どうせ、元気だろ?」
軽い調子で現れたのはルカである。
「グロッキーなアタシが見たかった?」
エルザは笑ってみる。いつも通りだ。
どうせ、いつでも笑ったところで心は晴れない。
「こっちのおっさんとは違うからな」
肩を竦めたルカは背後を指さす。
「おっさんじゃねぇよ。先輩を敬えよ」
頭を掻いて入ってくるのはフェリックスだった。
「俺の方が強いかもしれないのに?」
「お前なぁ……」
「確かに。アナタ、泣き虫だし」
実際のところ、エルザにもどちらが強いのかはわからない。フェリックスが弱いとは言わないが、ルカの中に潜む全てのものが解き放たれればエルザですら勝負がわからなくなる。彼はそういう存在だ。
「まあ、元気ならいいや。ちょっと寄っただけだから」
「もう行くの?」
寂しいとは言わない。側にいてほしいというわけでもない。
「何かできそうもねぇし、させそうもねぇし……じゃあ」
ルカはあまりにもあっさりと出て行った。何かあるように、どこかその表情は晴れなかった。
「さて、これで少し話せるな」
フェリックスはエルザの意思など関係なく、どっかりと椅子に腰を下ろす。彼も関与していたに違いない。
「アナタなんかと話したくない」
「冗談でもそういうこと言うなよ。泣くぜ?」
「泣かれる方がうざいわね」
エルザは溜め息を吐く。フェリックスが冗談のつもりだろうとエルザからすればありえることだ。彼は〈泣き虫小熊〉と呼ばれた男なのだから。
「やっと落ち着いたな」
「まだまだね。表向きだけ、どうにかなったってだけよ」
問題が全て解決したと思っているのなら大間違いである。
「もう大丈夫だろ」
「お気楽でいいわね、熊さん」
エルザは心底そう感じた。彼も一組織のボスだというのに、彼は緊張感がなく単純だ。
「誤解が解けたんだ。それでいいだろ」
フェリックスは笑っているが、事はそう簡単ではない。エルザが望む状態にはなっていない。
「何も終わってない。それに目的はいい加減にロベルタの目を覚まさせること。それから、死者を蘇らせること」
後者の目的は果たされていない。
フェリックスはふーっと息を吐く。
「お前はさ、あえて汚い役回りを選ぶよな。裏切られた時点で潰すことだってできたのに」
エルザはずっと彼女達を泳がせてきた。真実に気付くのではないかという期待がまるでなかったわけではない。
「裏切り者には死を。牙を剥き、爪を振りかざすのなら折る。そっちの方が正当だってのに、よっぽどお前は悪になりたいらしいな」
フェリックスの言うことは間違いではない。組織の中にはそういう考えが深く根付いている。
「根っからのヒールだから」
「茶化すところじゃねぇぞ。俺だったら、徹底的に叩き潰してからわからせる。猶予は与えない」
庇護を受けておきながら裏切ったのだから、そうされても文句は言えない。
やはりフェリックスも組織のボスなのである。かつて組織に恐怖し、泣いていた側が今度は恐れさせ、泣かせる側であるのだから滑稽なことだ。
「兄さんが綺麗で、アタシは汚い。レグルスの汚いところ担当。そういうものよ」
「レナードも多分お前が思ってるほど綺麗な人間じゃねぇよ」
フェリックスは実妹のエルザよりもレナードを知っていると言えるのかもしれない。他の人間とは違うことを言う。エルザには辛いことでもある。
「アタシより汚い人間はいないわ」
エルザは地獄で生まれ育った。血にまみれ、脳漿や臓物がまき散らされる場所にいた。過去の償いのために生き、死ぬことを考えている。そのためならば汚い手段に躊躇いもない。
エルザの標的、レグルスの膿には綺麗なやり方だけでは勝てない。
「それでも……何があってもお前はレナードには背かないだろ?」
「今は背いてまで奴らを討つだけの理由がないもの」
時がくれば必ず裏切ることになるとエルザは思っていた。死ぬなと命令されても無視する。差し出された手を取ったのも、剣となり盾となる忠誠を誓ったのも、全ては自分を終わらせるためなのだから。
「なぁ、エルザ。オレの願いはレナードと同じだ。お前達が笑い合う未来を望んでる。できることなら隣にいたいんだけどな」
「アタシの笑顔はママのお腹の中に捨ててきたのよ。そして、葬った」
エルザの未来は全て自分の手で決めてある。他の生き方の選択はない。レナードの障害となるものは葬る。自分自身でさえも。
レナードが望んでいないことがわかっていても、そう言い聞かせることでしか自分を生かすことができない。生きても良いのだと言うことができない。
「エルザ、いい加減にしろ。お前の」
フェリックスの顔は険しくなり、口調も厳しくなるが、エルザはそれを遮る。
「ねぇ、フェリックス、アタシは誰を憎んだらいいの? この世にアタシを産み落とした母親はその罰を受けたかのように死に、父親はアタシが殺すまでライオン気取りで何もしなかった。アタシは兄さんでさえも憎んだ。けれど、今は自分を憎んでいる」
たとえ、レナードが否定しようとレグルスの上層部はエルザを〈親殺し〉と罵る。それで構わないのだ。
「なぁ、エルザ。お前は本当に先代も殺したのか?」
「何を今更」
「前ボスを殺して、今の地位にいられるとは思えない」
今だからこそフェリックスは聞いているのだろう。どうせ、ロメオには既に言ったことだ。言ってしまえば、今後追求されることもない。エルザは彼にも真実を教えておくことにした。
「あの人はアタシが戻ってからずっと怯えていて、そして、ある日……こうした」
エルザは銃の形にした手をこめかみに突き付ける。
「なんて、言わない方が幸せでしょ?」
前ボスの名誉のためには自分が殺したと言っていた方がエルザには都合が良かった。
「……辛かっただろ? ずっと……」
「アタシがやったんだって言う人もいたけれど、科学捜査の結果、自殺と断定された」
「なら、お前は殺してねぇだろ」
「アタシの存在があの人を死に追いやったならば殺したのと同じなのよ。アタシが死なせてしまったの……抱き締められたのも父さんと呼んだのもあの一度だけ、最期の言葉を嘘だと否定するには優しすぎた。『お前を愛してる』だなんて聞きたくはなかった」
誰に何を言われようと目の前で死なせてしまったこと、その自殺の原因となったこと、それは罪だ。だから、父殺しの罪をエルザは背負う。
いっそ自殺が証明されない方が良かったのだ。証拠を偽造することができればと思うことさえあった。
エルザにとって全く予測していなかった事態であり、レナードの右腕となることを誓った後だったからこそ辛かったのだ。優しかった男を目の前で死なせるくらいならば死んでしまった方が良かったと今でも思っていた。
話して何になるわけでもない。どんな言葉をかけようか迷った時、頬にフェリックスの手が触れた。
「お前は泣かねぇから、いつも強がってるからわからねぇんだ……いつ、お前を抱き締めたらいいのかわからなかった――でも、今、お前は泣いてる」
「医者に診てもらった方がいいわ。絶対におかしいから」
トールの前で泣いたなどとは言えなかった。けれど、だから、今は泣いていないと言えた。
「オレにはお前の心が泣いてるのがわかる。お前にだって弱さはある。でも、お前は強くなきゃいけなんだろ?」
ありもしない涙を拭うようにフェリックスは言う。
振り払おうと思えばできるほど緩やかなのに、そうしようとは思えなかった。その温もりをもっと感じたいとさえ思っている。本当に求めているのは彼ではないと言うのに。
けれど、本当は冷たい大地の抱擁を望んでいるはずだった。約二メートル下に眠る日を。
「この手に抱かれたいと思う女は他にいくらでもいるわ。アタシより綺麗な人がたくさんね」
触れた手は大きく熱い。〈泣き虫小熊〉と言われようと彼は立派な男だ。
嫌いだとは言わない、人として好きだとは言うが、恋情はない。
「それでも、オレはまだお前が好きなんだよ。お前のせいでオレの隣は空席のままだ。トール・ブラックバーンに全てを譲ろうと思っても、あいつが動かなきゃ何も吹っ切れない」
「アナタじゃアタシのディースにはなれないわ」
エルザはそっと手を払いのける。フェリックスは自分を殺せない、なんとしてでも生かそうとするとわかっている。それ故に心を明け渡すことはない。
「……なぁ、エルザ、腹減ってねぇか?」
沈黙の後、切り出してくるフェリックスは何事もなかったようだ。
「人間、一日や二日食べなくても死なないわよ」
「どうしてそこで腹を鳴らすとか可愛らしいことがお前にできないんだ!」
「そんな器用な真似できるわけないでしょ?」
そんな気分でもないと言うのに、拒否はできないとエルザは感じている。どうせ、これは安静にしろと言った〈藪医者〉の差し金に違いないのだ。
「さあ、行こうぜ。お姫様」
フェリックスが差し出す手をエルザは渋々取る。行き先を問わずともわかっていた。
フェリックスの車はやはり予想を裏切らず、〈カニス・マイヨール〉に到着した。
「深い意味はねぇよ。うまいコーヒーと軽食、ここが一番だろ?」
エルザの気まずさを見透かしたようにフェリックスは言う。ロメオとヴィットリオが連れてきたせいでアルドにはあの戦いを見られている。
だが、そのアルドは挙動不審だった。エルザのテーブルにコーヒーなどを運んできたかと思えばすぐに離れて、それでもやたらにチラチラと視線を送ってくる。
じーっと見てきたかと思えば目が合うなりさっと背けてまた視線を投げてくる。
「ねぇ、ちょっと」
いい加減にアルドの態度にエルザは些か苛立ちを覚えて腕を掴んで引き留めた。まだるいのは大嫌いだった。
「……俺、口にチャックって言われてるんだ」
しょんぼりとアルドが吐き出す。
そう言い含めたのは誰だろうか、ロメオかとエルザは考える。
「うざい」
「えっ……」
「言いたいことがあれば言えばいいじゃない。聞きたいことがあれば聞けばいい。じろじろ見られちゃうざったいのよ」
はっきりと言えば、アルドはビクリと震えた。
「棒や石でアタシの骨を砕けても、言葉で傷付けることはできない」
彼が何を言いたいかをエルザはわかっているつもりでいた。
「うん……なんかエルザが違う世界の人間かもとか思って」
下を向いてぽつりと吐き出すアルドの声は弱々しい。
「最初からそう思ってたじゃない。アタシは人殺しだって」
彼との距離感は最初から微妙だった。
「怪我、大丈夫って聞いたって、大丈夫って言うんだろ? 慣れっこだって言うんだろ?」
「大したことないわ」
本当にエルザにとっては掠り傷だった。ゴキブリ並の生命力と言われることさえある。
「俺、怖かったよ。エルザが撃たれて。殴られたり刺されたり」
「初めて撃たれたわけじゃない」
いくらエルザがショーに転じたからと言って、空気の読める女達ではない。
「俺、エルザに危ないことしてほしくない」
「それはアタシに死ねって言ってるのと同じ。呼吸するなってこと」
「うん。わかってるよ……」
戦いの中でしかエルザは生きられない。ようやくアルドも理解し始めたのか、そんなことはどうでも良かった。
「でも、ウェズが望んでるのかな、って」
死者の望みなど今となってはわからない。だが、彼が遺したものを、命と引き替えに得たものをエルザは最大限利用して最大級の攻撃を仕掛けるつもりだった。
これは単純な復讐劇などではないのだから。
「アタシは彼を奪った全てのものを許さない。きっちり終わらせて逝くわよ」
単純に彼を手に掛けた者を殺すのでは何も変わらない。それだけのことならば、もう果たしている。彼はエルザのために、エルザがヘルクレスを討つために命を落とした。その足がかりを手に入れた代償はあまりに大きかった。
「エルザ……」
「一人じゃないから、誇り高き〈王の星〉達がいるから、アタシは安心して戦えるし、逝ける。悔いはない。償いきれないほどの罪を背負って生き続けるよりいいわ」
「……それがエルザなんだよね。だから、今は何も、言わないよ」
言葉と裏腹に彼は何かを言いたげにしている。だが、抑え込むからこそエルザも何も言わなかった。何も言ってやれそうになかった。