荊棘の道 014
アルドを送り届けてすぐにフェリックスのことは追い払った。そして、エルザは隠れ家に帰るはずだった。
だが、それを阻む者が立っている。
フェリックスは一睨みでいそいそと退散したが、この男はそうもいくまい。
薄ら笑いはいつも通りと言うべきか。黒ずくめもいつも通りだ。殺意もなく、背に隠した右手に武器を持っているわけでもあるまい。
アルドとの話にも出たヘルクレス幹部--ジュガが薄暗がりに佇んでいる。
勝手に現れるからこそ会っていることを認めざるを得なかったが、エルザが望んでいるわけでもない。そうして話したすぐ後に現れるというのも、まるで見計らったかのようだ。
運が悪いのではない。事実、見計らったのだろう。エルザは彼をストーカーのようなものだと思っている。ほぼそのものだと言っても良いくらいだ。
「……気持ち悪い」
ぽつりと嫌悪の言葉が零れる。だからと言って彼をどうこうするわけでもない。彼もまた同じことだ。目の前に現れるだけならば害もない。
しかし、不気味である。何をするわけでもない。
「俺がいると言うのに、お前は他の男ばかりだ」
ジュガは不満げに言い放つ。
エルザが男ばかりと交流があるのは仕方のないことだ。女とは争い事ばかりになる。
「この世の男はアナタだけじゃないって言わなかったかしら?」
エルザの胸の内には後ろめたさなどない。彼に責め立てられるようなことではない。
誰に対してもそのような感情を抱く必要性はない。悪いことをしているわけではない。これは裏切りではない。浮気でもなんでもない。
たとえ、トール・ブラックバーンが同じことを言ってもエルザは鼻で笑っただろう。彼とて恋人ではない。誰とデートしようと関係ないとまでは言わないが、家族でしかない。
ジュガならば尚更関係ない。彼は敵であって、どう考えてもそんなことを言われるような筋合いではない。
「あれよりも俺の方が価値がある」
そう言い放つジュガはアルドに嫉妬しているのか。ただ少し南を案内し、食事をしただけでデートとは名ばかりだ。
「そうやって自分をセールスするなら、秘密の一つでもゲロしたら? そうしたらアナタにも価値があるってわかるけど」
ただ目の前に現れるだけの男に何があると言うのか。
危害を加えてくるわけでもない。ヘルクレスの幹部だというだけでエルザが攻撃することもない。けれど、一々相手にしていられないという部分もある。
「お前は天使がもういないなどと言ったな?」
ゆっくりと近付きながらジュガは問いかけてくる。
エルザは答えない。けれど、忘れたわけでもない。彼は続ける。
「天国はここにはない、と」
彼にとっての天国はエルザにとっての地獄だ。彼は今も心を囚われている。洗脳も行われていただろう。だが、今も彼がその支配下にあるとは思えない。
彼の心を占めているのは大方天使のことであるらしい。彼が自分を見ているのか、自分の中の天使を見ているのかエルザにはわからなくなる。
意味深な言葉で翻弄しながら、どこかでは自分を恐れている彼の内が見えない。
「俺が俺の天国で迷子になっているとしたら救えるのか、と」
ヘルクレスとは敵であり、敵でない。上層部はエルザが敵ではあるが、実際に排除すべきは下層部である。
少なくともデュオ・ルピには信念がある。彼はおそらく天使の犠牲者である。
その彼のところに天使に執心するジュガがいる。それでも、まだ彼らのことは見えない。
けれど、明らかになる時にはエルザの見えなくなっているかもしれない。
ぴたりとジュガが足を止める。
手を伸ばせば、触れられる距離だ。エルザは動かない。攻撃を受けるわけでもない。
彼に取っての再会の時ほど接近しているわけでもない。立ち位置を決めるのは彼だ。エルザはただそれを見ていた。あと一歩を彼は躊躇ったのだ。あの時の恐怖めいたものが過ぎったか。
「救う必要などない。天使だけが俺の救いだ」
これほど天使にこだわっていながら彼は否定する。執着などという壊れた感情ではなく愛であるのだと。
彼は天使を崇拝し、依存している。あれから十年は経っていないが、年月が経過してエルザは今の自分になれた。
やはり、ジュガは哀れな男でしかない。やはり天使の呪縛から解放しなければならないのだろう。
「認めろ、天使はいる」
断固たる口調はこれまでエルザが否定してきたことを咎めるようでもある。
肩を竦め、エルザは笑ってみせる。
「かもしれないわね。あれはアタシが思ってるようなものじゃないのかもしれない」
肯定的な発言をしたからか、ジュガは顔を顰める。
革手袋に包まれた黒い手が伸びきて頬に触れる。それでもエルザは動かない。動けないのではない。
「お前は既に天使の顔に近付いてきている」
確かめるようにして、目を細めるジュガは嬉しいのか。エルザにはわからないことだ。天使の顔も何もエルザはエルザだ。
しかし、〈死天使〉に人の心はない。表情を作ることも知らない。仮面のような顔になっているということか。
天使の兆候を見るためだけに彼は現れるのだろうか。
「毎度それを確認しに? ご苦労様」
苦笑いを浮かべ、投げやりにエルザは言い放つ。歓迎すべきことではない。
「笑っていられるのも今の内だ」
「天使狩りの用意はもうできてるんじゃないかしら?」
死神達は天使を狩る。オルクスやディース・パテルには迷いがあるかもしれないが、一人だけ確実な男がいる。
「お宅のデュオ・ルピさんの準備は万全なんじゃないかしら?」
あの男だけは本物だと思わされるだけのものがある。天使を屠ることがだけの全てだろう。そのために汚れた道を進まざるを得なくなってしまった。
「俺のところに堕ちてこい。あんな男に狩らせるつもりはない」
エルザは頬に触れる手を押しのけ、ジュガを見据える。
「いいえ、アナタは彼には勝てない」
ジュガが自分を守れるわけでもない。それを望むはずもない。ただ彼が天使を我が物としたいだけだ。
たとえ、その願いが叶ったとしても刹那の夢だ。必ずデュオ・ルピはやってくる。その時にジュガと心中するつもりはない。
「お前が俺の何を知っている? あの男の何を知っている?」
一瞬にして怒りが殺気と化す。黒い手が喉頸を掴んで壁に押し付けられて、それでもエルザは彼を見返すだけだ。
彼はおそらく認められたがっている。デュオ・ルピと比べられることを嫌がっている。自分でなく、彼が選ばれることを許せない。だが、エルザの答えなど決まっている。
前蹴りを放って引き離し、エルザはナイフを抜く。
「アナタを恐れる必要なんてないって言ったでしょ?」
「恐れないのなら刃は必要はないだろう?」
ジュガも恐れるわけでもなく、口端を吊り上げる。
「アナタにゲロさせるにはこれくらい必要でしょう?」
殺すつもりもない。脅しにもならないだろうが。尤も、必要がなければ傷付けることもない。
今度はエルザが壁にジュガを押し付ける番だった。喉元に刃を突きつけて。
「カーニバルって?」
問い、そして、彼の表情を窺う。そちらのことに関しては口よりもずっと雄弁だ。
「それとも、カーニヴァル?」
似て非なる言葉だ。実際、どちらなのか、エルザも知らない。だが、ジュガは僅かに眉間に皺を寄せるだけだ。
「なんの話だ?」
隠しているわけでもあるまい。彼もまた知らないらしい。
「わからないなら、それでいい」
彼には関係のないことだとわかった。彼らとは繋がりのない、また別のことのようだ。それがわかっただけでもいい。
「俺は良くない」
ジュガがエルザの手首を掴む。けれど、エルザとて知っているわけではない。だから、彼に探りを入れてやっただけだ。
「でも、お宅のデュオ・ルピさんなら何か知ってるのかもね」
彼は天使狩りの最前線にいるとエルザは考える。ジュガとの関係も対等でないからこそ、彼だけが情報を握っている可能性がある。そう思うのには他にも理由はあるが。
「俺の前で他の男の名を出すなと言ったはずだ」
初めて出会った時の彼の言葉だ。それもまたエルザは忘れてはいない。だからこそ、挑発的に笑んでみせるのだ。
「特にあの男の名は虫酸が走る?」
わかっているのならどうして、とばかりの視線が向けられるが、エルザは肩を竦める。
「アナタを恐れる必要がないなら、媚びる理由もないでしょう? アナタのご機嫌取りなんてしてやる必要がないじゃない」
意味のないことだ。彼でさえ自身の矛盾に戸惑っているのかもしれない。その二面性はエルザに起因することだが。
「こうやってまた不用意にアタシに触れてて、アナタ、大丈夫なの?」
掴んだ手首をジュガはどうするわけでもない。
「お前を恐れる理由はない!」
「アタシが死の天使ではないから? 偽物だから?」
強がりだと感じたからこそ、エルザは問い返す。僅かに瞳が揺らぎ、手の力が弱まるのがわかった。
彼は天使を敬愛しながらタブーでもあるようだ。
「アナタは彼に対するコンプレックスも、アタシに対する恐怖も消し去ることはできない。永遠にアタシ達を超えられない」
ジュガは何も答えない。侮辱された怒りが彼から言葉を奪ったか。
エルザは彼の手を掴まれていない方の手で外す。容易いことだった。
「たとえ、天使がはばたこうとしても翼は折られる。地に引きずり落とされる」
「そうさせないために俺がいる」
「いいえ、アナタは見ていることしかできない。何もできずに偶像が粉々に壊されていくのを見るだけ」
彼の〈死天使〉への執着さえ蹂躙される。その時、彼は耐えられるのか。天使への感情だけで彼は生きているように見える。それしかないかのように。
そんな男をなぜデュオ・ルピが側に置いているのかエルザには理解しがたいことであるのに。ジュガを壊すのは間違いなく彼であるのだから。しかし、彼もまた〈死天使〉にしか感情を向けていないような男だ。結局、エルザには知ることもできない領域のことだ。
「とっても哀れな人だわ」
彼も結局のところ人生を狂わされた人間でしかない。それでも最早自分が救えるものではないとエルザは感じる。
「そんな目で俺を見るな!」
不気味に佇むばかりだったジュガが今は取り乱しているように見える。
「お前はここにいるのに……」
呟きは虚しく消えるばかりだ。入れ物は同じでも、中身は彼の求める天使ではない。そして、最早エルザを籠絡できないと悟っただろう。癇癪を起こす子供のようでもある。
「デュオ・ルピによろしく伝えておいて」
ナイフをしまい、ジュガを一瞥するとエルザはジュガを通り過ぎる。もう話すことも聞くこともない。
彼も引き留めるわけでもない。振り返らず、立ち尽くすばかりだ。
けれど、種は蒔いたのだ。芽吹くかはわからないが。