荊棘の道 013
何から問おうかアルドは逡巡しているか。その間はエルザを身構えさせた。
「怪我、大丈夫なの? 無傷じゃなかったんだろ?」
「大丈夫じゃなかったら、世間知らずのお坊っちゃんのエスコートなんて引き受けないわよ」
溜め息混じりにはっきり言われてアルドはショックを受けたようだったが、すぐに立ち直ったらしい。
「エルザさ、茶髪の男の人知ってるよね?」
「茶髪なんて何人もいるわよ」
〈奈落落とし〉はエルザの専売特許ではない。アルドも無自覚に行う。
それが平和な話でないのはすぐに感じ取れた。このタイミングで出てくる茶髪の男など一人しかいない。
「背が高くてスリムで髪が長くて片目隠しててお洒落でちょっと女の人っぽいような綺麗な人。でも、凄く怖い人」
それらの特徴は間違いなくカリナを示していた。エルザの中でもあの男は恐ろしい人間に分類されている。
「その人がなんでも知ってる感じだった。アビーさんのこと、もう来ないって言った。エルザが殺したって。男の人のこともアビーさんの恋人の復讐だって」
「彼のことは知ってる。でも、よくはわからない。彼は色々とわけのわからないことを言う。味方だとか敵だとか断言はできないけど、一つ言えるのはアタシにとっては好ましい人間じゃないってこと。限りなく敵に近い味方なのかもね」
初めは訳ありのピアニスト、今はおそらく組織関係者だというところまでわかった。殺意はないが、敵意は見せ付けてくる。
「それは限りなく味方に近い敵とは違うの?」
「全然違うわ」
「そういう人がいるってこと?」
「答えたくない」
彼のことは誰にも話したくない。エルザはどこか聖域を汚すような気分だった。独占欲に似ているのかもしれなかった。自分だけの男でいてほしいと思うようなそんな気持ちなのかもしれない。
「ヘルクレスの、あの殺し屋とは……その、今でも会ってるの?」
ジュガ、その名前を彼は知らない。教えようとも思わないが、彼が考えているような人間でないことは少しだけでもわかってほしかった。そのエルザの願いはジュガを擁護するためではない。アルドの心を黒く染め上げたくないからだ。
「時々、勝手にアタシの前に現れる」
望んでもいないのに姿を現す。意味深な言葉を残して、けれど、何も明かさない。
ヘルクレスの幹部の知り合いは一人ではない。それもエルザはアルドに話すつもりはない。
「彼はアタシの敵……ううん、アタシが彼の敵なの。だから、アナタの敵には絶対にならない」
ジュガがアルドには絶対に手を出さないとエルザにはわかる。彼がそう言ったわけではないが、わかるのだ。なぜ、と聞かれても困るが、わかる。
そういう存在なのだ。彼は自分だけを見ているのをエルザははっきりと感じている。
「ヘルクレスには二派あって、下層は上層の言うことを聞かなくて暴走してる。彼はその上層の幹部、彼らだけが本物のヘルクレス。正当な目的を持ってる人もいる。できることなら、彼らと協力して下層を止めたいと思ってる」
それを言ってアルドがわかってくれるとはエルザも思わない。わかるように説明するつもりもないからだ。
ずるいとわかっているが、彼が理解できるまで、事細かに話すことはできない。望まれる答えの先にはエルザの秘密が存在する。彼に話すのはまだ早いと感じている。
「そっか……止められるといいね」
彼が何を感じているかはエルザにはわからなかった。目を背けていてはわかるはずもない。
「この前の話も」
エルザは先手を打つつもりだった。彼に先に言われてしまえば、また喧嘩になってしまいそうな気がした。けれど、その先が言えなかった。
彼が死んでしまってから、彼の名前を口にすることを躊躇ってしまっている。
「ウェズのこと?」
その名前に息が苦しくなるのは、その死に囚われているからなのかもしれない。彼にとっては死神、彼ら以上に悲しむ権利などないというのに。
「いつか、話そうとは思ってる」
「え……?」
「話さなきゃいけないって、アナタには聞く権利があって、アタシには話す義務があるってわかってる。でも、アタシの意思だけじゃ話せない。だから、今は待ってほしい」
何もかも包み隠さず話さなければならないとわかっていた。嘘を吐くつもりはない。
獣にも心があるのだとは言わない。エリック・アストンのことさえまだ克服できていない。それも聞かれると困ることだ。
「待つよ、ずっと待ってる」
非難されても仕方がないとエルザは思っていた。
だが、アルドの声は優しく、やはり彼は本人が言うように年上なのだと思い知らされる。大人ぶっても彼の方がやはり三年も先に生まれているのだ。
「ありがとう」
エルザは不思議と穏やかな気持ちになれたが、彼の心はそうではないだろう。エルザを許すことで彼の心は救われなくなる。
「信じれば裏切られないって、エルザの行動には全部理由があるってわかってたはずなのに、でも、信じられなくなるのは俺の心が弱いんだ」
「そんなことない。彼は心の隙間に入り込む方法を熟知してる。アタシだって平常心でいられなくなることがある」
信じてくれれば裏切らないとエルザは言う。理由のない行動はしない。けれど、どこかではわかっている。自分は信頼に足る人間ではないのだと。
「戦うんだよね、女性だけの組織と」
「ヴァルゴ、通称〈尼寺〉、薔薇の乙女がいたのは遠い昔話」
「大丈夫なの?」
「やるしかない。でも、手は打ってある。後は相手の良心の問題ね」
実際、エルザにとって問題なのはマックスから託されていることの方だ。ヴァルゴ自体はマリアさえ、マリアンナ・ローザさえ出てくればどうにかできるのだ。
「彼女達をどうにかしないと、トールを助けられない」
「トールさん……?」
「街のバランスは日々変わってる。今、一番危ないのは東……なんてね、天秤突っついてるのは間違いなくアタシなんだけど」
エルザは焦っている。トールが自分の力で何とかすると言うのなら、エルザもギリギリまで余計な手出しはしない。
けれど、彼が堪えている間にその足場を脆くしているのはエルザだ。南東方面は突けば蛇が出る藪しかない。
東方にはキグナスがいる。けれど、彼らが力を発揮するには条件が揃っていない。
「アナタは気にしなくていいのよ。中央には絶対手出しはさせない。フォー・レター・ワーズもシックス・フィート・アンダーもいるんだから。それに、手札はまだある」
中ならば〈バッド・ブラッド〉もある。いざとなれば、どうにでもできる。今やどうにもならないかもしれないと思っていた南以外の〈ロイヤル・スター〉達の力を借りずとも街を守れるくらいの手は打っている。
「さて」
エルザはパンと手を叩く。話はここまでだ。まだ話したいことが彼にはあるだろうが、お喋りに付き合うのが目的ではない。
「それで? これからどうしたい? 帰るか、もっとどこか見る?」
彼がもう帰りたいと言えばエルザも無理強いはしない。南が彼の思うような場所でないことはもうわかっただろう。スラムは存在しない。しょっちゅう、どこかで撃ち合いをしているわけでもない。
「俺、行ってみたいところがあるんだ」
エルザは意外に思ったが、嫌な予感がした。
「本家には連れて行かないわよ? アタシ、戻ってまた家出したから」
「ま、また家出したの!?」
本家に戻ってそのままだとでも思っていたのだろうか。アルドの驚きようは予想以上だった。
「今度は兄さん公認だから大丈夫よ」
本家にいては制約が多すぎる。だから、離れている。それだけだ。
「行ってみたいところって?」
「えーっと、〈シレーナ〉だっけ?」
最も聞きたくなかった名前にエルザは顔を顰めた。アダムが男を追い払うために〈シレーナ〉に誘導したのは賢明な判断だった。マニュアル通りとも言える。アルドの耳に入ってしまうのも仕方のないことである。
「な、なんで、そんな嫌そうな顔するの!?」
「嫌だからに決まってるじゃない。アタシ、あのオーナー、嫌。アナタだって食べられちゃうかも」
「えっ……」
「お子様には早いわよ」
エルザも嘘を吐いてまで行かせないというわけではない。全て本当のことだ。
〈シレーナ〉にはアンドレアという魔物がいる。エルザがアルドを連れて行けば黙っていないだろう。エルザのことを散々話したがるだろうし、あるいはアルドをからかって遊ぶかもしれない。考えるだけで頭痛がする。
「そ、そ、そんな変なお店なの?」
「昼間はカフェで夜はバーなんだけど、思いっきりいかがわしいわよ、店主が。厚かましい人工美女だから。立ち寄る度に面倒な仕事増やしてくれるし。そう言えば、あの人童顔好きよね、アダムも前連れてってあげたら散々遊ばれてもう二度と行きたくないって泣いてたし」
店自体は至って健全だ。卑猥なサービスがあるわけでもなく、組織関係者が酒やコーヒー目当てに集う。
だが、美貌の店主アンドレアはニューハーフ、エルザも彼女と言うべきか彼と言うべきか迷うところである。
彼女を見る度に過去にレディーらしさを教え込まれた時の、ある種の恐怖が蘇る。当時は男だったという話を笑いに変えているが、本人にとっては本当は全く笑えないことだった。
「や、やめとく。もう少し大人になってからにする!」
いつもは自分を大人だと思っているくせに、アルドは恐怖でも感じたのだろうか。無理もない。彼も童顔ということに常々自覚があるしかった。
散々、南を連れ回して、最終的に嘘を言って呼び出したフェリックスの車でアルドを店の前まで送らせた。
ヴァルゴのことは彼と全く関係がないわけでもない。しかしながら、手出しさせるつもりはない。防衛の打ち合わせをしておきたいだけだ。
嬉しそうにやってきたフェリックスも今は落ち込んで車の中で待機である。
「今日はありがとう」
「どういたしまして」
「あのさ、その……また案内してよ」
そんな言葉が聞けるとはエルザも思っていなかった。どうやら彼は南を気に入ったらしい。
「い、いや、今のなしっ!」
「いいわよ、別に」
「だってさ、エルザ、忙しいんでしょ……?」
「悪事は夜の闇に紛れる。だから、アタシは夜の方が忙しいのよ。昼間はコーヒー飲むくらい暇」
今は忙しく見えるかもしれないが、時間は作ることができる。
「じゃあ、また」
そもそも、エルザに送られるということにアルドは難色を示していたが、諦めた様子だった。
本人はもしかしたら忘れているかもしれないが、彼は危ない立ち位置なのだ。ヘルクレスはまだ野放しになっている。そして、エルザは今日フレディから彼を任されていた身だ。
「うん、気を付けて」
「それって、笑える」
「笑い事じゃないよ! 無茶しないでよ。俺、エルザのこと心配なんだよ?」
「考えておく」
無理だと言えばまた彼は怒り出すだろう。だが、嘘も吐けずに言えば喚くアルドの声を背中で聞くはめになった。けれど、彼はそれでいいのだと思う。いつまでも自分に対して怒る人間でいてほしいのかもしれなかった。