荊棘の道 011
どうして、こんなことに。
彼の顔にははっきりそう書いてある。心の声が漏れ聞こえるようですらある。
〈カニス・マイヨール〉の定休日、エルザとアルドは地下鉄の駅にいた。
エルザにとってこれは仕事である。依頼主は彼の養父であるフレディだ。内容は引きこもりの息子を連れ出せといったようなことだ。本人が聞いたら怒りそうなものだが、ほとんど事実に近い。少なくともエルザとフレディはそう思っている。
これは星海と共に彼らと食事をするという約束を果たした時に言われたことである。アルドは嫌がっていたが、時には店を離れることも必要だった。
ウェーズリーが健在であった時からアルドは店を離れようとはしなかった。ウェーズリーのようにとまでは言えないが、フレディは少しばかりアルドに遊んでほしいと思っているのである。
「地下鉄に乗ったことないとか言わないわよね?」
エルザは妙にキョロキョロしているアルドを笑う。
「そ、そんなわけないだろ! 失礼な! 滅多に乗らないから珍しいだけだよ!」
彼はほとんど中央から出たことがなく、買い出しなどに行くとは言っても近場ばかりで、移動も大抵はバスを使うのだとエルザはフレディから聞き出していた。
「ムキになって可愛いわね」
「そうやってまた年上をからかって!」
たった三歳年上なだけだが、彼はよく気にする。妙にこだわる。
だが、エルザは気にしない。大人の男達に囲まれ、歳相応の振る舞いはしてこなかった。大人ぶるなと言われても、それは無理というものだ。
「さあ、行くわよ」
エルザはアルドの腕を引く。
今日、エルザはフレディからアルドを任された身だ。中央さえ隅から隅まで歩いたことのないような彼にはガイドが必要だった。
エルザはフレディからアルドのエスコートを任されているのだ。
「ど、どこに……?」
全く検討が付かないのか、あるいは察していて否定してほしいのか。
「ヴェナント」
エルザはさらりと答えてアルドの様子を窺う。
「う゛ぇ、ヴェナント……ひぃっ!」
あまりにも予想通りの反応が返ってきて、エルザは満足感すら覚えていた。
ヴェナントと言えば南で最も有名な場所である。南の一言だけでもアルドには効果があっただろうが、さすがのアルドも地理は頭に入っているか。
レグルスの本拠地がある場所でもあり、南の中心とも言えるような場所だ。かつては街を一つの国家のように考え、首都として扱われたことさえある。南だけでなく街で一番危険というレッテルを貼られている。
だが、エルザに言わせれば街で一番安全且つイケているところということになる。
「大丈夫よ。南は治安が良いんだから」
安心させるように言えば、アルドはプルプルと震えている。
「お、俺の知ってる南と違う!」
アルドは喚いていたが、エルザは強くその腕を引いた。
中央や南などと言う区別は実際のところ存在しない。それは旧時代の名残、今尚組織が存在するからこそ、だ。
だから、たとえ、南の境界とされているところを過ぎたところで何かが変わるわけではない。ただ地名が変わる、それだけのことだ。
組織の人間にとっての不可侵は一般人には関係のないことで全く気にしない者もいるくらいだ。
しかしながら、通称『南』に足を踏み入れたアルドは完全に挙動不審であった。
駅にいた時以上に妙にソワソワとしたり、ぶるりと震えたりと落ち着かない。警戒心丸出しである。
「さて、まずはお昼を食べましょう」
ニッコリ笑んで見せてエルザは更にアルドの腕を引いた。
かつての支配者に合わせ、各方面はそれぞれカラーが違う。西が若者の街であったように、東は芸術、北はビジネス街という色が強い。
南は西とはまた違うおしゃれな街と言った様相だ。活気に溢れ、次第に緊張がほぐれたアルドはわくわくしている様子だ。
全ての色が合わさる中央は安全で、なんでも揃うからその外に出る必要がないとアルドは思っていただろう。
だが、南には中央で見たこともないような店が多いのだ。
そんな店達を尻目にエルザが連れて行った店の前であんぐりと口を開けた。
「た、高そう……!」
〈ソル〉はいかにも高級レストランといった佇まいだ。自分が入れるところではないと後込みしている様子だ。
「ここ、違うよね?」
「いいえ、ここよ。予約してあるから今更嫌だなんて言わないでよね」
エルザが笑んで見せるほどにアルドは泣きそうな顔をする。
「だってさ、ドレスコードとか……!」
「ないない、大丈夫大丈夫」
エルザは容赦なく背を押す。そうして諦めたようにガックリと肩を落として渋々と入る彼は監獄にでも入れられる気分だろうか。
予約してあったと言うよりは話をしておいたという程度なのだが、スムーズに個室へと通される。
一瞬、ほっとしたような表情を見せたアルドも結局、居たたまれないのは変わらないようだ。すぐにまたソワソワし始める。
「なんでも好きな物頼んでいいわよ」
エルザはメニューを差し出す。値段は書いてある。そして、意外にリーズナブルなのだ。悪く言えば、レグルスらしい虚像の城である。外装だけでなく、内装も立派だが、見栄とも取れる。
「い、いや、あのさ」
アルドの脳内は大パニックになっていることだろう。手をバタバタと動かして、それでも言葉にならないようだ。
「全部頼んでもいいわよ?」
エルザが追い打ちをかければアルドは頭を抱える。座っていなければその場でグルグルと回り出しそうなほどだ。エルザとしてはエスコートというよりも、少しばかり手のかかるペットを連れてきた気分である。
「だ、だってさ、おしゃれすぎて何が何だかわからないよ……!」
「好き嫌いとか、あんまりないでしょ?」
その辺りのことは既に調査済である。フレディ、ウェーズリー、アダムといった情報源から得たものだ。大方、幼いながらもフレディに迷惑をかけまいとしていたのだろう。
「ないけどさぁ……」
「適当に選べばいいのよ」
何を選んでも外れないという自信がエルザにはあるのだが、そもそもアルドは食事どころでないのかもしれない。だから、彼の気配にまるで気付いていなかった。
「そうそう、適当になんでも頼んじゃいなよ。どうせ、エルザ嬢なんかタダ食いなんだから」
「わぁっ!」
アルドには彼が突然姿を現したように感じられただろう。
驚愕して、飛び上がって、ソファーに体を打ち付ける。そうして、騒音を立てたからか、青くなったり赤くなったりしている。ついに彼の頭は許容量を超えてパンクしたかもしれない。エルザには彼の頭からぷすぷすと出る煙が見える気がした。
しかし、それよりもエルザは男を見る。訂正すべきことがあった。
「人聞きの悪いこと言うんじゃないわよ。全部、アナタの好意じゃないの」
タダ食いとは心外である。金を払えば彼の沽券に関わると言うから、ご馳走になってやっているというだけである。
「ま、まさかエルザのお兄さん……?」
混乱しきったアルドの頭は変なところに接続されてしまったらしい。
「そんなに似てるかな? 嬉しいなぁ」
ニコニコと笑みながら彼はエルザに顔を近付ける。並べたところで違いがはっきりするだけだとエルザは思うわけだが、今のアルドには区別もできないかもしれない。
「なんでそうなるのよ」
彼の顔を押しやって、エルザは溜め息を吐く。
ウェーブのかかった栗毛、グリーンの瞳、店にいるため、ハットを被っていなければ、トレンチコートも着ていない。彼は喜んでいるが、似ているところはないとエルザは思うわけだ。
だから、速やかにはっきりさせてしまいたかった。
「紹介するわね、この男はステルヴィオ、ここのオーナー。一応、レグルスの幹部」
「か、かかかか幹部ぅ!?」
アルドは座ったまま後退りしようとしてソファーに背を擦り付ける。そして、また自らの失態を恥じるように口元に手を当て急にピタリと止まる。
少しばかり声を上げて音を立てても奥の個室では気にすることもない。そして、彼のためにほとんど貸し切りにしておいたと本当のことを言えば、また面倒なことになるだろう。彼も普段は良識ある大人ぶるのだから、それに任せておくべきだとエルザは判断した。
「アタシの兄さんとは似ても似つかないわ」
違う点を上げればきりがない。レナードの方が若く、それでいて落ち着きと貫禄がある。髪ももっと綺麗なブロンドで透き通るようなブルーの瞳をしている。よく似ていると言われるエルザだが、自分とはまるで輝きが違うと常々思っている。
「天才詐欺師やってるよー」
ひらひらと手を振るステルヴィオは実に軽薄である。アルドが受け入れられないと思い、エルザとしては伏せるつもりだったのだが。
「天才詐欺師だったのはパパの方じゃないの。アナタは二流よ」
天才詐欺師というのは自称だ。本物の天才詐欺師だった父親に比べれば彼はひよこだ。
彼がレグルスにいるのはエルザが危ないところを助けてやったからだ。
「そりゃあ、本職じゃないのにとんでもないもの持ってる嬢と比べられると痛いよ。いっそギャンブラーに転職しない? 俺とお金持ちになろうよ」
「あら? アタシは元々ギャンブラーよ。命賭け専門のね」
人生はギャンブルだとエルザは考える。賭けるものは専ら自分の命である。
「何か適当にオススメ持ってきて」
初めからそうするべきだったと言える。
これ以上ステルヴィオを居させるのはアルドの精神衛生に悪影響を及ぼしかねない。エルザはさっさと彼を追い払うことにした。
「抜き打ちテストに協力してよ。美味い不味いの二択でいいから」
「あ、うん……わかったよ」
ようやくアルドも落ち着いた様子だった。考えることを放棄したという方が正しいのかもしれない。