荊棘の道 010
扉を開けて嫌々といった様子で出迎える男にエルザは一応微笑みかけてやる。星海の方はと言えば、固まっている。
まさかエキセントリックなこの男に会うとは思っていなかっただろう。
「久しぶり、だな」
星海をじっと見た男は言う。星海と彼は一度だけ面識がある。
歳は四十近いらしいということぐらいしかエルザにもわからない。
右サイドを刈り上げた黒髪は長くアシンメトリーな前髪が顔の左半分を隠す個性的なスタイルであり、黒い瞳はお世辞にも目つきが良いとは言えず、耳にはハードなデザインのピアスが輝き、黒いスーツに身を包んでいる。
二人を招き入れた彼は白衣を纏う。彼の所属はレグルス、専属の医者であり、殺し屋だが、その姿はマッドサイエンティストにも見える。
命を繋ぐ職業と同時に命を奪う職業にも就いている。その表と裏はひどく対称的であるが、どちらの腕も確かであり、エルザは医者としても殺し屋としても彼を信頼していた。天才なのだ。
だから、以前、エルザはアールストレム邸に医者を紹介させる目的で送り込んでいる。
ヴェナンツィオ、〈藪医者〉を自称する針マニアだ。
「その節は……」
星海はどこまでも丁寧に礼を言おうとしたらしいが、ヴェナンツィオに制される。
「男に連れられてきたかと思えば、今度は男連れで、ここをホテルか何かだと思っていないか?」
恐ろしげな外見とは裏腹に意外に軽薄な男は堅苦しいのが嫌だと言いたげだった。星海を無視してエルザを見ている。薄い唇が笑みを作っていてもその瞳が笑わないことをエルザは知っていた。
彼にとってフィリップの件は関係ないことだ。知り合いを紹介しただけであって、彼自身が何かをしたわけではないのだから面映ゆいのだろう。
「この前は話せなかったから、日を改めたのよ」
デュオ・ルピによって運び込まれ、ロメオに看られた後、彼は何も話そうとしなかった。なぜ、彼を帰したのか、ロメオに任せたのか、問い詰めても一切答えずにエルザを自らの武器で黙らせようとまでした。
「話すことはない」
「聞きたいことは一つじゃない」
この際、先日のことはどうだっていいのだ。他にもあったのに、彼が一切の質問を拒絶したからこうしてやってきたのだ。尤も、ただ聞きたいだけではないのだが。
「俺に仕事以外のことは求めないでくれよ。俺の腕だけを信じればいい。俺はお前を死なせてやらないから」
偽物の笑顔で紡ぐ言葉の裏にヴィットリオはささやかな悪意を忍ばせる。患者を死なせないのは医者としての彼にとって当然のことだろうが、死を望むエルザには厄介だった。
「信じる? アタシを死なせてくれない人を? いいえ、アタシは派手に死んでみせるわ。それがアナタへの裏切りだとしても」
自分の望みを阻止しようとするヴェナンツィオを憎むことのできないエルザも、彼に憎まれることはいくらでもできる。どれだけ怒らせたところで、彼は撤回しないこともわかっているのだが、言わずにはいられなかった。
「この俺がお前を救えないとしたら……死に急ぐお前を止められなかったとしたら、それはお前の果てしない闇への敗北だ。だけど、俺はそんなモノに負けるつもりはないんだよ」
「悪いのは全部アタシ、それでいいわ。アタシが死んだとしてもアナタの経歴に傷が付くことはない」
「俺の心は傷付く。絶望する。だから、お前の近くにいることにしたんだ。俺以上に真っ当な医者は他にもいるが、俺以外にお前を理解できるイカレた医者はいない。俺はお前の敵になれる」
ヴェナンツィオはエルザにとって極めて特殊な人間だった。医者としてエルザを救うと言い、殺し屋として小娘には負けないと言う。それは昔から変わらないことで、やはり自分を恐れない医者は彼しかいないのだとエルザは実感する。
「どうせ、まだ死ねないわ」
「どうせも何もお前はまだまだ死に損なう。これから先ずっと、俺がいる限り。お前が俺を殺せない限り」
エルザはいつでも消えてしまいたいと思ってはいるが、まだ目的は果たせていない。死ぬのは全ての膿を出し切った時か、レナードに死ねと言われた時、あるいは自我を失い全てを裏切る時なのかもしれない。
矛盾する感情を抱えて生きるエルザにヴェナンツィオは『死なせない』の一点張りだ。
「生きる必要がある限りはアナタを頼ってあげる」
わがままな患者だと感じながらエルザは微笑んで見せた。それでも、彼は許してくれる。
「ねぇ、ヴェナンツィオ。エレナ・アスティって人、知ってる?」
「エレナ・アスティ……?」
誰にも聞けないことがヴェナンツィオには聞けた。組織の人間でありながら彼は医者であり、ある程度独立した存在だ。
彼が当時からレグルスにいたのは確かなことであり、彼女を診た可能性もある。
「この女性よ。苺色の赤毛の美人」
ヴェナンツィオは聞き覚えがないと言うように眉根を寄せたが、エルザが彼女の似顔絵を差し出せばその皺は更に深くなった。
「……お前はそんなに死にたいのか? いっそ俺は職権を濫用してお前をベッドに縛り付けておくか、拘束衣を着せるかした方がいいのか? いや、どっちにしろお前を拘束するってことだけど」
険しい表情で言葉もきつくなったヴェナンツィオは肯定しているも同然だった。
「やっぱりマズイことなのね? それもとびきり」
彼は何かを知っていて、とても危険な秘密であるようだった。
「どうやって行き着いたかは知らないが、今更彼女のことを嗅ぎ回るのはやめた方がいい。もう終わったことだ」
彼が警告するのだから相当なことだろう。だが、彼の言うことは間違っている。
「終わってない。彼女は自分の息子を探してる。忘れていたことを不意に思い出して、ダンジョン仲間のアタシを思い出して捜し回り、〈シレーナ〉に行き着いてしまった。尤も、彼女の背後には〈あしながおじさん〉がいて、アタシ達を巡り合わせたのだけど」
写真の中で彼女の胸に抱かれた赤毛の息子はデュオ・ルピを思い起こさせた。ヴェナンツィオは彼にも会っている。二人の様子は単なる初対面ではないとベッドの上でぼんやりしながらもエルザは感じ取っていた。
「今はまだ話せない。たとえ、お前が俺に何をしても」
ヴェナンツィオの言葉は尋問を意味していたが、彼は宣言通り口を割らないだろう。
「時が来たら教えてくれるの?」
その時がいつなのかわからない。彼には常に欺かれているような気がする。
「それが俺の義務だから。俺がそういう残酷な男だと知っているだろ?」
「そうね。アナタはとっても狡い男だわ」
間違いなく何かを知っていながら、彼はそれを隠している。
だが、守るために欺くこともあるのだと知ってしまったのだから受け入れる以外にはなく、エルザは笑った。
「そうだ。そっちのお兄さん、名前、なんて言った?」
ヴェナンツィオが星海を見る。
以前、二人が言葉を交わしたかはエルザの知るところではないが、名前くらいは聞いていたのだろう。彼は記憶力については良すぎるほどであったし、この問いはきっかけなのだろう。
「劉星海と申す」
「そう、今日のところは俺の患者、任せるよ。心を病んでる重度のじゃじゃ馬なんだが……まあ、何かあったら相談に乗ってやっても構わない」
エルザをちらりと見た後でヴェナンツィオは星海の胸ポケットに名刺らしきものを滑り込ませた。
この瞬間、エルザが星海を連れてきた目的は果たされたのである。
ヴェナンツィオの出張診療所とも言える家を出て、エルザは星海を見た。
「わけのわからない話聞かせてごめん」
レグルスの暗部に関することさえ彼の耳に入れた。他言するような男ではないが、彼にとって何の意味もない話である。待たされるくらいなら車にいた方がましだとでも思っているかもしれない。
彼の心が読みにくいところがエルザにとって安心できることでもあり、不安になることでもあった。
「結局、なんで自分が連れてこられたのか、って?」
頷く星海にエルザはニッコリ笑んで見せた。
「教えたからね」
何のことだとばかりに星海の眉間に皺が刻まれた。
「彼は頼りになる医者だから、何かあったらご自由にどうぞ。ちょっと癖はあるけど悪い人じゃないから」
ヴェナンツィオもその気があるから彼に名刺を渡したのだ。その気持ちが本人に伝わったかは別としてもエルザはわかっている。
「貴殿には感謝することばかりだ」
「散々、引っかき回したお詫びだなんて思ってないから気にしないでよ」
感謝されることなど何もないとエルザは思う。もしかしたら自分は彼を懐柔しようとしているのかもしれないとさえ思っている。
「次はどこに行きたいのだ?」
思わぬ問いにエルザが困惑する番だった。彼は当然のように助手席のドアを開けてくれる。
こうして出てきたのはヴェナンツィオが留まらせてくれないからだ。帰りまで世話になろうと考えていたわけではない。南はエルザの庭のようなものだ。ここからはどうにでもなる。
「まだ乗せてくれるの?」
「行き先はわかっている気がする。自分が今行きたいと思っている場所と同じだ」
いつもは無口で決して積極的ではない星海の意外な言葉にエルザは吹き出してみせた。
「アナタ、読心術でも体得した?」
「貴殿のことがわかるようになった」
「凄い殺し文句ね」
思わずからかいたくなったが、星海が困惑したように見えた。極自然に思ったまま言ったつもりなのだろう。彼に下心があると思う方がどうかしえいるのかもしれない。
「じゃあ、〈カニス・マイヨール〉へ?」
「ああ、行こう」
見事に一致していたようだ。表情に大きな変化はないものの、エルザには星海が笑っているように見えた。
「コーヒーとチョコレートケーキ奢ってあげる」
「支払いは自分がしよう。世の男とはそういうものだろう?」
彼が少しずつ人間らしくなっているのかもしれなかった。
「多分、コーヒーとケーキじゃあ済まなくなると思うけどね」
星海と揃って行くことであの約束を守らされることになるだろうとは思っていた。けれど、それが今は彼のためになるような気がしていた。