荊棘の道 006
とにかくエルザは〈カニス・マイヨール〉から一刻も早く離れたくて路地裏に逃げ込むようにする。ナディアはもう追いかけてくることもあるまい。だが、アルドはわからない。
「かっけーなぁ、おい。マジで惚れちまうぜ?」
ヴィットリオはふざけたつもりなどないだろう。彼が言葉に困るとしたら全てエルザのせいだ。
けれど、エルザは彼に感謝しているのだ。
「……アナタがいなければ、自分を止められなかったかもしれない」
ヴィットリオはストッパーとして必要だった。アルドではそうなりえないからだ。ヴィットリオとイグナツィオは別だと認識していても、エルザを殺せる数少ない人間の双子の弟である。やはり期待して縋ってしまう部分がある。
「あんたがキレると死人が出そうだからな。ちょっとした災害だぜ」
笑えない冗談である。エルザは決して死人を出すわけにはいかない。〈カニス・マイヨール〉ではもってのほかだ。
「まさか自分を抑えられなくなるとは思わなかった。これではロベルタと同じだわ」
エルザが冷静でなくなれば、この件は解決しなくなる。混沌とするばかりだ。
「セレナ様ってのはあんたの母親だな?」
「そうよ。アタシが最初に殺した聖母のような人……」
誰かが母のことを話す度にエルザは亡霊に復讐されているような気分になる。
「俺はあんたぐらいの時にママが病気で死んじまって、すげー悲しかった。やっぱり俺の心の支えだったからさ。人生の全てっつーか、世界の全てがなくなっちまったような気がしたよ。もっとしてほしいことがあったし、いずれは親孝行したいって思ってたからな」
「お母さんっ子だったのね。イグナツィオはそんな風には見えなかったから小さい時にはいなかったんだと思ってた。尤も、あの人は過去を捨てたつもりでいたけれど」
レグルスの人間の中でそういった風潮は珍しくない。それは必ずしもマザコンと同一ではない。
初代ボスのレオポルドもそうだったという話が残っているくらいだ。彼の出身国に由来するところでもある。
「今にして思えば、俺に譲ってくれてたような気がする。親父はアニキにすっげー期待してたしな」
「あの人っていつも凄く我慢してる気はしていたわ」
年長者だから、兄だから、そういう責任感をすぐに背負おうとする男だ。父親からの重圧が彼にそうさせたのかもしれない。エルザにも容易に想像できる光景だった。
「俺はそうやってママに精一杯甘えて生きてたから思うが、あんたのママが〈聖母〉と呼ばれていた人なら、きっとあんたを産めて幸せだっただろうよ。堕胎を拒んだってことは女だってわかってて産んだってことだろ?」
「アタシは兄さんから母を奪った悪魔なのよ?」
レナードがまだ七歳の頃のことだった。母がどういう子育てをしていたかはエルザには知るよしもないことだが、まだ甘えたかったはずである。普段のレナードがそういうところを一切見せないからこそ、エルザは不安になる。どうして、その人が自分を愛してくれるのか、まるで理解ができない。
「あんたがそういう後ろめたさから現実に向き合えないのはわかるが、それは侮辱じゃねぇのか? 自分の命と引き替えにあんたを産んだ人が憎いって言えるのか? 罪があるって言えるのか? 違うだろ? レグルスを変えたくて生きてるなら誇れよ。他人に何と言われようと〈聖母〉と言われた人の娘だって。さっさと終わらせて死んじまおうなんて思わねぇで命くれたママの分も生きろ」
エルザに今までそういう説教をした人間はいなかった。レグルスの上層にはエルザの誕生を責めるものばかりだった。エルザの周囲にいる〈聖母〉を神聖視しない人間は、ほとんど彼女を知らない。〈聖母〉を知る人間は禁忌であると悟って口を噤むからだ。
だから、エルザは反論もせず、黙って聞いた。
〈聖母〉を知らない人間でも、大抵の人間は良からぬ空気を察して何も言えずにいると言うのに、ヴィットリオは違う。
「あんたにとっては簡単な問題じゃねぇんだよな……説教して悪ぃ」
「説教は慣れてるわよ。イグナツィオもうるさいし。でも、段々別人のような気がしてきたわ。アナタが生気吸い取ったんじゃないの?」
別段、傷付くわけでもない。皆が腫れ物扱いすることだ。触れられたショックはあるが、母親の話からは逃げたいというのがエルザの本音だ。
「あんたがわかってくれるならそれでいい。俺は自分のことだけで精一杯だったりするけどな」
彼はそれで良いのだとエルザは思う。イグナツィオもそれで良いのだろう。憎悪と衝突を乗り越えた二人は良好な状態なのだろう。たとえ、仲が良さそうには見えなくとも二人のあり方というものがあるはずだ。二人にしかわからない正しい距離感というものが。
「やっぱりイグナツィオには妹が必要だったんじゃないかしら? 天真爛漫で『お兄ちゃん大好き!』って感じの」
「確かにあの過保護さはあんたのアニキに憧れてるとしか思えねぇ……」
急にげっそりするヴィットリオは自分の知らなかった一面を見てしまったか。あるいは悪化したというものなのかもしれない。
「でも、妹なら俺も欲しかったな。それこそ『お兄ちゃん大好きっ!』って言ってくれる天真爛漫なキャラならなんでもしてやっちまいそうだ」
今度はデレデレと締まりのない顔を見せるヴィットリオは妄想中なのだろう。
「アナタって下心の塊よね。悪い意味で兄さんみたいになりそうだわ。『お兄ちゃん、うざい』で立ち直れなくなりそう」
「そうか? つーか、あんたのアニキってシスコンつってもそんなに酷いのか? アニキがいねぇとやべぇって話は聞いたが……」
「見ない方が幸せ。重症よ。突然号泣したりするんだから」
最近では完治を思わせるほど平和だが、トラウマになった者もいるくらいだ。
この話にもヴィットリオは触れるべきではないと思ったのだろう。
「しかし、あんたはアレだな。女にもモテるんだな。ほら、セルペンスのは変態だったけど、何だっけ? 変なお嬢ちゃんに滅茶苦茶牽制されたんだよ」
「ソフィアのこと?」
この数日、レグルス入りしたヴィットリオにも色々あったことだろう。
「そんなんだったかも。自分が狙ってるポジションに右腕補佐の双子の弟って言ってもよそ者があっさり収まっちまった挙げ句に俺はあんたを傷付けてるからな」
「気にしなくていいわよ。いつもそうなの」
結局、ソフィアは変わらないのかもしれない。ロレンツィオがそれで良いと思っているのかもしれない。
「大変なもんだな」
ヴィットリオは苦笑する。他人事だと思っているか、それとも部下になった以上自分も巻き込まれると悟っているか。
しかし、何か言葉を探すよりも前にエルザは足を止める。
血の気が引くのがわかる。手は口元を覆い、一瞬にして吐き気が猛威を振るう。
ふらりとしたところでヴィットリオに腰を支えられた。
「おいおい、嘔吐は勘弁だぜ?」
「違うわよ、ちょっと目眩がしただけ」
一瞬のことだった。もう問題はないはずである。
「そうか? 送ってやろうか?」
「余計酷くなりそうだから要らない」
エルザはヴィットリオの手を払う。
そして、追うなと背を向けて歩き出すが、そうされて困るのはヴィットリオだと忘れていた。
「た、頼む! 俺を迷子にしないでくれ! アレッシオさんとベルナルドさんが来るまで一緒にいてくれ! もう余計なこと言わねぇから、口にチャックするから!」
ヴィットリオには足がない上に土地勘もない。今、どこにいるかもわからない二人に回収されないと帰れないのだろう。
泣き付いてくるヴィットリオをエルザも無視することはできない。
迎えが来るまで共に待たなければならなかった。その間、ヴィットリオは沈黙に耐えきれなかったのか、一人で喋り続けた。適当に聞き流しながらエルザは連絡をしていたが、決して問わせはしなかった。
そうしてエルザはずっと考えていた。
自分が見てしまったのが何であったのか。あの時、確かに〈亡霊〉を見た。
殺すつもりだった約二週間の友人、確かにその目で死を確認した男。エルザはそういうものは信じない。
けれど、〈亡霊〉の彼が冥界にからやってくる理由があるとしたら、自分への恨みだろうか。そうに違いないと思う。
彼はずっとエルザを見ていた。何かを言いたげにじっと立っていた。
少し雰囲気が変わった気がする。否、彼の時間が動いていたならば無理もない。
ありえないとわかっているのに、確かに彼がそこにいたのを感じている。ヴィットリオに支えられ、はっとした時にはもうその姿は雑踏に消えていた。
けれど、エリック・アストンがそこにいた。
他人の空似だとは思う。あるはずがないことは一番よくわかっている。彼の死は確認している。
疲れているから、精神的に参っているからそう思うのだと言い聞かせようとした。
ならば、なぜ、彼はあんな顔で自分を見ていたのだろうか。
真相は深い闇の中にあるようだった。