死を呼ぶ姫君 003
目が覚めた瞬間から頭痛は襲ってきた。
ここはどこだろうか。満足に身体を動かせないまま、エルザは視線を動かして見付けた。
龍、見事な黒い龍だった。
けれど、すぐに黒く覆い隠され、また質感の違う黒が重なって行く。そして、遠ざかろうとする。
「待って……」
彼が行ってしまうとエルザは思った。その隣にいる男はきっと彼を引き留めてくれない。
何も聞かずに帰してしまう、そんな気がした。
声に気付き、服を着込んでゆっくりと近付いてきた彼は、深く青いあの目で見下ろしてくる。エルザには身体を動かす気力もないというのに、制するかのようにナイフを向けてくる。
殺してくれと願っても叶えてくれないくせに。
「どうして……アナタがアタシを助けたの?」
彼は自分を殺すためにこの道にいる。その言葉は忘れていない。
エルザにとって彼は絶望ではない。彼ほどの希望はないかもしれないと言えるほどだ。
「お前を殺すのは俺でなければならないからだ」
そういうことなのだとわかっていた。
彼が自分を助けた時からわかっていた。
鎖を付けられているような気がする。その繋がりを、それ以上の物をエルザは求めている。なのに、彼はわかっていながら捻り上げる。
「アタシの苦痛がわかる? 愚かだと笑うかもしれないけど、アタシを楽にする気はないのでしょうけど、でも、生かされてるのは辛い。アナタがアタシが思い出せないことを知っているなら尚更――思い出させてほしい。アタシの罪状を全部読み上げてほしい」
最早、懇願だった。混乱しているのかもしれない。まだやることがあるとわかっているのに、エルザは終わりを望んでいる。
「いずれ、その時が来る」
これ以上は待てないと叫び出したい気分だった。不安定だと感じながら自分で繋ぎ合わせることができない。
「アナタに殺されたい」
「お前が求めているのは俺ではないだろう?」
ナイフをしまい、諭すように髪を撫でる手は妙に優しく感じられる。
なぜ、そんなことをするのか問えない。
「眠れ――」
夢の世界に落とされるように、その先はもう聞こえなかった。
*
彼は微笑んでいる。物憂げでありながら、惹き付けられてしまうのが彼の魅力なのだろう。
そっと指を絡めて、歌を口ずさむ。彼の、彼だけの歌だ。
眉間に皺を寄せるような少し苦しげな声の出し方、時折囁くように歌う。
歌詞の本当の意味を知る人間がどれだけいるだろうか。ラヴソングであることを知らない者も多い。
なぜ、ラヴソングをこんなにも遠回しに辛そうに歌うのか。それは当人達にしかわからないというところかもしれない。
視界に靄がかかる。彼の笑みが遠ざかり、悲しげな表情に変わる。別れを惜しみながら見送るしかないことを知っている顔だ。
行かないでくれ、そう言っている。
けれど、離れているのは彼の方ではないか。
そして、記憶の中に焼き付いた歌声は現実の歌声とすり替わった。
「……あなたじゃない」
目を開ければ悲しい表情が目に入る。けれど、彼ではない。
だから、エルザは言い放っていた。
「この歌だけは上手く歌えないんだよ」
肩を竦めてロメオは笑う。どれほど彼が練習したところで、その歌は彼が歌うことを許さないだろう。
「『ライザ』がアナタにしか歌えないのと同じじゃないの?」
レッド・デビル・ライの『ライザ』は唯一のラヴソングとして人気だが、内容はひどく、ロメオにしか歌いこなせない。これはその反対だ。
ロメオとファウストの色気は別物なのだから。
「他人のラヴソングを歌うなってこと?」
「作った本人にしか本物の歌は歌えないってことでしょ?」
ロメオにファウストの気持ちはわからないだろう。その逆も然りだ。たとえ双子であってもファウストのための曲をロメオは歌うことができない。
「それで、何のつもり?」
あんな夢を見たのは彼のせいだ。きっと、彼が同じ声で歌って、指を絡めていたからだ。
恨みがましい気持ちでエルザはロメオを睨む。
「俺は無傷だよ。アッサリ帰してもらえてね」
名残惜しげに指を離して立ち上がったロメオは頼んでもいないのにその場でくるりと回ってみせる。
確かに不自然な動きはないように見える。
「でも、お前の方は当たりだったみたい」
そっと、相変わらずズキズキと痛んでいる頭を撫でられる。包帯が巻かれているようだ。
「いいや、言わなくていいよ。面倒臭そうだし」
ロメオなりの気遣いだろうか。それとも、自分には関係ないとわかっているからだろうか。
「いつから、ここに?」
エルザにとっては重大な問題だった。彼に寝顔を見られたなどと言うことはどうでもいいことだ。
「結構前。あの藪医者が見てろって言うから見ててあげたの」
「そう……」
どれだけ時間が経っているのかはエルザにはよくわからない。
「来る途中で変な赤毛の男にも頼まれたし」
エルザの頭の中を覗いたかのように、ロメオは意地の悪い笑みを見せる。
慧眼に一切の曇りはない。
覆い被さるように見下ろして視線を合わせられれば逸らすこともできずにエルzは思い知る。
「あんな野郎に心奪われてんじゃねぇよ」
怒りに任せた荒々しい言葉だった。顔のすぐ横に彼の手が乱暴に置かれる。
「わかってる。前に言ってた男だって」
《ドラゴン・ハート》での会話を彼は覚えていたらしい。彼の記憶力をエルザは今とても恨めしく感じる。その勘の鋭さも今は全くありがたくないものだ。
「あれはアタシの死神」
「それが、どうしたって?」
全てを否定するような冷たい言葉だった。
鋭利なナイフが眼球に突き付けられているかのようでエルザは動けない。痛みだけではない。金縛りに遭ったかのように体が硬直している。
普段でさえ彼は簡単に勝てるような相手ではないと言うのに、今では分が悪すぎる。
敵わないとわかっているからこそ、身動きしない。
「あの人は真実を知っている。それが、アタシにとって、どれだけ望ましいことかアナタはわかってるでしょ?」
「だから、何?」
今のロメオにとって自分はは〈黒死蝶〉でも〈眠らぬ獅子〉でもなく、ただのエルザなのかもしれない。恐れるに足らぬ年下の女の子にすぎないのかもしれない。
そう思うとエルザは少し怖くなった。今の彼を恐れている。
「忘れるって言えよ。そんな奴のことなんか」
ロメオは言うまで解放しないとでも言いたげだ。エルザが出すどんな答えにも納得しないだろう。
怪我人だからと遠慮はしない。この程度では大怪我とも言えないとわかっているのだろう。
「無理だってわかってるでしょ?」
エルザが選択できないとわかっていて彼は要求してくる。圧倒的に不利な状況に追い込んでおきながら。
「お前が選ぶべきはそいつじゃない。トール・ブラックバーンを選ぶって言えよ」
エルザは弱々しく首を横に振る。そんなことはできるはずがない。そうしないと決めたことだ。たとえ、彼への情を認めても。
「それはアナタが強制することじゃない。嫌だと言ったらどうするの?」
彼だってわかっているはずだ。そのような権限がないことを。
「今、ここにトール・ブラックバーンを呼ぶ。飛んで来るんじゃないかな?」
冷たい笑みを浮かべるロメオは冗談のつもりもないだろう。彼は本気だとわかってしまうからエルザとしては辛いことだ。
本当にトールが飛んで来るかは別として、伝えられるのは非常に困ることだ。トールならば今の状況を良しとしないのはわかっている。
ロメオのことでアルテアのところに乗り込んだ時、彼に言われたことをエルザは忘れてはいない。忘れられるはずがない。傷付いたのだから。
「お願い、彼には知らせないで」
らしくもなくエルザは懇願するしかなかった。それでも、ロメオは揺るがない。
「言ってやればいいんだよ。自分が今誰のために動いてるかって」
「アタシはアタシのため。それから、シリウスのため。それだけ」
全てが彼のためと言うわけでもない。そして、彼のためだとして、それはトール・ブラックバーンだからではない。彼が〈ロイヤル・スター〉だからだ。
彼は家族だが、彼だけを特別扱いすることはできない。
「もういいよ」
パッとロメオが離れるが、彼は根負けしたと認めることはないだろう。エルザも勝ったとは思わない。引き分けでもない。勝てないと思い知ったところで相手が引いたのだから負けと同じだ。
「まだ寝るなら添い寝するよ?」
ロメオはクスクスと妖艶に笑う。抗えないほど濃厚な色気は今のエルザにとっては猛毒だった。吸い込むだけで侵されるようだ。彼の存在はやはり危険だ。
「アナタといるとろくな夢見ないから」
またファウストの夢を見てしまうかもしれない。それはエルザにとって恐ろしいことだった。
彼には彼の選んだ道がある。分かたれた道を引き寄せることはエルザにはできない。ただ自分の道が再び彼の道と交差することを願い続けるしかない。
「じゃあ、帰るけど、泣かないでよね」
「アタシは泣かないわ」
「痛みにも、悲しみにも?」
揶揄するような口振りにエルザは無理矢理笑ってみた。作り物でも笑える気分ではなかった。けれど、笑わなければならなかった。
「アナタの方がよっぽど泣きそうじゃない」
「誰が泣くかよ、バーカ」
声は震えて聞こえた。笑っているのに、今にも泣き出しそうな彼は崩落寸前の崖だ。
「さっさと帰ってよ」
ロメオがいつまでも帰らないからエルザも眠れない。何も考えたくないのに、許されない。
「ずっと、一緒にいてあげるよ?」
本当に泣きそうだ。
エルザはロメオの顔を見ることができなかった。一体、ベッドから起き上がれない今の自分に何ができるのだろう。
彼が求めているのは自分であって自分でない。彼の半身だとわかっていながら何をしてやるべきなのか。
「悲しくないように寂しくないように苦しくないように痛くないように一緒にいてあげる。お望みなら抱き締めてあげる」
聞いている方が泣きたくなるような、今までに聞いたことがないほど優しく甘い声だった。彼のその声で囁かれた女はいるのだろうか。否、そんなことはどうだっていいのだ。
「いいえ、結構」
エルザははね除ける。受け入れて彼と傷の舐め合いをしてやるわけにはいかない。
「泣いて縋れば俺だって優しくしてあげるのに」
そう言いながら笑いながら彼は泣いていて、それでも甘える余地がない。彼は触れさえしない。腕を必死に延ばしても届く位置にいない。
「自分がしてほしいことをアタシに押し付けないでよ」
自らの望みがわかっていながら彼は素直ではない。
本当は泣きたいくせに、プライドの盾を握り締める。
本当は抱き締められたいくせに、誰にもさせない。エルザにできないことをわかっている。
それ以上の言葉は聞きたくないとエルザは目を閉じる。そうしたところで眠れるわけでもないのに、彼に背を向けられるわけでもないのに、ただ死人になろうと思った。
彼が自らの意思でその扉の向こうへ踏み出せるまで。子守歌のつもりなのか、彼だけの歌がやむまで。