動き出した心臓 007
誰か助けてくれと柄にもないことをエルザが思った時、その男はやってきた。
オレンジの髪、赤のチェックとピンクを基調としたパンクファッションはとにかく目立つ。
派手で背も低く、童顔の彼は巷では〈猛虎〉と呼ばれる殺し屋なのだが、子供にしか見えない。
本人もそれを気にしているのだが、シックなスーツを着れば今度は『スーツを着せてもらっている』と笑われるからこそ、自分のスタイルを貫くことにしているのだ。
「おい、お前! ちびすけ! 休憩にどれだけ時間かけてんだよ? 書類チェックしろ!」
とてもそうは見えない上に本人にも自覚があるかどうかは怪しいが、ソフィアの上司のアレッシオである。
ここぞとばかりに『ちびすけ』などと言っているが、二人の身長差はそれほどない。
「頑張ってるのに、アレッシオ氏には扱き使われて、こんなに思ってるのに報われなくて、うわああぁぁん!」
「うるせぇ! ゴチャゴチャ言ってねぇで仕事しろってんだよ!」
アレッシオは元々面倒を見られるようなタイプだ。人に優しくするなどということは行動パターンの中に一切組み込まれていない。容赦という言葉も辞書になく、それこそソフィアを目一杯扱き使っているのである。
仕事さえすればソフィアがエルザを慕っていようとアレッシオにはどうでも良いことだが、こうして堂々とエルザに絡んでサボるようならば咎めるだけだ。
そうしなければ作業効率が下がり、彼が〈上〉から文句を言われるわけだ。
「って、嬢は何してんだよ。このちんちくりんなんかに構ってていいのかよ?」
「良くないの。でも、絡まれたの」
「あー悪ぃな。引きずってでも連れて行くからよ――」
ちっとも悪くなさそうに言うのは少なからずエルザを障害だと思っているからだ。
幼く見える上に、エルザの方がヒールの高い靴を履いている分背が高いぐらいだが、彼の方がずっと年上なのである。
「――ほら、さっさと歩け!」
アレッシオは最早わけのわからないことを喚き散らすソフィアの頭をべちっと叩き、戻るように促す。
「アレッシオ、希望を持たせるようなことはやめてよね」
やはり八つ当たりだった。
彼が悪いわけではないとエルザもわかっているのに、そんなことを言ってしまうのは疲れているからなのかもしれない。
「してねぇよ! 俺は〈猛虎〉様なの! 他人様に夢や希望は与えねぇ。こいつが聞きやしねぇだけだ」
「なんで希望を持っちゃ駄目なんですか!? 二人は好き勝手してるくせに、どうして私はこんなに制限されなきゃいけないんですか!? 夢を見るのも駄目なんて、二人して私のこと人間扱いしてないんですね! ひどいです、鬼! 悪魔! 人でなし! うあぁぁぁぁぁん!」
更にソフィアは文句を言う。客観的に見ればアンダーボスと幹部に噛み付く命知らずであり、とても恐ろしい行為だ。
元より彼女は彼らの地位というものを気にしていないのではなく、正確に認識していないのである。
慈善事業ではないのだから夢も希望も彼らには全く意味のないことだが、ソフィアは努力すれば必ず報われると信じている。
だからこそ二人の言動は理不尽であると主張するが、それこそ理不尽というもので彼らは警告してきたのであり、聞き入れない者に降りかかる災厄までは負えない。
並べ立てる言葉は自他共に認めるサディストと過去を見ても現在を見ても鬼畜としか言いようがない人間には痛くも痒くもないのだ。
「何、二人揃って嬢ちゃん泣かせてやがるんだ? 極悪だぜ!」
泣き喚くソフィアの対処を巡り、ジェスチャーだけで罪の擦り合いを始めていた二人の所に救世主と呼んでいいものか怪しい人間がやってきた。
長身でいかにも屈強な体躯の持ち主だが、ヒップホップファッションに身を包んだ姿はアレッシオと同じぐらいに場違いである。
この〈ヒップホップ野郎〉こそベルナルド、アレッシオの親友とも言うべき存在だ。よく二人で逃げている身で、決して他人を咎められる立場にいるわけでもないが、この場合は生け贄ということにでもなるだろうか。
「まさかアナタ、可愛そうだからって変なこと吹き込んでないでしょうね?」
「そうだそうだっ! お前が怪しいんだよ!」
打ち合わせたわけではないが、エルザとアレッシオはベルナルドに罪を擦り付けようとする。当然、彼は慌てる。
「おいおい……なんの話だ? 一体、俺に何を擦り付けようとしてやがる? 本当に極悪だぜ!」
そもそも部下に尻拭いさせるような二人ではないのだが、ソフィアの件に関しては例外であり、先に抜けた者が勝ちなのである。
ベルナルドの目には極悪な狼と哀れな羊に見えるかもしれないが、二人の主張は善良な狼と馬鹿な羊ということになる。
「俺の部下に手ぇ出すんじゃねぇ! こいつ、いなくなるといつの間にか菓子はなくなってるし、クソジジイに報告書に誤字があるって延々と小言攻撃されるし、レリオはぶっ倒れるしで困るんだからな!」
アレッシオにとってソフィアは極めて重要な存在なのだが、彼自身はその有難味をわかっていない。
だから、感謝を口に出したりはせず、彼女が一派の作業効率アップに貢献することが当然だと考えている。
「どうして、アレッシオさんは私にそういう地味な小汚い仕事ばっかりさせるんですか!? 大体、真面目にやってるような口振りですけど、すぐにベルナルド氏といなくなっちゃうじゃないですか! そーゆーの給料泥棒とか言うんじゃないんですかね?」
ソフィアの仕事はと言えば甘党な男達のためにデスクの菓子を絶やさないことと、報告書のチェックをすること、本来の雑用係であるレリオの体調管理をすることなどである。
レリオは普段はアレッシオのファンであることを公言する変態でしかないが、一度仕事に没頭すると誰かが止めない限り倒れるまで仕事をしてしまうのだ。有能ではあるが、非情に残念な男であると言える。
一派のトップであるはずのアレッシオは長く座っていられず、すぐに同じ属性のベルナルドといなくなってしまう。
「あのな、嬢ちゃんはこの馬鹿のお守りをしてるのが一番いいんだって。エルザ嬢のところは精鋭揃いだし、俺も嬢ちゃんがいると助かるわけでだな……」
「ベルナルド氏がいい加減なことばっかりしてるからじゃないですか!」
ソフィアが上手くやっているからこそ結果が出ているわけだが、彼女はエルザに執着するばかりで知ろうとしない。
ベルナルドもいい加減なようで色々なところに気配りをしているのだ。
「アナタの仕事が地味で小汚いならアタシ達の仕事はなんだってのよ。こっちは地味にも派手にも汚い仕事してるのよ」
ソフィアの仕事など綺麗なもので、彼女は自分の手がどれほど汚れているのか知らないだろうとエルザは思う。
「エルザ嬢、今日はちょっときつすぎるんじゃねぇか? 八つ当たりはよくねぇって。極悪だぜ?」
流石に抑えきれないと判断したベルナルドがエルザに耳打ちする。
「手に負えなくなったら全部アタシに責任押し付けるの? アタシは初めから関わりたくないって言ってるでしょ?」
「で、でもな……」
さすがのベルナルドもエルザが睨めばたじろぐ。
エルザの同性アレルギーはレグルス内では有名な話で、付き纏われて半ば迷惑に思っていることも二人はわかっていたはずだ。
「仕方ねぇだろ? 俺の手には負えねぇんだから。つーか、俺は知らない内にこのわからず屋を押し付けられてるし。保護者誰だよ?」
「あー、どっかの虎の飼育係がいると助かるなぁと思ったのは確かだが、バルドのおっさんの一言で決まっちまってよぉ……まあ、要するに俺は知らねぇってこった」
一応の上司であるはずの男も彼女についての記憶がなく、仲裁に入ったはずのベルナルドも実はよくわかっていないようだ。
「アタシはベルナルドが、って聞いてるわよ? 大体、飲んでたんでしょ? バルドなんか酔ってるに決まってるじゃないの。ただでさえあの人は素面でも自分の発言に全く責任を持てない人なんだから」
はっきりしたことは誰も責任を取れるような状態にないということだ。
バルドとはバルドヴィーノ、幹部の一人だ。アレッシオとベルナルドを年中追いかけ回し、生涯現役を掲げる元気なスキンヘッドの中年男である。
その彼を呼び出したところで「知らん」の一言で終わるに決まっている。普段でさえ物忘れがひどいと言われる男が酒の席でのことなど覚えているはずがない。
「と・に・か・く! 私はアレッシオさんなんかのところで終わる気なんかないんです!」
彼女は馬鹿か勇者かという問いかけは意味がない。
無謀と勇気は紙一重だが、彼女の場合は無知という最も恐ろしいものなのだ。
「てめぇ……! 俺は泣く子も黙る〈猛虎〉様だっての! なんかとか言うんじゃねぇ! 俺をもっと敬いやがれ! このクソガキ!」
〈猛虎〉とは言っても〈眠れる獅子〉に飼われている身分なのだが、大して意味を持たない。
「あなたのどこに敬える要素があるって言うんですか!? あなたにだけはガキって言われたくないですよ! 大して変わらないのに!」
その主張にはエルザとベルナルドも頷く。実にレベルの低い争いだ。
そのまま不毛なやりとりが続き、ベルナルドはほとほと困り果てている様子だ。
うっかり仲裁に入ってしまったことを後悔しているに違いない。
いつもならこうなることもないのだが、今のエルザは頗る機嫌が悪い。
複雑な思いを掲げて半年ぶりに帰ってきたのだから少しは放っておいてくれれば良いものを、と彼は思うのだが、エルザのことに限りソフィアは全く気が利かないのだ。
誰か他の生け贄がこないものかと思っているとそれは寒気を伴ってやってくるのだった。
コホンと咳払いが聞こえ、ひどく厳粛な雰囲気を纏って彼ら三人は近付いてくる。
それは〈上〉あるいは〈高みの見物のおじいちゃん達〉と呼ばれる存在である。先代に仕えていた幹部であり、相当な古株だ。長老という言い方もできる。
その重々しさはまるで葬式というよりは裁判官のようだ。
エルザはそっとベルナルドの影でポケットに手を入れてから、何事もなかったように彼らの前に出る。
「君達は一体何を騒いでいるのだね?」
「……すみません」
真ん中の人物、杖をついた裁判長の如きシモーネ・デ・サンティスの問いに、エルザは少し間をおいて謝罪の言葉を口にする。
逆らってはならない人物の登場に先程まで騒いでいた三人もぴったりと壁際に寄っている。
この場合はエルザしか対処できないのであって、それが正しい判断だ。
「ああ、エリザベッタ・レオーネ。君には話がある。どうか、来てはくれないかね?」
「話ならば先程ロレンツィオと十分にしたと思います」
エルザはまたにっこりと微笑み、穏やかに答える。
こうなってしまえば、どんなことがあっても彼らを守るのがエルザのすべきことである。
「ロレンツィオは君とはあの忌々しきバンディーニのことで騒ぎを起こそうとしたから咎めただけだと言っていたがね?」
老いても野望を秘めた鋭い眼光がエルザを射殺そうとする。
バッティスタ・バンディーニことラサラスのことを話した後のことなど、細かに報告する義務はロレンツィオにはないだろう。別段裏切られた気分にもならない。それが事実だ。
彼らはラサラスを認めていない。常に本名の方で呼ぶことにそれが現れていると言えるだろう。
「ああ、あなたですか? 私の可愛い部下が暴れて怪我をさせたというのは」
シモーネの口振りからエルザはロレンツィオの言葉を思い出す。
ラサラスは粗暴な男ではあるが、本当に頭の良い男だ。
トップを崩せば良いとでも思ったのだろうが、おそらく彼らが大袈裟に騒ぎ立てているだけで、大した怪我でもないはずだ。
「その通り、まさかあれほどダンジョンにいたいとは思わなかった」
「お元気そうで何よりですわ。皆様ご高齢でいらっしゃいますからベッドから起き上がれない身体になってしまっていたらどうしようかと思っていましたの」
エルザは嫌みで返し、ちらりと見ればソフィアが必死に笑いを堪えていた。
「黙れ、呪われ子。この汚れた雌め。災厄ばかりを呼び寄せる貴様もまたダンジョンに入れてやっても良いのだぞ。それとも、もう一度谷に落ちるか」
馬鹿女、と心の中で悪態を吐いた瞬間にエルザの首に杖が突き付けられた。
それが仕込み杖であることをエルザは知っていたし、こうなることも予測済みだった。
避けることもできたが、これを狙っていたと言える。
「……わかりました。この咎は私が受けましょう」
エルザは大人しく従う姿勢を見せた。自分が余計なことをすれば、彼らを守れなくなるとわかっていた。