獣達が帰る場所 008
一体、どこで時間を潰していたのか。
連絡を入れればイグナツィオとはすぐに合流できた。
そして、車は静かに走り出す。南へと向かって。
「……もう一つ、行きたいところがあるの。厳密には二つかしら」
きっと本家に戻ってしまえば、自由は制限される。出ることは暫く困難になるかもしれない。
その前にエルザには行かなければならないところがあった。
今だからこそ、どうしても行きたい場所があった。
あるいは、その場所が自分を呼んでいるような気がしていた。
「わかってるさ」
ふっと微笑んで、イグナツィオは答え合わせをしなかった。
それでも、エルザは彼が自分を運んでくれると信じていた。
フェリックスがエルザに用意していたのは喪服と言って通用するようなワンピースだった。
以前に着ていた物に比べれば飾り気がなく、清楚とも言える。
こうなることがわかっていたのだろうかと思えば買いかぶりすぎだと打ち消す声が心の中で響く。
フェリックスのあの締まりのない表情は思い出したくないものだ。
部下から窘められていたのだから情けないものである。
その黒いワンピースの裾が風に靡く。
それは浅ましくも人間の皮を被った死神の姿か。
花束を持つその手はどこまでも血に塗れ、その体には死の香りが染み付きすぎている。その目はいくつもの死を映した。
そんな女が墓参りなど、ひどく滑稽なことだとエルザはまるで他人事のように自分を感じる。客観的に冷たく自分を分析する。
エルザは時に自分がここに存在しない幻影のように思える。
だが、確かに存在するからこそ彼――エリック・アストンは死んだ。殺されたとは言っても、はエルザが殺すはずだったのだ。
たった十三日間の偽りの友人、十四日目に敵になったその男に憎しみなどないが、胸が痛かった。
もっと早く殺していればと何度も思っても、どうせ殺す気だったのだから追い詰めていたようなものだと打ち消す。
彼が愛した白い花は悲しいほどに美しく咲き誇っている。
その姿に彼の優しい笑顔を思い出してエルザは胸が苦しくなる。
それでも、涙は流れない。
涙を流せば悲しいと思うのは浅はかな考えで哀しみを証明する必要などないのかもしれない。
結局、空虚な女でしかないのだとエルザは自身に言い聞かせる。
あの時、トールの前で涙を流したことが不思議なのだ。
かつてその墓前で彼を殺した彼女達への復讐を誓ったわけではない。
敵討ちなどするつもりはなかった。全ては彼のためなどではなかった。
ただ自分の中の怒りを静めるためには彼女達との関係に決着をつけなければならなかったというだけのことで、あの日、彼を殺し損ねたことがいつまでも残っていたからこそ全ては自分のためだった。
十四日間、それはエルザが彼に与えた残りの時間だ。彼を殺すつもりで近付いて、彼が本当に殺すべき人間であるかを確かめるために自分に期限を与えた。
余命十四日、彼はそんなことも知らずに笑っていた。いつだって、笑っていた。
だが、彼女が彼を殺す執行日、十四日目に惨劇は起きた。裏切りによって。
彼は殺された、ひどい殺され方だった。
殺された理由は殺すべき人間だったからではなく、彼がエルザの近くにいたという理不尽な理由だ。
その十三日間、偽りでも仮初めでも友達だったのだろう。彼がそう言ったのだ
そんな日々の幻影を断ち切る。そのために殺さなければならなかったが、彼はエルザの敵になり、殺された。
もっと早く殺すべきだったが、なぜ、彼があんなに温かく笑うのかをエルザは知りたかった。
そして、今になって漸くその理由がわかった。
今更という言葉すら凍り付くほど、理解に時間がかかったものだと自嘲する。
墓前に捧げた花は悲しいほどに凛と咲き誇っていた。
「本当に醜いのはどこまでも汚れきっていたのはアタシの方だったのよ。リッキー……」
捧げた花の悲しさに思わず握り締めたいという衝動さえ起こるが、エルザはそれを抑え込む。
自分は醜すぎた。やはり天使にはなれないのだと思い知ってエルザは自嘲する。天使になりたかったわけでもない。
いつだって思い上がっているのだ。何もかもが上手くいった時、自分が神のように思えていたのかもしれない。
何もかも自分の思い通りになるようにも感じていたが、所詮ただの人間に過ぎなかった。
このままどこかへ飛んでいくことなどできないのに、風に靡くスカートの裾がエルザには虚しく感じられる。
ただ胸が痛くて、それでも、そんな痛みもやがては何事もなかったように消えていくのだと思うのだ。
「死後の世界があってもアタシはきっとアナタと同じ世界へは行けない。だから、安心して。もう二度と会うことはないから……――サヨナラ、リッキー」
彼へ最後のサヨナラを口にして、エルザは墓に背を向ける。
もう振り返ったりはしない。
きっと、ここに花を捧げに来ることは二度とないのだと思う。
ここへは来ない方が良い、汚れなど必要などないからだ。
だから、最後のサヨナラを告げる。
エリック・アストン――十三日間の友人に、感謝と謝罪を込めて、最後の決別を。
そうして、エルザは戻る。イグナツィオの車へと。今度こそ本家に向かわなければならない。
その前に寄りたい二カ所とは、この墓地と花屋だった。
黙って助手席に乗り込めば彼は黙って車を走らせる。
しばらくは沈黙が続いたが、やがてちらりとエルザを盗み見てイグナツィオは呟く。
「すっきりした顔じゃねぇな」
「決着が付いたんだから、笑えばいいって思う?」
エリックを殺したアナベラとアナイスとの決着がついたのは昨日のことだ。
殺しはしなかった。最終的にはレナードの手に委ねられた。
だが、エルザは晴れ晴れとした気分にはなれなかった。
こういう時、どういう顔をしたら良いか、わからなかった。
「無理に笑ってどうなる?」
今、笑うことが解決になるのか。
イグナツィオはそう言いたいのか。
けれど、元々エルザは心から笑うことなどできない。全ての笑みは作り物だ。
「アタシは間違っていた?」
「運命はいつだって俺達の思うようにはいかない。冷たい言い方かもしれねぇが、そういう運命だったってことさ」
イグナツィオはいつだってエルザに優しい。
エルザは彼を信頼していて、彼もまたそれを返してくれる。
他人は彼を恋人だと言うが、そうではない。
イグナツィオに言わせれば「俺はロリコンじゃない」であり、エルザに言わせれば「なんであんな一回りも年上の陰気な髭を恋人にしなきゃならないのよ」ということになる。
愛などではなく、恋愛などといった感情を超越して、絶対の信頼関係を築き上げている。
まるで二人目の兄のような存在だった。
「なぜ、十四日間の猶予を与えた?」
それは尋問ではなく、優しい口調だった。
すぐに殺してしまわずにあの男を生かした理由を彼はずっと知りたがっていたのだろう。今だからこそ、今でなければ一生聞くことができないと思ったか。
「知りたかったから、かしらね……彼が笑う理由を」
エルザもまた知りたかったのだ。
エリック・アストンはレグルスにとって、特にエルザにとって罪人だった。
それでいながら笑っていた彼が不思議だった。何もかも忘れていた風ではない。それどころか過去に罪を犯し、償いのために花を売るのだと彼は笑った。
笑顔の理由を知りたかったから、二週間というギリギリの時間をエルザは彼に与えたのだ。自ら接触してまで探ろうとした。
「その理由、わかったか?」
「彼はいつだって泣いていたのかもしれない。笑うことしかできなかったのかもしれない。アタシはそう思うわ」
つい先程行き着いた結論だった。
今日は随分と穏やかな運転をすると思いながらエルザは答える。
スピード狂で高速道路はサーキット、アクセルは床につくまで踏み込むものだと思っているような男だ。
それが今日はいつものロック・ミュージックではなくエルザが好きなポップスをかけている。彼なりに気を使っているようだ。
「正解なんてこの世にはねぇし、結局、全てはこじつけかもしれねぇが、間違いじゃねぇと思うぜ?」
「どうして、そう思うの?」
「お前が泣いてるからだよ」
イグナツィオの答えにエルザは笑うこともできなかった。
あの時のように泣いたりしない。痛みにも泣けないのに、あの時だけおかしかったのだ。
心はないとエルザは思っている。
「アタシは泣いてなんかいないわ」
「泣いてるさ、心が泣いてる」
見えるはずもないのに、イグナツィオはやはりロマンティストだった。
「アタシの心はいつだって、血を流しているのかもしれないわね」
「俺にはそうは見えねぇな」
もう何もないはずの心、ぽっかりと開いた穴から何かが抜け落ちていくように自分の血以上に他人の血が流れる。その流血をエルザは止めたかった。
「アタシは空っぽだから」
「そんなことねぇさ。涙を流すことが全てじゃねぇだろ?」
「そうね……そう思うけど、アタシだって、人間でいたいと思うことがあるのよ。おこがましいことかもしれないけれど」
最早、自分は人間と言える存在ではない。
人の皮を被った獣に過ぎないとエルザは常に自分自身に言い聞かせてきた。必死に人間のフリをしているだけに過ぎないのだと。
「お前はいつだって一人ででかいものを背負い込んで、考え込む。俺じゃなくてもいい、誰でもいいからその荷物を分けろ。じゃねぇと、いつか潰れちまう。お前はただの人間なんだから」
ただの人間、定義上人間であってそれ以上であることはない。
けれど、単純な言葉がエルザには嬉しかった。
「お前は人を傷付ける。だが、それ以上に自分を傷付ける。そういう奴が人間じゃなくて、一体誰が人間なんだ?」
エルザは答えずに座席に体を預け、目を閉じる。
咲き誇る花を思い浮かべながらただ流れに身を任せた。