獣達が帰る場所 006
〈カニス・マイヨール〉の近くでイグナツィオは車を停める。
「後で拾いにくる。終わったら、連絡をくれ」
途中寄り道をする気だったエルザとしては有り難い申し出だったが、やはり何かあるのだと思わされる。
「逃げるかもしれないわよ?」
意地悪く笑ってみせても彼は動じない。
「お前はしねぇよ」
居心地が悪くなったのはエルザの方だった。
逃げるつもりはない。逃げられるはずがない。
「アナタはどうするの?」
「適当に時間を潰す」
さっさと降りて行け、とその目が訴えている。信用されすぎるというのも考え物だ。
渋々エルザは車を降りた。
〈カニス・マイヨール〉に入って、まず目が合ったのはフレディだった。そして、すぐにアルドが気付いて向かってくる。エルザにはそれが尻尾を振って寄ってくる犬に見えた。
「エルザ! いらっしゃい」
笑顔を見せたかと思えば、確認するようにエルザを見て、あっという間に表情が曇る。
「な、な、な、何、その怪我……」
「気にしないで」
「き、気にするに決まってるだろ!?」
アルドは動揺していた。
顔の傷は隠そうとすれば大袈裟になり、首の絞め跡を隠す包帯も襟元から覗いてしまっている。左手にも包帯が巻かれていれば何かあったのは一目瞭然だ。
「と、とりあえず、座って! コーヒーだよね、コーヒー。それから今日のオススメのケーキは……」
アルドを制して、エルザはカウンターに向かった。
「しばらく来れなくなるから挨拶に。だから、すぐに帰らなきゃいけないの」
後ろでアルドがシュンとしたのがわかったが、エルザはじっとアダムを見る。
「アダム。アタシ、本家に帰らなきゃいけなくなったけど、アナタは連れて行けないわよ」
「わかってるです。今はここが居場所です」
本家に戻ったところで願いが叶うわけではない。彼もそれをわかっていて信じてくれるのだろう。
そう確認して、エルザは少し安心した。
「会わせてもらえるかわからないけど、ラスのことも探ってくる」
「あんまり無理しちゃダメです」
「アタシは無理するぐらいが丁度いいのよ」
心配される資格はない。エルザが微笑んでみせれば、アダムが眉根を寄せる。
「何があったですか……?」
「まだよくわからない。でも、この辺りはシックスとかフォーとかに任せておけば大丈夫だから」
話せば長くなる。そして、不確かなことをエルザは話したくはなかった。
自分が理解できていないことを正しく伝えられるはずがないのだ。
「グッド・ラックです」
「大丈夫よ。後で、ちゃんと纏めて話すから」
不安げな顔のアルドの頭をポンポンと叩いてエルザは店を後にした。
後ろでアルドの「子供扱いするなよ!」という声がしたが、聞こえないフリをした。
*
彼が生きていた場所、そして、死んでしまった場所にも何かあると立ち寄ってしまう。
今日は捧げる花もない。報告できるほど良いこともない。墓前には彼の無念を晴らすまで立てない。
最近は、死神が現れるスポットにもなりつつある。
今日もまた彼は現れた。黒衣に仮面を付けていても彼にとってリスクの高いことだろうが、これで三度目だ。
一度目は〈ロイヤル・スター〉召集後、二度目は〈毒婦〉の死後に現れている。
ただ、そこに佇む男に気付いてエルザは先手を打つことにした。
「おめでとう、なんてもう言わないでよ。何もめでたくないから」
セルペンスを捕まえたことはエルザにとってめでたいことではない。実際、捕まえたのは兄レナードだ。
そして、犠牲も大きい。〈裏切り屋〉ファウストが〈蝙蝠〉となったまま戻ってこない。
「……わかってる」
オルクスの声は低く、重い。
感情を出さないための仮面だとエルザは思っていたが、顔が隠れているというだけだ。
「これから先、アタシが何かする度に現れるつもり?」
「俺は君が会いたがってるんだと思ってたよ」
「そうね、会いたいのは事実。アナタが思い出させてくれるのなら、もっと良かったのに」
デュオ・ルピ、ジュガ、そして、オルクス。エルザの前には死神が現れる。
忘れてしまった、否、封印されてしまった過去、その鍵を開けられる者は未だいない。
「君が自分で思い出すことだよ」
思い出せ、と彼らは言う。けれど、全てが仕組まれているのなら何者かの都合でしか事は運ばない。
「いつになったら辿り着けるのかわからないのって辛い」
「それが普通だよ」
「いつになれば思い出させてもらえるのかしら」
「残念ながら自分じゃないってのは俺としても悔しいね」
彼の殺意は他の死神に比べれば弱い。あるいは、デュオ・ルピの格が違うのかもしれない。ジュガが嫌悪するほど彼は他とは違う物を背負っているように感じられる。
「早く埋葬されたい」
「骨さえ残してもらえないかも」
「わかってる。アタシは産み落とされるべきじゃなかった。故に、生きていない。だから、生きていた証もいらない。何も残すべきじゃない
「でも、君は残しすぎてる。刻みすぎている」
エルザはそっと目を伏せた。
「この世にアタシが残した爪痕全てを消し去れたらいいのにね」
「そんな空想はらしくもない」
オルクスの言う通りだ。
エルザは仮定を嫌う現実主義者ということになっている。だが、本当にそうなのかはエルザ自身にもわからない。
「だって、そうしたら、アナタを苦しみから解き放ってあげられるじゃない」
彼だけではない。苦しめているのは彼だけではない。
その全てを救う方法があればと、いつも夢想している。口にしないだけだ。
「そうやって、俺を絶望させるんだね。優しさで俺を殺す」
変わらないはずの冷たい仮面の表情が泣き笑いに見えてしまうのは、なぜなのだろう。
彼の声が泣きそうに聞こえるからなのか。
「償いなんて、本当にあるのかしら? 自己満足じゃなくて、本当に埋め合わせなんてできるの?」
彼がどんな償いを望むのか。どう死ねば償えるのか。エルザは彼に聞いてみたかったが、答えはなかった。
「今すぐ死ねば、生まれたことの罪滅ぼしになる?」
自分の魂は永遠に許されなくて良い。けれど、彼らは救われてほしい。そのための最良の方法が知りたかった。
「君にはやらなければいけないことがある。だから、生きてる」
「アタシは矛盾だらけなの。たまに、生きたいのか死にたいのかさえ、わからなくなる」
やらなければならないことのために更なる罪を重ね、それが本当に償いのためなのかと問われれば答えられない。
「俺だって、わからなくなるよ。君を殺したいのか、助けたいのか。いっそ一緒に逃げ出したいのかもね」
「でも、アナタはディース・パテルじゃないし、アタシもプロセルピナじゃない」
ローマ神話における冥界の神ディース・パテル、オルクスはその別名とも言われる。
プロセルピナはディースに連れ去られ、冥界の女王にされた。
だから、エルザは自分の二丁の愛銃の内、左にはディース、右にはオルクスと名を与えた。
「俺がディースだったら、君をプロセルピナにしてあげられたのかな? 君が抱える破滅願望を叶えてあげられたのかな?」
どこか寂しげではあるが、オルクスは笑う。
「夢物語だわ。考えたって気休めにもならない」
本当は、いつだって、どこか遠くへ組織など関係ないところへ連れ出してほしいとさえエルザは思っている。
「だから、もう会わない。次に俺が現れるのは審判の時」
その方が良いのかもしれない。エルザも思っている。情はどうしても移ってしまうだろう。
「その時には、きっと、この仮面を外すよ。無意味だと思うけど」
そっと、その手が真っ白な仮面に触れる。
彼はわかっているのだろう。エルザが既に正体に気付いていることに。
声音を変えるわけでもなく、仮面を外した姿で彼は平然と現れた。そんな物などなくとも、彼は自分を偽れるのではないかと思うほどだ。
とんだポーカーフェイスである。
「なんのことかしら?」
「君は、俺の正体を知ってるのに、暴き立てない」
とぼけたエルザにオルクスが核心に触れる。
正体を暴き立ててほしいとでも言うのか。それでは、エルザの破滅願望を笑えない。
「たとえ、アナタが仮面を外してアタシの前に現れてるのだとしても、それがなければアナタはオルクスじゃないわ。これまでだって、そうだったじゃない。アナタは、アタシの死神。そうでしょ? オルクス」
「俺は、君への憎しみの具現。悲しい一人歩き、それに名前を与えたに過ぎない。哀れな刃」
掲げる人差し指に鋭利な輝き、アーマーリングのようで、ただのアクセサリーでないことは明らかだ。
先日は五指をもっと繊細な細工のそれが覆っていたが、簡易版なのかもしれない。
「アナタも迷子なら、一体、誰が導いてくれるのかしら?」
「復讐は人を盲目にする。でも、俺も君も憎悪に目が眩んでるわけじゃない」
彼がなぜ死神になったのかはわからない。炎に身を焦がしているというよりも、初めて対峙した彼のイメージは海のようだった。
彼には激しさがある。それでも、冷静さがある。
「だから、自分の足で辿り着ける?」
「君には絶望的なほど強い光がついてるよ。その光は俺に届かないだけ」
レナード・レオーネ、その人は太陽の如しと言われる。〈絶対王者〉と言われた初代に最も近き、〈眠れる獅子〉なのだ。
「じゃあ、アタシの影がアナタから光を遠ざけてるのね」
そして、もう話すことはないばかりに、オルクスは去って行った。