漆黒の狩人 006
アダムが やってきて初めての定休日、彼は午後から厨房にいた。
菓子作りが趣味だという彼の腕前を見ることになったのだ。だが、フレディは出かけて行き、店にはアルドとアダムの二人だけになった。
何もすることがないアルドはカウンターに座りながら、アダムの作業を眺めていた。彼の料理の腕は既にアルドも知っているが、菓子作りの手際も良い。
まだウェーズリーの存在はアルドの中で大きく主張するが、それでも打ち解けてきているつもりではあった。
「あのさ、アダム……聞きたいことがあるんだけど」
オーブンに生地を入れ、片付けを始めたアダムを手伝いながら、アルドはゆっくりと口を開いた。どうしても気になっていることがあった。
「なんです?」
「エリック、って人のこと、わかる?」
妙に緊張しながらアルドはその名前を口にする。フレディがいない今なら聞ける気がした。
「エリック……? ま、まさか、エリック・アストンです?」
アダムは眉根を寄せ、体も強張っていた。まずいことを聞いたのかもしれないと感じながらアルドは頷く。
「それ、誰から聞いたです?」
アダムはまるでその名前を聞くことがありえないと言った様子だ。彼にとってもタブーのようだ。
「エルザからだけど……」
本当は最初にその名前を口にしたのはエルザではなかったが、アルドはその経緯を省くことにした。強ち嘘でもない。
「エルザ様がお話しになったですか?」
アダムは信じられないと言った様子で問いかけてきた。しかし、アルドが頷くと考え込む仕草を見せた。
「殺すために近付いて十三日一緒にいたって……ただの花屋だったって」
アルドは疑われているような気分になったが、アダムは何かを納得した様子だった。
ホッとしながらも、アルドは本当に聞いてしまって良かったのかと少しばかり後悔もした。今更なかったことにもできないのだが。
「僕も詳しいことは知らないです。組織のことも本当は話しちゃいけないですけど……エルザ様のこと誤解しないでほしいから言っておくです」
アダムは困惑しきっているようにも見えたが、やがて決意したようにじっとアルドを見る。
「確かにエリック・アストンをエルザ様は殺そうとしてたです。十三日一緒にいたのは見極めるため、エルザ様には知りたいことがあったみたいです」
「それが何かは……」
「エルザ様にとってエリック・アストン……リッキーってエルザ様は呼んでたですけど、それは大きな傷です。あの方の腹心ですら踏み込めない領域です」
アダムの声は重く、アルドは押し潰されそうでさえあった。それでもまだアルドが知りたいことには足りない。
「そもそも、エルザ様は殺すって言葉を使い分ける人です。僕達には絶対わからないですけど、本人の中では明確な区別があります。少なくともエリック・アストンの時は肉体的に殺すつもりなんかなかったです」
「それって、どういうことなの?」
「死んだことにして、どこか遠い場所で新たな人生を与える。そういうことです」
アダムはただの料理人だったとは言い切れない。少なくともアルドはそう思っていた。
先日の話にしてもそうだ。実際にレグルスでエルザ達の世界を見ているのだ。アルドにはやはり現実味の欠けたものに思えてならなかった。
「エリックさんを殺したのは今でも誰かわかってないですけど、エルザ様は自分が殺したって思ってるです。どうせ、殺すつもりだったから同じだって言うです。でも、あの時の目は見てられなかったです。エルザ様にとってエリックさんは確かに十三日だけでもお友達だったです」
自分の知らない誰か、ウェーズリーよりも前にエルザが死なせたという男、それが死なせたという単純な言葉では済まないのだとアルドは気付く。
そして、エドが動揺していたと言ったことと重なる。
「もしかして、エリックさんを殺したのはヘルクレスの可能性があるんじゃ……」
「そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれないです。エルザ様を憎んでる人っていっぱいいるです。レグルスの内部にさえいっぱいいるのに、外はわからないです」
ウェーズリーはヘルクレスに殺され、エリックもまたヘルクレスに殺されたのだとすれば繋がるものがある。けれど、アダムにも断言できないほどエルザには理由があるようだった。
「ある人がエルザは私怨でヘルクレスと戦ってるって言ったんだ」
その言葉でアルドはエルザのことがわからなくなった。敵を討つと言いながら彼女にとっては『ついで』ではないかとすらアルドは思うようになっていた。
「それはエルザ様の宿命、とても大きくて、あまりに悲しすぎる理由です」
アダムは否定も肯定もしなかった。もう話せないと目が訴えている。
それからはハッとした様子でキョロキョロと辺りを見回し始めた。
どこからともなくエルザが出てくるわけでもないし、とアルドは言いたくもなる。だが、そもそも彼女は変装して見せに紛れ込んでいたのだから何があっても不思議ではない。
「僕がこんなに喋ったなんて内緒ですよ? エルザ様、あれでも温厚な方で普段は滅多にお怒りにならないですけど、ほら、お喋りって長生きしないって言われるですから」
「でも、俺、この前叩かれたよ」
不意にアルドは思い出す。すると、アダムは血相を変えた。
「うわっ、アルドさん、何したですかっ!?」
「な、何もしてないよ! ただ、ちょっとあの時はどうかしてて、ひどいこと言ったけど……」
「あの方、アバズレって言われても笑ってる人ですよ?」
「嘘吐きって言っちゃったけど、それは叩かれた後だし……」
「エルザ様はそんなの慣れっこです。貧乳も幼児体型も色気がないとかもセーフですよ?」
「い、言わないよ! そ、そんなこと!」
まるでこの世の終わりのようにアダムが言うのは大袈裟だとアルドは感じた。しかし、次第に記憶が戻ってくる。
「あ、ウェズの敵が目の前にいたから、その、殺せって言っちゃったんだ……」
アダムは完全に沈黙し、その顔からはすっかり笑みが消えていた。
「……アルドさん、それ、完全にアウトです」
叩かれても仕方がないと言いたげだった。
「エルザ様は『殺す』って言葉を嫌う人です。憎んでるです」
「殺し屋なのに?」
「殺し屋だから、かもです。あの方は、殺す覚悟も、殺される覚悟もあるです。けれど、そうでない人間は、あの方の前で軽々しく、殺すとか、死ねとか言ってはいけないです。たとえ、どんな理由があっても」
アダムは言葉を選ぶようにしながらゆっくりと語った。それらはアルドの耳を掠めて通り抜けていく。銃口を向けてしまったこともあるなどとは決して言えるような空気ではなかった。
「エルザ様は雁字搦めってくらい自分を戒める方ですから、『もしも』もお嫌いです」
「俺はエルザのことがわからないよ……殺し屋って悪い奴だろ?」
「なら、アルドさんは正義です?」
「俺はそんなに高等な人間じゃないよ」
「どっちでもないです?」
アダムの問いさえアルドにはリアルではなかった。犯罪には手を染めないが、正義と言えるような貢献もしていない。悪は中央より外にいて、正義は警察、どちらとも関わらないからこそ完全な中立、そう信じていた。つい先日まではそうだと思い込んでいた。
「彼女は俺の悪だったが、俺は彼女の悪でなければ正義ですらなかった。俺が信じてきた正義は彼女を守らなかったが、彼女が信じる正義は俺を守っていた。だから、俺は俺の偽りの正義を捨て、彼女の真の正義を信じる」
アダムは淡々とその言葉を紡ぐ。彼自身の言葉ではないのだろう。まるで誰かの言葉を暗記しているようだ。
「ある人の言葉です。今はレグルスに身を置いてるですが、元は軍警に所属してましたです」
「軍警……」
アルドは自分が漠然と正義と思っていたものさえ崩れ去っていく気がした。
それは一であって全ではないが、アルドの狭い世界ではどちらも大差ないものであったのかもしれない。
「その人はエルザ様と共に戦うために自らの存在を抹消しました」
エルザという人間にそれほどの価値があるのか。疑問はまた積み重なった。
「結局、この街では自分を信じて生きてくしかないです。エルザ様は自分の法律も宗教も持ってます」
わかっていたはずのことが今になって重くのしかかってくるのは、わかっていなかったということになる。
掃き溜めの街と言われようと法はある。大抵は無宗教だが、禁止されているわけでもない。
けれども、自らの法と宗教を作り上げるというのは彼女が法を侵す者だからだとアルドは思ってしまう。
彼女のことを知るほどに人殺しだという意識が薄れていく。そう感じる度にアルドは打ち消してきたが、アダムを見ているとそれが無意味なようにも思える。
「エルザって、なんて言うか、その……ストイックなんだね」
「そうです。完璧主義でワーカホリックで、他人には優しいですけど、自分には物凄く厳しいです。その上、女の子が言っちゃいけないようなこと平気でポンポン言うですし、そもそも考え方が全然女の子じゃないです。おモテになるのに誰のモノにもならないっていう掟持ってますですし。だから、ラサラスさんなんか、ほとんど男として扱ってましたです」
暴漢を追い返した日の彼女の言葉を思い出す。しかし、アダムが言うほど汚い言葉を彼女が使った記憶はアルドにはない。黒衣の男と遭遇した時でさえ彼女は冷静だった。
「エドさんが、エルザのことを普通の女の子として扱うんだ。多分、ジムさんや父さんも……」
常連のエドやジムのことはアダムも既に知っている。二人は事情を聞いてすぐにアダムのことを受け入れた。
アダムを受け入れることとエルザを受け入れることは全く違うというのがアルドの考えだ。だからこそ、他人と自分の考え方の違うに戸惑う。
「エルザ様は普段は猫被ってるって言うとちょっと違うですけど、牙も爪も見せないです。だから、ゴシックで、パンクで、ちょっと変ですけど、普通の女の子です」
アダムの言葉で、初めてエルザを見た時のことがアルドの脳裏に蘇る。
ひどく華奢で、吸い込まれるような青い瞳をしていた彼女にアルドは目を奪われた。あの時は彼女が南最強の殺し屋などとは微塵も思わなかった。ヴィオレッタであった時もベティーであった時も、今でさえまだどこかでは嘘ではないかと思っている。
アルドの中で殺し屋は粗野なイメージだったが、彼女は全く違った。美しく、気品さえ感じた。獣と彼女は言うが、下等な生き物にはありえない気高さがある。
「エルザ様は生まれた時から殺し屋になる宿命を背負ってて、辛い人生送ってるですから、本当は普通の女の子に憧れてるです。でも、なれないとわかってるから女性とはお関わりにならないです。男社会ですし」
現在があるのだからエルザにも歩んできた人生というものがあるということだ。
アルドは殺し屋というだけで彼女の存在から目を逸らしていた。殺し屋というものは望んでなるもの、堕ちた果てにあるものだと考えていたのに彼女はそうは見えない。
「エルザ様は笑うことも泣くこともできないお方です。笑顔を作るのがお上手ですけど、本当に笑ったことはないです。それでも、いつか、笑ってくれると僕達は信じてるです」
アルドには彼女が普通の心を持った人間にしか見えないことがあった。偽称しているような狡猾さもなく、殺し屋という事実に戸惑いを覚えるほどに。
確かに感情の起伏は緩やかであり、抑え込んでいるように見えることもあるが、人の心がないようには見えなかった。
「だから、アルドさんも変に意識しないで自然に接してあげてくださいです。エルザ様は絶対に噛まないですから」
「動物みたいに言うんだね」
切なる願いであるはずなのに、アルドは思わず笑ってしまった。アダムもまたつられたように笑う。
「レグルスの人はみんなエルザ様を猫だと思ってるです」
アルドは猫になったエルザを想像してみたが、思いっきり引っかかれて噛まれるところが浮かんで身の危険を感じた。
「あの方は、僕達とは違う感覚を持ってるです。その勘の鋭さは尋常じゃないです。千里眼って言われるぐらいにです。でも、肝心なことは相手を気遣って言わない方なので、納得できないこともあるかもですけど、信じてあげてくださいです。とても優しい方ですから」
アダムが口にするのはアルドの心にかかる靄の正体だったのかもしれない。
それはエルザ自身の言葉とも重なる気がした。
『彼は、嘘は吐かない。でも、真実を全て話すような男じゃない』
黒衣の男のことを言ったはずだが、エルザ自身を表しているようでもある。
アルドにはエルザが一人で違う何かを見詰めているように見えた。不確かなことは言ってくれないから不安になるのだ。
本当に確かなことしか信じられないというのもある。とにかく現状にアルドの心は拒絶反応を示しているのだった。




